けろよんの日記
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マリー・キュリー 4/23 13:00〜 於:梅田芸術劇場シアター・ドラマシティ 大千秋楽
行くかどうか迷っていましたが、Twitterでの評判がよく、 幸いチケットを買うと決めた際はまだ選択の余地があったので やはりここは大千秋楽でしょうと購入。
2018年韓国で初演、2021年の韓国ミュージカルアワードで大賞受賞の 創作ミュージカル。2度のノーベル賞に輝いたマリー・キュリーを主人公に Fact(歴史的事実)とFiction(虚構)を織り交ぜた 「ファクション・ミュージカル」 「ありえたかもしれない」もう一人のマリー・キュリーの物語として 描いている。とのこと。
こどもの頃に読んだ「キュリー夫人」の伝記の知識のままだったので、 これはどこからどこまでが事実なのかしら、、と境目の分からぬまま 物語は進む。 コロナ禍以前にみたミュージカル「ファクトリー・ガールズ」を彷彿させる人物達もでて、制作は別なんでしょうが系統が一緒だなあと 思う。
いや、それにしても情報量が多すぎで・・・ (結局千秋楽から2週間たってもまとまらない。) 科学者の探究心、ピエールとマリーの夫婦愛。ワーキングマザーの苦悩、科学の発展とその弊害。薬害と隠蔽。偉大な母をよく知らない娘の葛藤、シスターフッド、同郷の星。そして切り捨てられるのは誰か? 書き切れないけどこのままスルーも望ましくないので無理矢理書きましたが、 嗚呼すっきりしない。
マリー・キュリーの親友アンヌがラジウムガールズ(ラジウムを含有する夜光塗料を時計盤に塗る作業に従事した結果、放射線中毒になった女性工場労働者の総称。事実としては時代が後のアメリカ)の一人だったという設定になっています。
もちろんノーベル賞が偉業であるのは勿論ですが、改めて時代背景や何かを考えると想像を遙かに超えるハードシップであったのだろうなと実感しました。
「次の機会」 「私が誰かではなく、私が何をしたかでみてください。」というマリーの言葉が重い。 ポロニウムとラジウムの発見によりノーベル賞を受賞した後も女性というだけでチャンスは男性優先で「次の機会に、次の機会に。」と弾かれる。 ラジウムによる健康被害の可能性を知ってもマリーはにわかに認められない。 栄誉を与えてくれ、道を開いてくれた物質、ラジウムは=マリーとなってその瑕疵が公になれば女性であるマリーには研究への扉が閉ざされてしまう。女性にとってキャリアの道は細く険しく失敗が許されない。120年後の現在でもさして代わり映えしないように思う。次の機会と言われ待たされ、一つ何か間違えば「次の機会」が失われる。
「エゴと時代の趨勢」 ラジウムががん細胞に効くことに気づき人体実験とも言える臨床試験を進める。がん細胞の圧迫で失明している少女に実験台として共同研究者として協力を求める。少女に自分の娘の姿は少しでも重ならなかった? ラジウムの負を正で補うための実験を重ねるマリー。 きっと役に立てる物質だから。 1幕からの積み重ねで次の機会を失えないマリーの切迫感がひしひしと 伝わる。
マウスを使った実験では工員役のメンバーがねずみの耳や尻尾をつけて登場し、実験中のマウスの様子を歌とダンスで表現するのだが、放射量に比例しどんどん様子がおかしくなってしまう。実験用マウスとラジウム工場の作業員の姿がマッチする。 ものすごく怖いが、秀逸なシーンだった。 そんで、工場の経営者は明確な健康被害が出ても工場の操業をストップしない。だって儲かってるし。やめたら大損。 健康被害と一括りにはできないが、 「何人社員が病んでも会社は変わりません。ドロップアウトする人を切り捨てて進んで行きます。」という産業医の先生の言葉がリフレイン。
「夫婦愛」 マリーの夫のピエール・キュリーはマリーを「個人」としてみる。 才能を尊敬し、愛する。ピエールの様な男性が増えたら世の中はきっと変わる。
「あなたは私の星」 環境が変わっても立場が違ってもずっと一人の人間として接してくれる友。アンヌはマリーにとってそういう友人。こんなに違ってしまっても、裏切ったと言われても仕方のない状況でもアンヌはマリーを見捨てない。 血のつながった家族でもなくてずっと側にいなくても、いつも目には映らなくとも指針となって支えてくれる相手がいる。希有。
設定上、なんか??というところもないではなく、 現実の悩みとリンクしていろんな意味ですっきりしない部分もある舞台 ではありましたが出演者の皆さんが素晴らしく、矛盾にひねる頭を 押さえつけられて感動しました。すごい圧力だ。(褒めてます。) 再演がありましたら皆様ぜひ。円盤が出たら鑑賞会しましょう。
(追記) 娘のことは一瞬頭をよぎったかもしれないけれども、でも進めてた。 そんな感じ。 純粋に人々に役立つことをしたいという気持ちから実施された実験というの もその通りで、 (ラジウムの特許取らずに利用可としてたのも役に立てて欲しいという前提 だったしね。) だからこそ、研究が遅れる、もしかしたら出来なくなるかもしれないという 切迫感が鬼気迫るマウスへの実験シーンにつながって、なんという皮肉と 唸りました。 さらに言うとマリーにとっての研究って単なるキャリアではなくて=生きる だからこそ、様々な事情が絡み合って、どうしたってラジウムの闇を 公開できないという気持ちはものすごく理解できました。 アンヌもマリーのそういう背景を知っていたからマリーを許せたし、 でも工場の仲間達の死を思うとまた自分も同じように死んでいくだろうと 思うと今までのように一緒に過ごせなかったんだろうと思います。
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