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■ 今週の色々・まだ終わってないけど
月曜日には高校時代の友だちと会いました。
カフェで美味しいごはんとケーキをいただきました。
ここのところ毎年会っています。
前は3人だったけど一人が遠い所へ引っ越したので、
個別個別に会っています。
この一年で色々あったので、その色々を聞いてもらい
ました。話していくうちに日本のキリスト教会の行方
みたいな話になって行きました。
そして聖書が誤りのない神のことばであると信じる
教会や神学校がどれくらいあるだろうか・・・という
気持ちになってきました。
だとすると彼女の働きはとても貴重なことだなァーと
思いました。
私は私で家でユーチューブばかり見ていますが、私も
ここでがんばろうと思いました😊
いつも、とあるチャンネルを覗いています。
そこにはクリスチャンたちが集まって来てコメントして
いきますが、それを観察していると微妙にちょっとずつ
何だかずれていて、今の日本の教会ってこんなことに
なっているんだというのが見えて来ます。
自由主義神学の教会がおかしなことを言うのは、
(復活は無い、など)
私たちはこれでやっていますという看板を掲げているし
避ければいいのでまだいいですが、
最近はそこから出たはずの福音派の中に、そのような
教えが混ざりこんでいるので危機感を覚えます。
終わりの時代には不法がはびこるとあるとおり、
よく目を凝らしていないと、です。
ユーチューブチャンネルの話に戻りますが
ひとり、これは言わないとだなと思うコメントが
あったのでちょっと応答してみました。
すると反論が来てしばらく何往復かやりとりを
しました。
ヨハネ8章の「姦淫の女」の話をその方が
出して来られました。
イエス様が女に
「わたしもあなたを罪に定めません。」
とおっしゃったところについてです。
これを
「女が罪の告白も、悔い改めの生活もまだ始めない
うちに、わたしもあなたを罪に定めない。
と言われた。」
とその方はおっしゃいました。
「悔い改め」は必要ないと言いたいのかな、と
思いました。
そこで、私が返信しました。
パリサイ人は罪に気づいてもイエス様のもとから
去り家に帰りました。
だけど女はイエス様の足元にいる。
罪あるそのままの自分で、
イエス様・・・という思いで。
「これが悔い改めだ」と私は言いました。
微妙に聖書の話がずれていって
「罪を大目に見る」「水に流してあげる」
「罪を容認してあげる」「見なかったことにする」
それがイエス様の愛だと思っておられるのかな
と思えました。
それで
「イエス様の愛」は
「罪を大目に見る・罪を容認する愛」
ではなく、
「女の罪の分の石を受ける愛」
ですよ。
と伝えました。
そして、水草先生のおっしゃった
「東に行きたい人に寄り添って、
そうだね。東に行けばいいよ。
と背中を押してあげるのが福音ではない。
西に十字架につかれたイエス様がおられるのだから、
一緒に西へ行こう。と言うのが福音だ。」
と言いました。
その方はカトリックの方でしたが、十字架を信じて
おられたので、最終的に
「イエス様の愛は罪を容認することではない。」
というところは一致できました。
そんなことをやっています。
道行く人とそうそうそんな話はできませんが、
ネットではできるんですよね。
でも力が要るので
今日になってぐったり来ました。
2025年03月27日(木)
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