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みぃ
「がみがみガール」については以前に少し触れたが、これの詳細を書いてみる。 「がみがみガール」は、ワタシがこの街に移って来て二番目に知り合った二ホンジンである。 ちなみに一番目は、ボスのオフィスで初日に紹介された某西日本出身の男だが、こいつはワタシがにこやかに自己紹介をしたのにも拘らず、鼻でせせら笑うだけでうんともすんとも答えなかったのみならず、ボスが「ニホンジン同士だから、色々教えてやりなさい」と言うのに、その後先輩として一切の手助けをしてくれなかった、甚だ心の狭い男である。 ところで「がみがみガール」は、ワタシが勝手に付けた名前であるから、勿論彼女の本名ではないしそのような渾名で通っている訳でもないから、人物の特定は出来ないものとして話を進める。 同期であるこの女とは、偶然にも出身地が同じ市であったので、ワタシたちは直に打ち解け、お互いのこれまでの経歴などを話し合ったり一緒に食事をしたりしているうち、しばしば行動を共にするようになった。 周囲の同僚たちも、ワタシたちを「セット」として見る事が多かったようだ。特に、誰かが世間話なり仕事上の話なりをしていて彼女が理解出来ないで居ると、誰かしらがワタシを呼びに来た。そして、彼女の為に通訳してやれと言った。実際ワタシはそうやってよく借り出され、お陰でバイリンガルになったので、その事自体は満更悪く無いとは思っている。 彼女は感情の自己制御が出来ない性質らしく、よく癇癪を熾していた。外国語での会話が間々ならずに苛々するのは理解出来るが、ワタシとの日本語会話の中でも、他愛も無い事で彼女はよく怒鳴り出したから、理解するのに随分苦労した。 何を隠そう、ワタシも若い頃は、モノをはっきり言う性質だ、などと人からよく言われたものだ。ワタシはワタシなりに考えた末に、必要な事を最適な言葉を選んで分かりやすく述べている積りなので、そう言われる度に、まるで無神経で人の気持ちを推し量らない薄情者かのような、なにやら謂れの無い追及を受けているような気持ちになって、心苦い思いをしたものだ。 しかし、そのワタシをも黙らせる程、彼女は頻繁に切れた。前触れも無く突然ぶち切れるから、驚いた。 ひとしきり怒鳴り散らした後、ワタシが、貴方がなぜそんなに怒っているのかは知らないが、話はそう込み入ったものではなく、ただ単にこれこれについての噂話やら世間話やらであり、誤解の無い様もう一度ワタシの意図を赫々然々と説明するけれども、何も貴方を怒らせる積りで話しているのではないし、それ程怒るべき大問題について話し合っているのでもないから落ち着け、と言うと、彼女は急に合点が行くようで、ああ御免、と言う。 しかしまた直に、今度は別件でもって切れる。それが業務上の事であろうが時事であろうが同僚の噂話であろうが食べ物の話であろうが、彼女は何に対しても忽ち怒り、一緒に話をしているワタシに対しても辛らつな言葉を並べ、怒鳴り散らす。ワタシは、そんなに怒る様な事ではないのだから、もう少し落ち着いて、穏やかに話をしないか、と度々提案した。その度、彼女は御免と謝るのだが、また直に忘れて、がみがみと遣り始める。 故に、「がみがみガール」である。 ちなみに彼女は、蟹座である。ワタシは何故かこの街に来て以来蟹座に縁があるので、偏見とは知りつつ敢えて書いておく。 思うに、彼女は人の話をきちんと聞いていないのではないか。横着して話半分に端折って聞いていて、耳に残った一つ二つの言葉だけを掴み、そこから全体を推測して不完全な理解のまま自分の意見を述べ始めるのだろう。だから彼女との会話はいつも頓珍漢だった。大概彼女がこちらの意図を誤解していたり、全く別の話であると捉えてそのまま別方向に話が飛んでいく、というのが常だった。 はたまた、彼女はその輝かしい学歴にも拘らず、国語の成績が良かった例が無いと言っていたから、理解力の問題もあるのかも知れない。 初めの頃は、恐らく日本を出てきたばかりで不安もあろうしと同情して、彼女の我儘を一々聞いてやっていた。今にして思えば、それは彼女の「感情の掃き溜め」、「ゴミ箱」の役目を果たしていた訳である。 紹介された寮に入居するまでは、こうしてホテル住まいを続けているのは経済的にも不安だし中々集中して作業が出来ないと溢し、寮に空きが出て入居してからは、どうして自分がトイレットペーパーやらシャワーカーテンやら布団やら、自分の個室に必要な物をわざわざ取り揃えないといけないのかと不平を訴えた。 これは毎日続いた。 余り煩いので、一先ずワタシの使っていない枕とシーツセットを貸すことにした。毛布も貸そうかと言ったら、流石に布団くらいは買いに行くと言って、そのついでに枕も買ってきて、ワタシの貸したのを返して寄こした。しかし数日後、枕を洗濯機に入れたら中で分散してえらい目に遭ったと言って来た。枕を洗濯機に入れて中を綿だらけにした人というのを初めて聞いたと言ったら、絶句していたが。 入居して暫くの間、彼女はシャワーカーテンが無いままで過ごしていた。すると何が起こるか? シャワーカーテンをしないでシャワーを浴びると、当然だが辺りが水浸しになる。彼女の部屋はバスタブが無くてシャワーの設備のみだったので、特に酷かった。階下の住民から水漏れについての苦情が連日、寮の管理人に寄せられた。それで管理人は彼女の部屋を訪ね、シャワーカーテン無しでシャワーを浴びてはいけないと彼女に注意をした。しかし、彼女の不服そうな様子を見て、自分のお古のシャワーカーテンを取りに戻ると、自分のを買うまで暫くこれを使っていなさいと貸してくれたとのことだった。 なんと親切で人の良い管理人だろう。こんな事は稀である。ワタシは彼女は本当に運が良いと、羨ましく思った。ワタシがどんなに困っていようと、誰ひとり助けてくれないというのに、彼女はこうしていつも誰かしらに助けられている。 彼女の日々の定番の文句の一つに、部屋が真っ白いペンキで覆われていて、まるで病院のようで味気無い、というのがあった。ワタシはその度に、では好みの色のカーテンなり布団カバーなりカレンダーなりポスターなり、好きな物を買ってきて部屋に色を入れたらいいとアドヴァイスをした。その度、彼女は、ああそうか・・・と溜息を付いた。 そして数分後にまた、ああ部屋が真っ白で気が滅入る、まるで病院のようだ、部屋へ帰るのが憂鬱だと繰り返した。だから何か買いに行って来ればいいじゃないの、とワタシはまた言う。その繰り返しである。 ワタシは段々と、彼女と会話をするのに疲れてきた。何の話をするのにも一々怒鳴り合わないといけないし、また毎日同じ愚痴を聞かされて、同じアドヴァイスをしているのに、彼女の悩みの質は日々変わらないのだから。 ある日、ワタシが根負けした。週末のある日、ワタシは彼女を強引に連れて、数ブロック離れた日用品の大型店に出掛けた。ちなみにこの店は、「新規入寮者の栞」の家財道具の揃え方の欄に出ていた、寮お薦めの便利な店である。ワタシもこの街にはまだ詳しくない頃だったから、彼女が持っていたその栞を見せてもらっているうちに発見したのだ。 まずシャワー用品売り場に行って、さあ好きなシャワーカーテンとカーテンリングを選べと言った。彼女は緑色が好きだからと言って、濃いかえる色のカーテンを選んだ。そしてカーテンリングを選んでいる矢先に、彼女は部屋に音楽が無いのは寂しいと言い出し、家庭電気用品売り場へすたすたと歩き出した。そういう娯楽物も良いが、トイレットペーパーだのカーテンだのシーツだのといった、必要なものから片付けるのが先じゃないかと言うワタシの声には耳を貸さず、ラジオとカセットテープ・CD機能の備わったミニコンポをあれこれと楽しげに選んでいる。 あぁ、全く当時のワタシときたら、呆れる程人が良過ぎた。結局、何度声を掛けても家電売り場から動かない彼女を置いて、ワタシは彼女の部屋に必要なあれこれを一人でかき集め、さあこれで当分はいいだろうからさっさと買って帰ろうと、家電売り場に戻って来た。 買い物が済んで彼女の部屋に戻ってからも、彼女は早速そのコンポに取り掛かりきりで、ワタシが結局シャワーカーテンを取り付け、シーツを取替え、トイレットペーパーをホルダーに取り付けた。 ほら、出来たよ、と声を掛けると、あぁはいはい、ありがとね、とこっちを向かずに彼女は言った。 お陰でワタシの時間も随分ロスがあった訳だけれど、彼女はそんなことはお構い無しで、コンポに夢中である。ひょっとすると、彼女はこうやって誰かに何とかしてもらう事を期待していたのだろうか。自分の問題を自分で解決せずに、きっと今までもこうやって誰かに何とかしてもらって過ごして来たのに違いない。 そしてその後も、彼女の愚痴は毎日続いた。あれだけして上げたのに今度は何だと言うと、買ってきたシャワーカーテンの色が濃過ぎて重苦しいと言う。そしてバスルーム用品以外の物を殆ど選んで来なかったから、部屋自体は病院染みたままで憂鬱だという。ワタシはすっかり脱力した。 流石にワタシにも自分の生活があるし、これ以上の時間と労力を彼女の為に割くのは御免だったので、それならまたあの店に行って返品するなり必要なものを買って来るなりすればいい、場所はもう分かっているのだから、ひとりでも行かれるでしょうと言って放っておく事にした。 そして彼女は、引き続き毎日同じ愚痴を垂れた。 既に書いたかしら?ワタシは当時、友人ひとりいない大都会へやって来て、不慣れな業務に突っ込まれて、上を下への大騒ぎ。更に新しい同居人との問題もあって心休まる処も無く、日本にいるはずの家族も音信不通で孤軍奮闘。本当は他人の世話なんてしている場合では無かったのだけれど。 ワタシのことは誰も助けてくれなかったけれど、彼女の事はワタシ以外に、寮の管理人以外に、実は結構な数の人々が手を差し伸べていた。 困った事に、彼女は内弁慶と言うのか、外面が良いと言うのか、他の同僚に対しては借りてきた猫みたいに大人しく内気そうにしていた。だから、彼らに愚痴を溢しても、誰一人ワタシの苦悩を理解してくれる人はいなかったのだ。彼女が日本語で君にどういう事を言っているのかは理解出来ないから、何とも言えないと。 そして多くの同僚は、今君が彼女と友達で居るのを止めたら、彼女はここでは生きて行かれないから、そんな事をしてはいけないと言った。 ならば、ワタシの立場は? そんな我儘娘に煩わされて、毎日がみがみと怒鳴り散らされて、更に自分の生活もあっぷあっぷで、それでもワタシは生きて行かれるのだろうか?それでも生きて行けというのだろうか? まぁ早い話が、彼らはワタシの事を買い被っていて、大変な事が山積みであろうともあいつは大丈夫、と思っていたらしい。君なら大丈夫だ、と妙に自信を持って何度も皆から言われた事を、良く覚えている。ワタシの何を持ってしてそう思うのだろう。 人は時に不条理な事を平気でする。 続編へつづく。
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