Mako Hakkinenn's Voice
by Mako Hakkinenn



 スティーヴ・マックィーン、死の真相
2005年11月04日(金)

 「荒野の七人」「大脱走」「栄光のル・マン」「タワーリング・インフェルノ」などで知られる名優スティーヴ・マックィーン、彼が1980年に50歳という若さでこの世を去ってから、早くも15年が経ちました。
 皆さんは、今日放送された「報道ステーション」のスティーヴ・マックィーン特集、ご覧になりましたか?僕は今日の特集を観て驚いてしまいました。日本では、スティーヴ・マックィーンの死因は肺ガンであるとされてきましたが、実は彼の命を奪ったのは、アスベスト吸引による中皮腫だったのです!

 スティーヴ・マックィーンは1930年、アメリカ・モータースポーツの聖地として知られるインディアナ州インディアナポリスに生まれました。飛行機の曲乗り師だった父は彼が生後6カ月で蒸発してしまい、マックィーンは母方の伯父のもと、ミズーリの牧場で育ちます。
 9歳、12歳の時にと母が二度再婚し、ロサンゼルスに移りますが、不良グループと付き合うようになり、14歳でカリフォルニアの少年院に収容され1年半を送ります。
 出所後は職を転々とし、兵役後もそんな状態がしばらく続きましたが、女友達の勧めで51年からネイバーフット・プレイハウスにて演技を学びます。更にHGスタジオやアクターズ・スタジオでも演劇を学び、舞台を経ての56年、「傷だらけの栄光」で映画デビューを飾ります。
 以後、CBSテレビの「拳銃無宿」で人気スターとなり、以後はアクション・スターとして数々の作品に出演。カー・レーサーとしても有名で、ブルース・リーやチャック・ノリスの門下生でもありました。日本には裁判に出廷するためだけに来日したこともあります。

 スティーヴ・マックィーンは黒澤明監督の「七人の侍」のリメイク、「荒野の七人」(1960)で一躍世界的スタートなり、日本でも有名になりました。その後1963年の「大脱走」、モータースポーツファンにとっては知る人も多い1971年の「栄光のル・マン」、さらにはパニック映画の金字塔と言われる1974年の「タワーリング・インフェルノ」など多くの名作に出演し、そのストイックで体当たりのアクションが人気を博しました。

 世界三大レースのひとつであるル・マン24時間耐久レースを舞台とした「栄光のル・マン」は、国際A級ライセンスを持ち、カー・レーサーでもあったマックィーンが、実際のレースにカメラを持ち込んで製作したセミ・ドキュメンタリー・タッチで完成させた大作であると言うことは有名な話ですね。
 この映画はマックィーン自らのプロデュースで、彼の率いるソーラー・プロが製作。70mmの大画面を使いきった見事な画面レイアウト、息を飲むような絶妙なタイミングのカット割りによって、耐久レースに挑むレーサー、メカニック、それを冷静に見つめる女たちが鮮烈に描かれていきます。どしゃ降りの雨の中にかすむポルシェのシルエット、爆発寸前のマシンから脱出する時の焦燥感等、過酷なレースの息づかいが実に鮮やかに描かれています。また、レース・シーンのみならず、影のある孤高の主人公を渋く演じたマックィーン始め、レーサーに扮した俳優たちの存在感が圧倒的に光っています。ラスト・シーンは映画史上に残る名場面と言われています。

 そのスティーヴ・マックィーンが、主演映画「ハンター」が製作された年に肺ガンによってこの世を去ったというニュースは、世界中に衝撃を与えました。まだ多くの国で中皮腫という病気が認知されておらず、これまでマックィーンを命を奪ったのは肺ガンであると信じられてきました。
 ところが、実際はアスベスト吸引による中皮腫が原因で、マックィーンはまだこれからというわずか50歳という若さでこの世を去ってしまったのです。

 「報道ステーション」では、スティーブ・マックィーンの最後の妻で彼の最期を看取ったニール・アダムスが出演していて、マックィーンの発病から闘病生活、そして死に至るまでの過程を語っていました。それによると、マックィーンは身体の不調を訴えて医師の診断を受けた時点で、すでに医師から「アスベスト吸引による中皮腫」であると告知されていたのだと言います。
 その後も彼は映画を撮り続けながら、病気と闘い、そして病気に打ち勝つために懸命の努力をしました。ところが、病気が徐々に進行するにつれ、アメリカ国内では危険を冒してまで手術をしてくれる病院がなくなり、マックィーンは映画「ハンター」を撮り終えた後、メキシコのファレスという小さな町の私立病院でようやく手術をしてくれる医者を見つけたのでした。
 しかし、その手術の甲斐もなく、手術の数時間後に彼の容態は急変し、1980年11月7日、スティーブ・マックィーンは帰らぬ人となってしまいました。

 では、スティーブ・マックィーンはどこでアスベストを吸飲してしまったのでしょうか。マックィーンは自分の病気を恨むことはなく、なぜ自分がこうなってしまったのか、どこでアスベストを吸ってしまったのか、その原因を探りました。
 マックィーン自身、2つの思い当たるものがありました。ひとつは17歳の時、兵役で軍艦に搭乗した際に、船の内側に断熱材として覆われていたアスベストを、清掃作業などで吸引していたというもの。船舶関係者にアスベスト被害者が多いのは、日本もアメリカも同じのようです。
 そしてもう一つは、スティーブ・マックィーンが大好きだったカーレースが関係しています。レース用のマスクやユニフォームには、耐火用としてアスベストが相当使われていたというのです。もしかしたらマックィーンは、あの「栄光のル・マン」のさなかにも、アスベストを吸引してしまっていたのかもしれませんね。

 スティーブ・マックィーンは、最後まで病気に打ち勝とうとしていました。遺作となってしまった「ハンター」ではすでに病気はかなり進行していましたが、それでもスタントマンを使わず、疾走するシカゴの地下鉄高架線のパンタグラフにぶら下がったり、トラクターとトランザムのチェイスを披露したりと壮絶なアクションシーンを体当たりで演じ、その反面、役柄である“賞金稼ぎ”という仕事では厳しいが、一旦家に帰ると人間臭い、いわゆるスーパーマン的ではないヒーロー像を人間味溢れる魅力で好演しています。

 「報道ステーション」では、死の5日前に録音された病床のスティーブ・マックィーンの肉声が公開されました。その中で彼は友人に「私は決して諦めない。必ずこの病気に打ち勝ってみせる」と力強く語っていました。スティーブ・マックィーンはクリント・イーストウッドと同い年。生きていれば、きっと俳優として、監督として、僕たちにより多くの名作を魅せてくれたことでしょう。



スティーヴ・マックィーン



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