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■ 聖書通読で思っていること
聖書通読で今エゼキエル書を読んでいます。
またコロナ禍で考えるようになったことは
人は神と共にあって、
初めて本来の生きるものであるのに、
気づくとすぐに家出をしてしまうこと。
父の腕の中にいればいいのに
「ここ以外で!」と父から離れ、出て行きたがり
自分一人の力でやってみせ
自活して自分の価値を世に証明しようとする。
結局それで
疲弊しきってしまうのです。
バベルの塔も、神よりももっと高く!
と神から離れ、自分を高くしたことでした。
それでエゼキエル書を読んでいても
そのことを神様が非常に憤ってご覧になっていることが
何度も書かれているのを今読んでいます。
人間としては何とも思っていなくても
これが当たりまえのように過ごしていても
神様から離れていること自体が罪。
自分を造ってくださった方があるのに
神を思うこともせず、見もしないで生きていること
自分一人の力で生きていると思っていること
それが「罪」なのだと聖書は言います。
今日のところには
「憤りの杯」が出てきました。(23章)
神を忘れ、神を自分の後ろに投げやった者が
(23:35)
受ける分としての神の憤りの杯です。
そして新約に来て、約束のメシアの到来。
その「憤りの杯」を私たちに代わって
全部飲み干してくださった
神の子イエス様の十字架を思います。
(ゲッセマネの祈り「この杯」マタイ26:39)
この方を信じる以外に本当にないなぁと思って。。。
そのことを改めて覚えるとともに
いつイエス様がおいでになるかも分かりませんから
(世の終わりのときがいつか必ず来て
神の御前に立つと約束されています。
イエス様を着る者は、ただキリストにあって
裁かれません)
まだ間に合ううちに
イエス様を信じる人たちが起こされていきますように
と願っています。
2022年03月04日(金)
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