せらび c'est la vie |目次|昨日|翌日|
みぃ
このところだらだらと愚痴を垂れている例の馬鹿女についてだが、ワタシはもうすっかり頭に来て、とうとう先日は「蟹座の満月」だというのを承知の上で、これまでの先方の所業に関しての苦情を一筆申し上げるに至った。 それには、これまであちらの所為でどれだけ引きずり回されながらも何とか企画を成立させる為にこちらが努力を重ねて来たかについて、言葉を選んで述べた。 それはひょっとして先方が将来的に、突如血迷って「法的解決」に持ち込もうなどというような事を考え出した場合にもちゃんと対応出来るように、こちらは必要な事を必要な時にやって来たのだ、という事が分かるように、文章にしておいたのである。 またそれは、途中からこの企画に加わったスタッフにも一部始終が分かるように、これまでてんでんばらばらに物を言っていた人々にも「一寸黙れ」という意味も込められている。 事情を正確に理解していない癖に、ああだこうだと知ったような口を利く馬鹿というのは、何処の世界にも居るものである。 さて、ワタシはそういう訳でこのところこの問題にすっかり煩わされていて、本来業務の方はすっかり遅れているし、その他の通常のワタシの穏やかな暮らしは随分脅かされている。 先日も例によってヴォランティア活動をしに出掛けたのだが、折角楽しく有意義な一日を過ごしたのに、この馬鹿女を初めとした非常識な人々が持ち込む色々の諸問題のお陰で、その事を日記に書きそびれてしまった。 それはある公立小学校の図書室の整備というものであった。 この街では、公立学校に対する予算が減らされた所為で、学校図書館の「司書」という特殊な訓練を積んだ職員数が欠乏している。また、人々は進んで蔵書の寄付などするのだが、それにラベルを付けてから決められた通りに書棚に整理するという作業をする人手が無く、気の毒な事に多くの優れた書物が置き去りにされているところが多い。 ワタシの関わっているヴォランティア団体では、そうした学校図書館へ時折一定の人々を送り込み、一日がかりで一斉にそれを整備する、というのをやっている。 ワタシもそれに加わって先日行って来たのだが、ある小学校の小さな図書室が半日程で機能可能に整えられて行く様子を目の当たりにして、ワタシはこういう仕事はひとりで何日も掛けて黙々とやるよりは、大人数を借りて来て一斉にやるのが最適であると学んだ。 朝飯に珈琲と卵やハムの挟まった温かいサンドウィッチ、小腹が空いたなと思った頃には、昼飯にと大きなピザパイとソーダが届く。 それを適当に作業の手を休めて口に入れながら、ワタシたちは無造作に箱に入れられた本を低学年向けの簡単なフィクションと高学年向けのフィクションとに分け、それから恐らく世界中の図書館で採用されていると思われるやり方、つまり分野毎に番号を割り振ってその番号の順に並べていく方式でもって、それらの本を一斉に整理して書棚に並べていく。 ワタシは普段の生活でも多くの本に囲まれて暮らしているので、子供たちがこれらの本を手にしながら、目を輝かせて新しい情報に触れるところを想像して、わくわくしながら作業に勤しんだ。 例によって、こうしたヴォランティア活動にやって来る人々というのは、街の社会福祉に志のある好人物が多いので、作業の合間にお喋りなどしながら、手は休めずてきぱきと作業を進める。自分の担当した部署の整理が終わると、未だ終わっていない部署に取り掛かったり他の人の分も手伝うなど、率先して作業をする。 ワタシたちはその日、予定したより数人少なかったらしいのだが、それでも予定の時間までに全ての作業を完了したので、先方の図書館司書女史も大変喜んでいた。 ワタシが担当した部署は、500番台の所謂「科学系」の書物だったのだが、小学校というところでは意外とこの系統の書物が他より多くて、それに気付かずに手を付けてしまったワタシは、後から中々終わらないそれらの多さに気付いて一寸後悔した。お陰で時間一杯掛かってしまったが、それでも既に他所を終えた人々と手分けして進めたので、終わる頃にはその綺麗に並べられた様子を見ながらすっかり満足し、さあ子供たちよ、良い本を沢山読むのだよ、と密かに念じながら、小さな図書室を後にした。 これだったら、またやっても良いな。 帰り道、普段は乗らない街中のバスを待ちながら、ワタシは再び、小さな子供たちが本を手にあれやこれやの新発見をするところを想像しながら、微笑ましく思う。 子供というのは、社会の宝である。 ワタシは自分が社会の一員であるという自覚をそれなりに持っているので、時折子供たちに接する機会があると、良いものは進んで奨励し、間違いは間違いでいけないと諭し、出来るだけ彼らの教育に参加するように心掛けている。 こうした活動の中でも出来るだけ子供たちの教育や余暇に関する物を選んでやるようにしているのだけれども、特に親が子育てに手間を掛けていない場合が多い昨今なので、尚更そういう機会には子供たちひとりひとりの個性を見つけ、それぞれに注意を払うようにしている。親の手が届かないところは、社会の大人が手分けして構ってやる必要がある。 この間も若い人々と話をしていて、ワタシは高校というところを最後まで修めなかった(どころか半年も行かなかった)けれども、それでも最終的には大学院まで行ったのだという話になったら、若者たちは不思議そうな顔をしてワタシの話を聞いていた。 そういう顔を見ると、こんなワタシの生き方でも、誰かの何かの役に立つのかも知れないと思ったりする。「下の世代を育てる」という事をそれなりに念頭に置きながら、ワタシは結果的に自分自身も育てているのだと思う。 自分の今の暮らしは、未だ落着かない「過渡期」ではあるけれども、しかしそうは言っても、全ての物事は所詮「途中段階」である筈である。人生とは、「プロセス」である。 そういう事をいつまでも言っていると、「実績」はどうしたのだといって爪弾きにされる訳だが。 ワタシはそういう訳で、長らく子供も居ない未婚女性として暮らしているけれども、それを特に悪いと思っていないのは、そういう次第である。このまま子供を持たず、結婚もせずに一生を終えようとは今のところ決めた訳では無いけれども、しかし当面は人様の子供の事も考えながら生きているから、それで勘弁してくださいな、の意である。 昨夜の雪が、未だ残っている。 大家さんちの庭に突き出た大木の枝に、雀やそれより一寸ばかし大き目の黒い鳥が沢山止まって、日向ぼっこをしている。強風にも負けずに、枝に張り付いている。 日本ではとんでもない大雪で、死人も出たりしているそうだが、この界隈ではこのところ暖かい日が続いていた。 急に冷え込んで来たので、今日は洗濯屋に行くつもりだったのを止す。序でに買い物にも行くつもりだったのだが、そういう次第なので今日は冷蔵庫の掃除を兼ねて、ある物で適当に済ませる事にする。 連休中に本来業務的作業を少しでも進める事にする。
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