Mako Hakkinenn's Voice
by Mako Hakkinenn



 今年はアインシュタイン・イヤー
2005年04月14日(木)

 アイ〜ン!

 今年はあの「相対性理論」を打ち立てたアルバート・アインシュタイン没後50年、そして「光量子論」「ブラウン運動」「相対性理論」の三代論文の発表から100年の節目の年なのだそうです。知っていましたか?
 アインシュタインは1879年(明治12年)3月14日、ドイツ南部の町ウルムで、ユダヤ人夫妻の長男として生まれました。幼い頃のアインシュタインはあまり目立たない子供だったようで、独りで考え事をしていることが多かったそうです。5歳の時に、父親にコンパス(方位磁石)を買ってもらい、見えない何かが磁石をいつも一定の方向に向かせることを、非常に不思議に思ったというエピソードが残っています。未知なるものや、それを解き明かす科学への好奇心を、子供の頃から持っていたようですね。

 ところが、アインシュタインは決して優等生ではなかったようです。代数や幾何などの数学は得意でしたが、外国語と博物(現在で言うせいぶつに近いもの)は全くダメ、暗記が大の苦手でした。さらに、物事をじっくりと考えるタイプだったアインシュタインは、先生からの受けも悪く、級友からは「のろま」というあだ名を付けられてバカにされていたらしいです。
 当時のドイツは「鉄血宰相」と呼ばれたオットー・フォン・ビスマルクのもと、富国強兵政策が推進され、厳格で画一的な軍国教育が行われ、知識の丸暗記と団体行動の徹底が重視されていました。このような雰囲気はアインシュタインの自由な精神に合わず、彼は15歳で学校を退学してしまいました。天才科学者も、最初は落ちこぼれだったんですね。

 そんなアインシュタインも別の学校に編入して、18歳で名門大学であるスイスのチューリッヒ工学大学に合格しました。しかし大学でも彼はあまり授業に出ず、自分の好きな勉強の没頭していたため、全般的な成績は中の上だったそうです。
 大学を無事に卒業したアインシュタインでしたが、彼が望んでいた大学の教師になることはできず、しばらくは臨時教師や家庭教師などをしていたそうですが、最初の妻ミレーバと結婚したこともあり、当時の生活はとても厳しいものだったようですね。
 1902年に知人の紹介でスイスの特許局に就職し、ようやく安定した収入を得られるようになったアインシュタインでしたが、彼は特許局での「申請された特許書類の検討」という1日のノルマを午前中に済ませてしまい、午後はこっそりと物理や数学の本を読みふけっていたそうです。職場の人たちがアインシュタインのさぼりに気付いていたかは定かではありませんが、このお役所の寛大さが、相対性理論を生み出したと言えるかもしれませんね。なぜなら彼は、就職して3年目の1905年、若干26歳のしがない公務員であったにもかかわらず、彼が書いた3つの論文が科学界に大きな衝撃を与えたのですからねえ。

 アインシュタインは「光量子論」「ブラウン運動」「相対性理論」の3つの論文を1905年に立て続けに発表し、1905年は「奇跡の年」とまで言われるようになりました。そして彼はこの3つの論文で博士号を得ることができたのでした。



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