Rei's column
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2004年06月28日(月) マイブーム

最近のマイブームは「パズル遊び」

アタマの中で
ひとつのキーワードを縦から横から組み立てたり組み換えたり
裏返してみたり・・

言葉遊びをしています。

小さな頃から空想家でした。
読んだ本の物語の続きを勝手に作ったり
ぬいぐるみを相手に何時間でも空想の中で独り遊びをするような
変わった子供で・・

ところがその癖は今でも変わりません。

喫茶店で、ペンと紙があれば
遅刻してくる友人を3時間は苦痛も無く待つことが可能です>笑
ある言葉や自分が気になった事柄を真ん中に据えて
延々とパズルをして遊んでいるのです。

そんな私にぴったりはまったのが
マンガ喫茶で何気に読んだ「陰陽師」のマンガ本。
・・映画はおもしろかったけどまあ、あんなもん?て感じでしたがこっちは奥が深い。
原作がちゃんと小説だから無理もないんでしょうが
パズル遊びのピースを増やしてくれる
素敵なツールとして最近の私のお気に入りです。


呪<シュ>について語られる場面があります。

・・ものの根本的な有様を縛る
この世で一番、短い呪は名前ではないか、と。

たとえばSMをしている時の自分のキャラに私は「怜」と名づけました。

名前をつけて縛り・・ 
呪をかけたことで怜という人間ははっきりと存在しています。


・・おもしろくないですか?

現実問題としてみれば「怜」という人間は戸籍上存在しないのです。
でも、名前をつけて縛ればちゃんと人として存在し認識される。
しかも「怜さんらしくない」という言葉まで飛び出すのです。
・・実はそっちが本当の素の姿の私であったとしても・・

もうここまで来るとパズル遊びが楽しくて楽しくて止まらなくなります。

「・・目に見えぬものさえ呪で縛ることが出来る。
例えば男が女を、女が男を愛しいと想うその気持ちに名をつけて呪<しば>れば 恋 」

「・・でも恋という名がなくても男は女を、女は男を愛しいと想うだろう」 とあります。

相手を愛しいと想う気持ちに「恋」という名がつくとき
それは共通言語になります。
それと同時に固定概念が生まれます。
「恋」とはこういうものだ・・と。
また「恋」とはこうあるべきだという理想も生まれます。

例えば「愛」

「愛」とはこういうものだろう、こういうものでありたいという
固定概念や自分の理想の枠から相手の行為や思惑が外れると
時に「あの人は私を愛していない」と判断したりしませんか?

でも相手は相手なりに愛していたりするかもしれない。

愛という名前でその気持ちを縛らなければ
それはもっと自由なものであったはずなのに。


私のしている行為がSMだと名をつければ
それはSMらしくないとか
Sではないとか、Sらしくないという概念が生まれます。

もともとアブノーマルでもっとも自由であるはずの行為が
名前を得ることによって縛られていく、否定される・・

いやいや・・実におもしろい!

ところでそんなこと、誰が決めたんですか〜〜?と問えば
答えられる人など誰もいないでしょう。

「男」とは「女」とは
「M」とは「S」とは・・

私の中に「恋人」でも「彼氏」でも「友達」でもない感情があるとして
私自身がそれに名前をつけようと必死になります。
その感情に名前をつけて縛ろうとする。
「彼氏」と思えば足りないものが生まれ
「友達」と解釈すればやはり足りないものがあるはずです。
その足りないものを埋めようとしてやっきになってみたりします。


例えばその気持ちに
名前をつけて自分の中に固定しないと不安だから。

その気持ちをその有様のまま
縛らずにいるには人はあまりにも弱い生き物なのでしょうか。


ずうっと、私の中でつまづいていたことが
ひょんなことからずざざざざ〜っと理解できるような気がしました。

ジグソーパズルでひとつのピースがはまると
途端にまわりのピースが完成するときのような
不思議な爽快感・・


何かを無理に縛ろうとするのは
結局、自分の弱さに起因しているんだなあ・・と考えると
ま、無理に決めつけなくても
そのままの有様でいいじゃん、と思えるようになってみたり。


当分、このブームは続きそうですね。


Rei



★白泉社 〜陰陽師
岡野玲子 原作:夢枕 獏 


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