考えてみれば、江戸時代は今よりずっと「死」が身近だったはずで、
特に子どもが成長途中で病気や事故で亡くなることは多かっただろうし、
もちろん成長してからも、今では薬や手術で完治できることが命取りだったはずで。
だから、たとえ短命でも「これが寿命」「これがさだめ」と、
受け入れる覚悟はしっかりできていた時代だったに違いなく。
そういう時代だからこそ「長寿」は何よりも価値があるように思われたかもしれませんが、
反対に、そういう時代だからこそ、「Quality of Life」なんて言葉などなくても、
短くても精一杯生きること、自分なりに納得して生ききれること、の大切さがわかっていた時代
なのかもしれませぬね。
仁先生は、その「Quality of Life」のための医療を現代で叩き込まれてきたはずなのです。
それなのに、歴史の修正力への対抗心に燃えるあまり、やけに「延命」ばかりにとらわれてしまった。
その「延命」ですら、結局ほんのわずかだけ伸ばすことしかできていないのではないか、
いやむしろ、結局自分は誰も助けておらず(その人の寿命に従っただけ)、結局何も変えてはいないのではないか、
と、再びの無力感にうちひしがれる仁先生。
それに対して咲ちゃんの言葉。
「延命だけではいけないのですか? すべての医術は所詮、延命にしか過ぎぬのではございませぬか?
未来はいかに進んでいるかは存じませぬが、人はやはり、死ぬのでございましょう?
(歴史の修正力に)勝つの負けるのおっしゃいますが、吉十郎さんを鉛中毒から救い、
70まで生き延びさせたとしても、先生がここに来る前からそういうさだめだとしたら、
それだって勝ったということにはならないのではございませぬか?」
咲ちゃん、例によって素直で柔軟な感性で、真理をさらっと口になさいます。
でも、こう言われてしまったら、
「じゃあ、わたしは何のためにここに送られてきたのでしょうか。」
という仁先生の疑問はごもっとも。というか仁先生のみならず、視聴者全員の問いでございますからそれは。
坂東吉十郎を演じたシゲさん(おいっ)は、まんま病人のようなコケ方やつれ方すさみ方で迫力ありましたなー。
最大限の治療をしても結局舞台直前に倒れ、「芝居は俺だけのものじゃないよな」と、自ら身を引く吉十郎。
寝ている吉十郎の耳に木の音が聞こえてくるのがなんとも哀しい。
サポーターを着けて寝床の上で芝居をしてみせる吉十郎に、それまでひと言も口をきかなかったよきちが
「大和屋!」の声を掛けるあたりは泣けますな。
もう一度舞台に立つ以上に価値のある、役者人生最高の幕引きができたわけですから。
でもよきちの背中を押したのは咲ちゃんだ。どこまでも人の気持ちがよくわかる咲ちゃんだ。
「つかのまの延命は、もしかしたら延命にすらなっていないのかもしれない。
こうしたことで、命を縮めた可能性すらある。
だけどこの瞬間には、長さでは語れない命の意味がある。
残された時間を輝かせるという、医療の意味がある。
世代を超え、受け継がれてゆく芸のように、世の営みを超えてゆくもの。
歴史の修正力に抗えるものを、俺も残したい。」
仁先生は本当に何のためにここに送られてきたのでしょう。歴史に何を残されるのでしょうね。
では最後に本日の咲ちゃん(&その他のツボ)。
・庭石を動かそうと「ふんっ! ふんっ! ふーーーんっ!」とがんばる咲ちゃん。
(その姿勢は腰を痛めますよ。ちゃんと足広げて膝曲げて腰落さないと。仁先生ちゃんと教えたらんかい。)
・ペニシリンの粉末化に最大の貢献をしてしまった咲ちゃん。白濁した液体に「何ゆえ?」と驚く顔がちょーらぶりー♪
・すでに寺田屋事件まできてしまった龍馬さんと関わるのは危険、と、ペニシリンを届けるのをためらう仁先生に、
「では何のために粉末化を?」「ここで行かずしてどこで行くのですか?」といつもかわいい笑顔で勇敢な咲ちゃん。
「これは仁友堂の使命でございます。」龍馬さんのとこへ行くのねー。
・がんばったつるつるおにぎり漢方医、福田。
・「わたしは医術を極めたい。だからあなたが最後まで芸を極めたいという気持ちもわかる。」佐分利センセかっけー!
・よきち。役者としての将来が楽しみなお顔立ちだ。
「マルモのおきて」もどんどん楽しくなってきましたよー。なごむわー。これはまた後日。
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