草原の満ち潮、豊穣の荒野
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98 草原の満ち潮   5 草の海

「あ...雨...」

ぽつり、ぽつりと空を見上げる顔に水滴が落ちて来る。
やがてそれは勢いを増し、強い雨となって焦土に降り注いだ。

銀棍を右手にまっすぐ持ち、空を見上げるカノンの足元に燃えていた火が
静かに消えて行く。
降り出した雨に消されるというより、溶け合って消えて行く焔。

そこにいた者すべてが濡れていた。
カノン、魂であるルーやガレイオス、幽霊、ヴァグナーさえ。


「ああ...」

少し遠くの街があった場所。
そこには僅かに守られた地があった。
ナタクや若い神官達が守った魔法陣の陣形の中、寄せ合うように座り込む街人。
彼等の上にも激しく雨が降り注いでいた。

「空が...」

雨が激しくなるにつれ、澱んだ暗い空が明るくなっていく。

銀の長い髪のイザックが濡れた頭を振った。
傷を負って倒れ込んでいた者達が起き上がる。


「傷がなくなっていく」

陣を守り、疲れ果て膝を抱いていた若い神官は軽くなった体に戸惑い、空を見上げた。

「恵みの雨、ちゅうとこやな」

ナタクは黒い丸眼鏡を外し空を見ると再びかけなおした。

焼け野原となった大地に激しく降る雨はやがて川のように流れ始めた。
焦土を冷やすように澄んだその流れは焼けた大地の全てに流れていく。

「あっ!太陽だ」


子供が膝まで浸かった川の水面を指差した。
空にはまだ何もない。雨はいつしか止み、青空のように明るくなりかけた空だけがあった。
しかし川には強く眩しくきらめく太陽のそれが映し出されていた。

何もない大地に流れる川は流れを増し、打ち寄せる波のようになった。
太陽をその流れに映し出したまま、人々の背丈まで押し寄せる。

「わあっ!溺れる...」

逃げる間もなく人々はすべて水に沈んだ。
カノンも微動だにしないまま水に飲み込まれた。



「たっ、たすけて」

街の者達は悲鳴をあげ泳ごうとし、倒れた。

「?」

眩しい空。
青い空に太陽が強く輝いている。

「あれ、苦しくない」

「ぶわ!」

息を止めた者が絶えきれず吐いた。

「あれ...」

波をかいたつもりが異様な手触り。
恐る恐る目を開けた者が叫んだ。

「く...草だ!水じゃなくて草が!」

自分達の周り一面が草の海になっていた。
かつて街があった場所、荒野、街道すべてを覆い尽くして
緑の波が風を伴って走り抜けていた。
遠くで馬の嘶きがする。
かすかな鳥の声。


カノンは草の中に立っていた。
ボロボロの司祭服以外は傷も消えていた。

「ルー君、大丈夫かい?」

彼は傍に座り込んだ少年に声をかけた。

「カノンさん...」

ルーは自分の体が元のように肉体を伴って動く事に驚いていた。
胸の穴は傷ひとつない。


『さて、首謀者も消え失せたところで、この始末は誰に?』

幽霊が薄れた姿で笑った。
傍のガレイオスも薄れたまま呆然としている。
カノンは一度だけ、ガレイオスに視線をくれたが黙殺した。

『海の大悪人は奪った魂を返して死んじまったからなあ。
事の責任を取る奴がいないとまずい。なあカノン』

カノンは忌々しそうに眉をしかめ、眼鏡に手を当てようとして
何もない事に気付いた。

『海と地上の取り決め、ってもんが古い昔からある。
一方的に海から破ったのなら当面、便宜でも図ってもらわねえとな』

カノンは腹立だしそうに呟いた。

「僕は何も見ていない。関知もしない。さっさと戻るなり勝手にすればいい」

彼は、自分の体を使われた事を敢えて思い出さないよう銀棍を固く握りしめた。

『だとさ』

ガレイオスはじっと空を見て言った。

『責を求めるというのなら受けよう...それですむなら』

幽霊はそれを聞いて手を叩いた。

『あったりめえだ、このトンチキ。他の答えをしてたら今頃カノンに叩き消されてただろうよ』

ガレイオスは俯いたままで呟いた。

『お前達にはわかるまい。俺にもお前達の事は理解出来ぬ。
だが、壊滅や破壊も望んでいない。修復は最善を約束する』

『さっさと海に帰りやがれ』

幽霊は笑うとガレイオスの背中を蹴飛ばし、カノンに手を振った。


『さてと、お前の武器の中は窮屈でたまらねえ。今度こそ、あばよ』

「ヴァグナー!」

カノンは銀棍を落としかけたが、即座に握り直した。

一陣の風と共に幽霊も海の獅子も消え失せ、草だけがそよいでいる。

「カノンさん、ブルーは?」

「さあ。行くべき場所へ行ったはずだよ...」










「さあさあ、皆もう帰ってもええで〜」

ナタクの声が響き渡る。

「か、帰れと言ってもここはいったいどこなんです?
草ばかりで、街はいったい..」

「燃えてしもたやん」

「嘘だ、何かおかしな夢でも見てたに違いない」

「わーっ」

「キャーッ」

あちこちで悲鳴があがった。
澱んだ夜、首を刈られた者、焼かれて消え失せた者達が裸の状態で
草の間から顔を出していた。

人だけではない。
すべての失われた生き物という生き物がいた。
鳥は空高く駆け上りさえずり、魚は草の下に残る湿地で銀の鱗をきらめかせている。

「わ、わしの馬達があんなところに!」

「高い金を出した猟犬が、あんなところに!だっ誰か捕まえてくれー!」

裸の太った男が股間を隠して走り出し、若い女が顔を覆った。

「ま、命だけは取られんですんだんや、街や財産は気の毒やけど一から...」


ブーイングの嵐が沸き上がった瞬間、ナタクは皮膜の翼を広げ飛び去ってしまった。

「わしもそこまで知るかいな!命があっただけ儲けもんや、ちゅうに」


どこまでも眼下を草原が広がっている。
ナタクはカノンの姿を探しながら呟いた。



「...草の海やなあ...」