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■ 預言書を読み終えて
大分前になりますが、聖書通読もマラキまで来て、
預言書をすべて読み終えました。
約束の君主、ダビデ、羊飼いが来ることが
約束されていて
すでにその通り、そのお方「救い主イエス様」が
この地上に来られました。
まだ求道中の親類も
根拠はどこにあるの?と言うようです。
確かにそれは賢くて、
闇雲に変なものを信じてはいけないので、
考えないままではいけないでしょう。
でもイエス様が来られ十字架にかかられたことは
信仰ある無し関係なく、歴史の中に起こったことです。
そして十字架で血を流され
罪人の私たちが受けるべきだった、神の怒りを
代わって背負ってくださいました。
イエス様がいたことと
「十字架」にかかられたことは
歴史の事実なのですから、
あとはそれをどう見るか、でしょう。
ある先生の説教で、現代の教会は「神の怒り」について
あまり触れなくなってしまった。とおっしゃっていて
そうだなと思いました。
神様は「愛」であり、また「聖」なる方ですから
罪を容認はしません。
私たちは、このままの姿では神の前に立つことすら
できないほど罪で汚れています。
その罪への「御怒り」は本来私のものでした。
けれど神様のなさったことは、私たちを救うため、
約束の君主、ダビデの子、羊飼いを
この世に送ることでした。
罪への「御怒り」を私の上に落とさずに
ご自分の大切な「御子イエス様」の上に
落とされたのです。
そんな話があるでしょうか。
その「キリストの十字架で流された血の故に」
(根拠として)
私たちは救われます。
神の御怒りを受けなくていいというのです。
それを「信じる」ことで救いを得ます。
何もしていない私が
「受け取る」だけで赦されます。
預言書ではさらに「主の日」がこの先に来ることが
記されていました。
世の終わりの日です。
イエス様が再び地をさばくため世に来られます。
その時が来る前に、
恵みを払いのけずに、受け取ることが
できますように。
「しかし私たちがまだ罪人であったとき、
キリストが私たちのために
死んでくださったことにより、
神は私たちに対するご自身の愛を
明らかにしておられます。
ですから、今すでにキリストの血によって
(*根拠として)
義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから
救われるのは、なおさらのことです。」
(ローマ5:8,9)
2022年07月26日(火)
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