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- 2004年12月02日(木)
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- 茶髪禁止?・・・最近のニュースにツッコミ(2)
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日本高野連(日本高校野球連盟)の脇村春夫会長が、 野球部員がまゆ毛にそり込みを入れたり、髪を茶色に染めたりすることを禁止、 指導者に対し、校則違反がないように徹底して試合に臨んでほしいと注文した。
高校野球のテレビ中継を見た視聴者から一部選手の姿への苦情が 最近、日本高野連に相次いでいた。日本高野連の事務局長は 「目にあまる乱れ。学校側にしっかり指導してほしいと期待している」と説明した。
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昔はこの手の記事を見ると、
「規則規則って、そんなに抑え付けたいのか?」とか、 「戦時中の軍隊みたいに皆同じがそんなにいいのか?」とか、 「茶髪などの見てくれで人間の中身を決めるな!」とか、 「お前らが描く古い『高校球児らしさ』を、今に押し付けるな!」などと、
すぐさま吠えてたりした。ちなみに私は昔、甲子園を目指してた高校球児です。 でも、今はオトナなので、よく考えてから吠えさせていただきます。
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「規則を守ってほしい」と仰っている。 「スポーツをやるにもだらしなくしないで、身だしなみを整えなさい」と仰っている。
とても同感である。そういう意図であるならば・・・。 しかし、高野連会長の云い方が、とてもそのように聞こえない。
「『茶髪』とかは『高校球児らしく』ない。 そういうことは校則違反なので守らせなさい」
単にこのように聞こえるのである。 何か違和感があり、何かおかしい感じがしてしまう。
校則とは何か?茶髪が今そんなにいけないのか?高校生らしさって何だろうか? まず、「校則」に焦点を当ててみる。
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校則はいわゆる「規則」である。 では「規則」とは何だろうか?
ちなみに「法律」とは、社会が課す最低限のマナーでありモラルである。 社会で暮らす人々は皆、必ず守らなければいけないものとして認識する一方、 他人にも守ってもらいたいと、皆が期待をしているものである。
一方で「規則」とは、 規則を定めた組織が、組織の構成員に求める「行動指針」である。 組織が掲げる理想の実現を目的とし、その理想へ構成員を近付けさせるためものである。 そのために、 (1)守らなければ、他人に迷惑をかけてしまう項目もあれば、 (2)守らなくとも、組織の期待に背くだけで、他人には何一つ害は及ぼさない項目もある。
後者(2)のような規則の遵守度は、組織が掲げる理想とする内容に深く関係してくる。 交通規則などは殆どの項目は前者(1)だ。規則がなければ、道路上が大混乱して 渋滞や事故が起こるだろう。「円滑な交通秩序」という理想に賛同出来るから遵守度は高い。
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社則は、会社が求める理想に 賛同する者でなければ守れない。
会社には社則がある。そこに「朝8時出勤」という項目があったとする。 「9時」だっていいじゃん、とは思うものの、朝早くからの行動が、単なる精神論ではなく、 一日の仕事の効率を考える意味で有利だということが理解できる者は守ろうとするが、 それが理解できない者は文句を云う。法律や交通規則よりは遵守度は下がる。
仮に「我社の社員たるもの全員アフロで決めるべし!」という項目が社則にあったとしたら、 社員の殆どは、その項目の先にある会社の理想や理念が理解しがたく、遵守度が低いどころか、 会社に人は来なくなるだろう。しかし会社は、アフロ社員で組織を構成したいという理想 があるからこそ、その理想を社則に込めて賛同者するものだけを集めようとしているのだ。 賛同できなくて守れない者は、その会社を辞めればよい。社則とはそういうものである。
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小中学校の校則は、 「規則なんだからとにかく守れ」という一律指導で、 遵法意識と協調性を学ばせるためのもの。
校則は、嫌なら学校に行かなきゃいいという訳にはいかない。 義務教育では皆が通い、様々な個性や価値観の子がいるにもかかわらず、 学校では先の(2)のような、身なりを一律に同質化しようとする項目を設けている。 つまりは、スカートは床から○cmとか、靴下の色とか、「茶髪禁止」などである。
しかし俺は、義務教育でそれらを「とにかく規則なんだから守れ」と、機械的に教え 続けているのは或る意味アリだと思う。あくまで人間性を育てる指導が伴っての話だが…。 何故なら「遵法意識」とは、誰かが教えなければ絶対に身に付かないからだ。
反対に、自主性や個性は教えなくとも自然と備わってくるもの。 そもそも人間は 生まれた時から自己中心的な存在としてスタートしてるわけだから、本能が教えてくれる。 それこそ「遵法意識」を教えなければ、「ジコチュー」だけが育っていくだけだ。 本当の自主性や個性は、遵法意識や協調性を学ばないと生まれて来ないものだ。
デキる生徒は先生に聞くだろう。「服装に関する規則は何のためにあるのですか?」と。 先生は、「学生らしくあるために必要」とか答えるしかない。なぜならば、義務教育学校の校則は、 生徒に向けられているというよりも、生徒の親に向けられて作られているからだ。 親が学校に対して、我子を「学生らしく」させてほしいと望むからそういう校則を設けている。 学校も親に対して、我が校はこういう校則で、清々しい生徒を育てられますと主張する。 義務教育では親の要請に基づき、子供に「学生の理想像」や「世間一般の遵法意識」を 学ばせる期間だから、一律に「規則を守れ」という指導も小中学校ではアリなのだと思う。
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高校生になれば 校則の意味を問うようになり、 「とにかく守れ」には反発する。
だが、高校は違う。 生徒は、中学までで「世間が求める理想像」を学んだ上で、それと照らし合わせながら、 自分とは何かを考え始めている。「遵法意識」を学んだ上で、社会と照らし合わせながら、 自分に必要なものが何かを考え始めている。
高校は、ただ単に「規則だから守りなさい」と教える時期ではないのである。
規則が設けられている意味を考えて、それは意味の無い事だと判断したならば、 もしくは、自分の自己主張の方向性と規則が異なると思ったならば、規則を守らない。 単なるわがままの場合もあるが、或る意味社会的な判断が育ち始めている証拠だ。
そもそも身なりに関する校則は小中学校同様に一律に親に向けられたもので、 個々の生徒に向けられて作られてはいない。少なくとも生徒の個性を育てる意味では、 一律に定めておく必要はなくなるはず。高校になると生徒はそこに気付き出す。
高校では、規則の意味を教えた上で、守るか否かは自発性に任せるべきではないか。
ようやく、本題に戻って来たが、 俺は「規則を守れ」ということそのものには反対しないが、 高校生に対して、ただ単に「守れ」と 指導するのは間違ってると思う。
それを高野連会長は「校則違反をしないようにしっかり指導してほしい」と云っている。 上記の深い意味を込めて、「指導」と云っているようには聞こえないのだ。
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「茶髪」って今の時代、 そんなに駄目か?!
もうひとつ、「茶髪」って今の時代、そんなに駄目であろうか? 高野連会長の時代はそりゃ〜社会人の身なりとしてだって考えられない時代だったろう。
身なりに心が現れるということを肯定したとしても、今の時代、「茶髪」にしている人を見て、 決して「浮ついている」とか「どこかだらしない」と一般の人が思うだろうか?。
また、報道されている「苦情をいった人」というのは、一体どういう人なのだろうか。 昔良き時代を懐かしむ高齢の高校野球ファンならびに経験者だろうと想像するが、 おそらく自分と同じ世代の若い人も含まれているだろう。 今の時代の物差しから見れば、その苦情をいった一部の人の方が、世間ずれした オカタイ一部の方々なのではないか?高野連は、そういう一部の人の物差しに、 我が心の高校野球を合わせていきたいのだろうか?
もしくは、彼らの「昔良き時代の清々しさ」は「伝統」であって、時代が変わっても 捨ててはいけないという理屈だろうか。それが伝統であるならば、俺は要らない。 彼等が云う「昔良き時代の〜」は、俺から見れば単なる「戦時中の全体思想的」な 姿にしか見えない。確かに皆が同じ制服で颯爽と入場行進する姿は、「統一感」という 美しさがあることは否定しない。ただしそれは、それだけのものであって、あくまで、 統一性という「技術」の美しさである。それは捨てなくて良い。その統一感や同一性を 個々の高校球児の、身なりを含めた人間そのものに押し付けようとする事がおかしいと思う
「茶髪なんてけしからん」「目に余る乱れ」という言葉に、 そういう全体思想の面影を見るような嫌悪感を抱いてしまう。
そり込みというのは美的感覚として俺は駄目だが、なぜ茶髪が一律に禁止なのか? 茶髪でも今の時代は充分清々しいと思うのだが…、そんなに彼等には見苦しいのだろうか? 高野連の云う古い「高校球児らしさ」に照らし合わせたら、違和感があるのかもしれない。
勘違いしないでほしいのは、「茶髪」がいい、と云いたいのではない。それは人の好みだ。 云いたいのは「一律に禁止」しようとする行為と、その背後にある時代錯誤の理想像を 押し付けようとする主張に対してである。茶髪だろうがアフロだろうがよいのである。
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たとえば、俺が監督として、 茶髪を指導しなければいけないならば、 茶髪選手を呼んで下記のように教える。
「オマエら、茶髪・剃り込み入れてるからには、それ以上の自己表現をグラウンドで 発揮出来るんだろうな?俺の云ってる事分かるよな?グラウンドで活躍出来た時初めて、 その頭は光るトレードマークになって、カッコイイといわれるかもしれない。しかし、 出来なきゃ陳腐な虚飾と化して、どうしようもなくカッコ悪いだけ。野球で自己表現 出来ないから、安易に茶髪や剃り込みに逃げていると誰もそういう目で見るぞ。 オマエら、そのプレッシャーに耐えられるか?耐えられないなら、茶髪止めるか、 野球辞めるか、どっちかだな。どちらを選択しようとも俺は構わない。」
「規則」を教えるのではなく、「志の持ち方」を教えるべし。
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