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みぃ
連載の途中だが、今頃は日本時間的にいうところのワタシの誕生日であるので、時差のある土地で誕生日を祝うようになって十数年来の習慣にしている、「生まれた時間きっかりに祝う」というのに乗っ取って、陰気臭い連載は一先ず中断して、祝いモードで日記を書く事にする。 とは言っても、相変わらず課題に負われて慌しい日々を送っているので、実際祝うと言っても、街へ繰り出して人々と歌って踊って飲んだくれるとか、恋人と可愛らしいケーキを突付くとか、そういう予定は特に無い。日本の家族も友人らもとっくの昔に忘れてしまっていると見え、ここ数年はお祝いのカードも電話も無い。 こう書くと、なんて寂しい人間だろうと思われる読者もあるかも知れないが、一応言い訳をしておくと、これでも日本を離れてまだ間も無い頃には、毎年数人からお祝いを貰っていたので、近頃では皆疎遠な状態に慣れてしまったのだろうと思う。 そういうワケだから、今年のワタシの三十何回目かの誕生日当日は、仕事の合間に年の数だけアーモンドを齧りながらお茶をして、またすぐさま作業再開となって、過ぎた。 三十代になったばかりの頃は、自分は二十歳の頃から何も変わっちゃいないに違いない、くらいに思っていたのだけれど、それから暫くして身体に起こる様々な変化やら経験に応じた知恵とか先見性とかいったようなものによって、ワタシは意外と随分成長しているのだという事を思い知らされたので、今ではもう二十歳の頃と同様な自分ではない事をすっかり自覚している。 身体に起こる変化とは、例えば徹夜仕事や飲んだくれた翌日の許容範囲が狭まった事とか、ふと気付くとより深く刻まれている小皺だとか、そういうものの事である。しかし皺とか肌の張りについては、いい年をしてそういうものが無かったら却って気味が悪いから、年輪とか貫禄とかいったようなものと判断して、好ましく思う事にしている。 それに身体の無理が利かないと思えばこそ、自分を労わったり食事や健康管理に気をつけたりなどする気にもなるのだから、それはそれで良い事でもある。 色々な事があったけれど、今もそのうちのひとつが進行中で心苦しいけれど、しかしそれでも何とかここまでやって来たなと、自分で自分の肩をよしよしご苦労さんと叩いてみる。 ところで自分の誕生日に自分でプレゼントをするのも、ここ数年の習慣になっているのだけれど、今年は忙しさにかまけて何も考えていなかったので、これから仕事の合間に、一体何を自分にくれてやろうかと考えるのを楽しみにする事にする。
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