せらび c'est la vie |目次|昨日|翌日|
みぃ
奴は続けた。 俺の知らないところで、君が色々と噂を流しているのは、聞いてます。 はあ?「噂」って、どういう意味ですか?「色々」って何ですか? いやだから、ある事無い事裏で色々とばら撒いてるって事は、分かってるって言ってるんだよ! 「分かってる」って、何を分かってるって言うんですか?勝手に人の事決め付けないで下さいよ。ワタシは貴方が何の話をしてるんだか、さっぱり分からないし、変な言い掛かり付けられても困ります。 言い掛かりじゃないだろう?俺はちゃんと分かってるんだから、そういう嘘を付くのは止しなさい! 「嘘」って、どっちが嘘付いてるって言うんですか?それに、一々怒鳴るの止めて貰えますか? そうして話はエスカレートして来た。奴はくちゃくちゃとやりながら怒鳴るものだから、こちらになにやら飛んで来て、汚いし、不快である。 まあ、貴方もちょっと落ち着いて。怒鳴らなくても、ワタシは目と鼻の先に座っているんだから、ちゃんと聞こえますよ。 そうたしなめると少しヴォリュームを落とすのだが、又直に怒鳴り出すところは、本当に例の 「がみがみガール」そっくりである。 第一、貴方が最初に始めた事じゃないですか?あの晩だって、何が気に入らないんだか、酔っ払ってワタシたちに失礼な発言を繰り返していたでしょう。奥さんだって、怒って黙り込んでしまったじゃないですか? いや、彼女は別に怒ってなんか居ないよ!機嫌が悪くなっていたのは、君だけなんだよ!俺たちは全く問題なかったんだよ! ・・・貴方、奥さんの顔、見なかったんですか?貴方が口を開けば開く程、益々怒って、押し黙ってましたよ。 いや、俺が話をしていたら君が突然機嫌が悪くなったようなので、俺たちはどうしたんだろうって心配していたんだよ!彼女は君が機嫌が悪くなったから、それで心配してそういう顔になったんじゃないか!君の所為なんだよ! はあ?だったら、その後そう言えば良かったじゃないですか。そんなの一言も言わないで、何事も無かったかのようにしていた癖に、それである日突然メールを送り付けてきて、説明もしないで出て行けだなんて、そういうやり方の方が余程嫌らしいじゃないですか。 それは君が、裏で可笑しな事をするから! 「裏で」?「可笑しな事」?一体何の話ですか?ワタシが何をしたと思っているんですか? いや、別人に成りすましても、俺にはちゃんと分かるんだから! 「別人に成りすます」?貴方、本当に何の話をしてるんですか?いい加減に、変な言い掛かり付けるのは止めて下さい! え、じゃああれは君じゃないのか? だから、何が「あれ」なのか、はっきり言ってくれないと、何の話をしてるんだか分からないって言ってるんですよ!何が言いたいんですか? ああ、それはじゃあ、俺の勘違いだったのか・・・ いや、それは悪かった。 はあ?貴方ねえ、ひとりだけ納得しても、会話にはならないんですよ。ちゃんと人にも分かるように説明してくれないと。 いや、それは、疑って悪かった。じゃあその事は、もういいから。 …もういいって、貴方、随分勝手ですね、これだけ人に散々失礼な事を言っておいて。 謝ったんだから、いいじゃないか!それを許さないってのは、どういうことだ! 貴方、何ヶ月も人に嫌がらせしておいて、そんな簡単に、一言謝ったらそれで済むとでも思ってるんですか? だから俺の勘違いだったって言ってるだろ! この調子で怒鳴り合いが暫く続いたが、そのうち、奴の不安から来る勘違いや妄想が更なる勘違いと妄想を呼び、話を拗らせたという事は、奴にも漸くはっきりしたようだ。 奴も徐々に落ち着いてきたので、ワタシは思い切って聞いてみた。 あのー、こんな事言うのは難ですけど、一度心理療法士とか精神分析医に掛かってみる気はないですか? いや、実はもう掛かっているんだ。 あら、そうなんですか?それで、その調子はいかがですか? それが、双方のスケジュールが中々合わないので、思ったように会えないでいて・・・ ああ、なるほどね。こういうのは、定期的に行かないと、余り効果がないんですよね。それにお互いの信頼関係なども関わってきますから、やはりここは出来るだけコンスタントに続けていくのが望ましいって事になってますしね。まあ、こんな事は多分ご存知でしょうから、余計なお世話ですけど。 まあねえ。出来ればもっと頻繁に会えるといいんだけど… それじゃあ、ご自分でも心理的な面で問題があるという事は、承知していらっしゃる訳ですね? ああ、随分前から何とかしなくちゃとは思っていたんだけど、中々都合が付かなくてね。それに、そうこうしているうちに、妻の方が子育て関係で心理の先生に相談に行きたいと言い出したから、そっちが先になっちゃって… はあ、なるほどね。 (っていうか、子育てじゃなくて、寧ろダンナの問題なんじゃないのかしら…) などとワタシが考えているうち、奴はこう言った。 だからね、俺は自分がキレると、自分でも何をするか分からないんだよ。本当に自分でもどうしていいか、分からなくなっちまうんだ。だから、俺の事を怒らせないで欲しいんだよ。俺を怒らせたら、自分でも何をするか分からないんだから。 …… こいつは何を言っているのだ。 ワタシは硬直した。 いい大人が、自分の感情のコントロールが出来ないから、他人に俺をキレさせないでくれと言っている?俺を怒らせたら何をするか分からないぞと他人を脅して、他人の行動を制限しようとしている? 奴は当時、夜中によく徘徊していた。 どうやら眠れないらしく、時折部屋から出て来ては台所へ行き、換気扇を回して煙草を吸う。吸い終わると、換気扇を止めて部屋に戻り、妻子が寝ているベッドの脇でインターネットをやる。暫くするとまた出て来て、煙草を吸いに台所へ行く。これを夜中に何度もやるのである。 折角生活時間をずらして、静かな夜を独り占めで夜更かししながら作業中だというのに、始終廊下を行ったり来たりするスリッパの音で、ワタシは落ち着かなかった。既にこの調子なのだから、この期に及んで、一体次は何をすると言うのだろう。 …何をするか分からないって、それはどういう意味ですか? いや、だから、俺は自分がキレたら何をするか自分でも分からないんだよ。だから、キレさせないで貰いたいんだ。 …キレさせないでくれって言われても、いつ貴方がキレるのかなんて、他人には知りようも無い事ですし、そういう自分の感情は自分でコントロールしてくれないと… いや、分かってるけど、それが出来ないから言ってるんじゃないか!自分でも何をするか分からなくなる時があるんだから。俺を怒らせたら、何をするか分からないんだよ!だから、俺を怒らせたら駄目なんだよ! …それは脅迫ですか? なんでそっちへ行っちゃうんだよ!ああ、もう、そうじゃないんだよ!俺が言ってるのは、全然違うんだよ!なんで分かってくれないんだよ! 奴は瞬く間に、また混乱して怒鳴り始めた。 ワタシは恐ろしくなった。 暫くして、ワタシは席を立った。 とりあえずワタシは、言うべき事はもう言いましたので、ワタシからお話しする事はこれ以上ありません。今後は奥様か第三者の同席が無い限り、貴方と個別でお話はしませんので、その旨よろしくお願いします。 そう言い置いて、一目散に部屋へ戻った。 ワタシは早速友人に電話をして、今夜から暫く泊めて貰えないかと頼んだ。重要なプレゼンテーションを控えているので、こんな状態でこの家に居ては、不安で準備もままならないだろうと思われた。先ずは自分の身の安全を確保しなくてはならない。 ワタシはボストンバッグに着替えを少し詰め、小型のスーツケースに必要な資料を詰め込むと、同居人らが寝静まるのを静かに待った。 そして台所にメモを残して、家を出た。 つづく。
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