ユミコのメモ箱
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足利市立美術館にて開催中の『THE LIBRARY』展の出品作家として、今日一日会場にて展示案内を務めた。開催期間の週末毎に、作家が順番で来場者に作品解説等をする、という企画。今日が私の当番の日。
私は『十葉扁舟(じゅうようへんしゅう)』を出品しているのだが、とりわけこの作品は解説をすると喜ばれる(つまりわかりにくい?)感じになっている。多くの方々に、同じ説明を何度も何度もしてきた。
以前にもこの作品をご覧になり、気に入ってくださり、その後一度お会いしている、地元の文化人類学の先生がわざわざ会いに来てくださり、いろいろとお話した。気に入って下さっていると言うことなので、てっきり作品のことは隅々まで知っていただけているのかと思いきや、他の来場者の方に解説するのを横から聞いて「えっ、そうなってたの?」「そんなに深い意味があったの」とびっくりされていて、笑った。
「解説をしないとわかってもらえないのって、どうなんだろ・・」と、今日一日を振り返っていた矢先の出来事だったので、ちょっと自信が持てた。
自分の作品を生み出す過程で、その隅々いたるところに多くの意味を持たせることが多い。その結果、立体(本)の作品では説明しないと気付かれないような仕掛けがあったり、意味があったりする。 でもそれを、作品を観てくれる人たちすべてに説明したいという欲求は、わりと少ない。作りながら(もしくは今日のように鑑賞する人を影でこっそり盗み見しながら)「これは気付かないでしょ〜」とか「これを正しく読み取る人は、かなりの佐藤由美子マニア!」などと、逆に気付かれなかったりわかってもらえないことを楽しんでしまうこともあるくらい。「鑑賞者を試している」なんて言ったら、随分偉そうだけれど。
でももちろん、「正しく読み取る」の『正しい』とは、私の観点から見ただけのことであって、私が意図しないような読み取り方をしてくれると、「おお、なるほど!」とか「おもしろいじゃん、いいじゃん、この作品!」なんて、それはまたそれで私自身を客観的に楽しめてしまう。そういう器の大きい、引き出しの多い作品は、私は良い作品だと思っている。
それとは別に、例えば今回の『十葉扁舟』だったら、手に触れなくて(もちろん細かい仕掛けの存在すら知らなくて)もオブジェとして「きれい」とか「欲しい」とかいう感想もあって、そういう部分も大事に制作している。 作品のそういう良さは、その内側(物質的にも哲学的にも)にいろいろな要素を秘めているからこそ、出てくるものだと信じている。絵画的な一面だ。
サン=テグジュペリはそれを、砂漠の美しさと井戸の関係で、表現している。
・・・とまあこんなふうに、自分の仕事の成り立ちを時々確認しつつ、「これでいいのだっ!」と自信を持って、新たに一歩踏み出してゆくのだ。
本日私の解説を最後まで聞いておつき合いくださった方々、ありがとうございました。
『THE LIBRARY』展、6月4日まで。 その後、6月10日〜7月2日 多摩美術大学大学美術館に巡回。
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