ユミコのメモ箱
DiaryINDEX|past|will
今日も写真を撮り忘れました。 カメラは持ち歩いているのに・・
代わりに、今回の作品のコンセプトのようなものを記そうかと思います。
−−−−−
昨年の個展まで、『目には見えないけれど、近くに存在するなにか』を絵にすることを考えていた。
それにはひとつ、重要な問題があった。 『目には見えない』実体のないものを絵にすることは、ほとんど不可能である、ということだった。それらを想像するには限界があり、とうとう手が動かなくなった。
でも、そういう存在を信じていたし、私にとって大切なテーマであることには変わりなかった。
だから、『目に見えないもの』を納める『いれもの』を描いてみよう、と考えてみた。カタチあるものを描きたくなった。これはまさに、私が絵を描くことと同時進行で制作してきた『本』であり『箱』なのだと気付いた。
絵を描くことと本や箱を作り出すこと。それら2つの制作行為をひとつに繋げることを、しばらくやめていた。別々のものと考える方が、それぞれを楽に進めることが出来たのだ。
絵を描けなくなったその時、本や箱を作るように絵を描けないものかと考えた。その辺りのことを、うまく言葉には言い表せないのだけれど。
すると、描けた。今回出品しているタブローやリトグラフが、それだ。 いろいろなカタチの『いれもの』を描き、その中に『目には見えない』なにかをひとつひとつ納めていった。そういう作業だった。
『箱』とはもともと『本』のことであった。 表紙を開いて文章を読むことと同じようにして、箱の中になにかを納めて蓋を閉じ、しかしその蓋を開くまでもなく、それは中に納められた『見えないなにか』の存在を証明するものとなった。 幼い頃から繰り返し読んだ『星の王子さま』(サン=テグジュペリ著、内藤濯訳/岩波書店)の中で「かんじんなことは、目に見えない」と教わった。生きていく中で、大切なことは目に見える事象ではなく、心で感じとるものなのだと、いつのまにか信じていたように思える。 目に見えない『かんじんなこと』を絵やカタチに表すことは今の私にはできないけれど、それらを納めるための箱なら作ることができるのだ。箱を作ることで、私は『かんじんなこと』を知った気になって安心している。 『見えないなにか』は、何でもよかったのかもしれない。でも、生きていくことって、そんなものだと思う。
(Oギャラリーeyes 2006年7月予定『見えない先の果てにさえも』展に寄せたコメント文)
絵が描けないと立ち止まった時、振り返ったのは制作してきた自分だけでなく、もっともっと以前の自分、自分の原点とはなにか、ということだった。原点、好きなもの、やりたいこと。そういうことを、ねじ曲げずにそのまま制作に生かしたいとようやく思えた。
あたりまえのことなのに、随分遠回りしたものだ、と思う。 これからは大好きな絵を、もっともっと描こうと思う。
|