草原の満ち潮、豊穣の荒野
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「あんさん、俺と同じらしいが、自分が何やっとるかわかっとるんやろな」
「........」
海の獅子は魔獣を引きずったまま、魔法陣に立ち、空を睨んだナタクの傍を 無視するように通り抜けた。
「ちっ」
「動けぬのならおとなしくしていろ」
ナタクが若い神官に目を向けた。 少し離れた陣円を守る若者は地下から何かが突き上げて来るような感触に 脂汗を垂らして蒼白になっていた。 わずかばかり張られた結界の中に、無事だった街人達がいる。 ナタクの足元には複雑な陣形がいくつも交差し、彼はそこから微動だにしない。 いつの間にか染み出した水が足元の線を滲ませるように水溜まりを作り始めていた。
「お見通しかいな」
「愚かな。瑣末の犠牲を惜しんですべてを失う護り手など。 地上に大地を護る竜の一族がいると聞いてはいたがこんなものか」
「はは、俺もそう思うわ。やけど動かん」
海の獅子は魔獣を引きずり歩き去りながら嘲笑った。
「この地上の者の命と引き換えに大地を売った大バカ者を恨むがいい」
「え?ほんまかいな!それ。えらいこっちゃなあ、困った困った」
「.....」
カノンの姿をした海の獅子は竜の一族、ナタクの口ぶりに一瞬足を止めたが 魔獣が抵抗するように足掻き出したのを踏みつけ、唾を吐いた。
「...くそったれ...このこのくそライオ....」
「おお、その声はブルー殿、元気そうやないかー。 見てくれはずいぶんえらい事になっとるが」
ナタクがにんまり笑って手を振った。 魔獣は呆れて怒鳴ろうとしたが、獅子に殴られ再びぐったり動かなくなった。
「ふん」
魔獣を引きずり街道へ出て行く海の獅子ガレイオス。 ナタクはそれを見送りながら嬉しそうに手を叩いた。 脂汗を垂らした若い神官が何事か、と見上げた。
「ほれほれ、若いの、まだまだがんばりや。あっちはオッケー問題ナッシング〜やで。 こっちはしっかり俺らでやらなあかん」
「も...もう限界です。とても持ちません。死にそうです。 もの凄い力が下から....」
水溜まりはすでにあちこち這うように複雑な線を描いていた。 まるで張られた魔法陣に対抗するかのように、乾いた土に水で別の呪紋を波紋状に広げている。
「くっ...」
ひとつふたつ、包囲するように水の魔法陣が刻み込まれる度、若い神官は絶望的な声をあげた。
「あ...あの、がんばって下さい」
若い娘が最初に声をかけた。 花の女神の衣装をつけた愛らしい娘。
「え...えーと」
不安そうに固まっていた街人達はようやく自分達を異変から守っているものを把握し 次々に励ましはじめた。中には掌ですくった砂を水の行く先に投げつける者もいた。
「お?もうあかんの?お若いの」
娘に見つめられた若者は首を振って答えた。
「いいえ。私に任せてください。守り切ってみせますとも!」
「若いちうのはええこっちゃのー。俺も気張らんと」
笑いながら空を見上げたナタクが真顔で呟いた。
「すまんなあ、ヴァグ。俺が間に合わんかったばっかりに ずーっとカーくんから離れられへんかったんやな....」
鼻をすすったナタクの手に小さな手が触れる。
「ん?」
小さな幼児が不安そうにナタクの手を握って見上げていた。 地鳴りが何度となく響いて来る。
「おお、心配せんでええ。俺は同じ失敗は二度せえへんが、守るもん見誤る事はないで」
ナタクは幼児の頭をぐりぐり撫でた。 ヴァグナーも魔獣化して死んだのだ。 ルーの前に現われた幽霊。 生前、魔物を狩る者の宿命でもある魔獣化を覚悟し、時が来たなら人であるうちにとどめを、と ナタクに頼んであった約束はカノンによって代行された。
「なんぼ大事言うてもな、目の前の小さいもんも守れんと何が護り手じゃ。 そんなもん、一族からなんぼでも出したるわ。 もったいぶってなんもでけんアホとちごうて、ちいむわーく、っつうもんがあるんや。 それが俺ら竜が一族の誇りよ! わははははは!!」
ナタクは高笑いしながら背中から皮膜と爪の褐色の翼を広げた。
「うわ!」
驚いた幼児の頭をぽんぽん、とはたき、竜の一族は親指を立てた。
「ほれ、強そうやろー、安心しいや」
「自分で言うと変!」
「変言うなやー!俺はめっちゃ強いんやでー」
街人達が笑い安堵の表情を浮かべる中、若い神官だけが目を点にして固まっていた。 聖職者にとって『世界の護り手』たる竜の一族は神々しく高貴な存在でもあるのだ。
「...せ『世界の護り手』のひとりがあんなぞんざいだなんてショックだ...」
「若いの、ブッ叩くど」
「ひっ!い、命ばかりは...」
「しっかりして下さい。あなたがただけが頼りなんですよ」
怯えた若い神官を励ます花の女神達の中に銀の髪のイザックも混ざっていたが 誰一人、彼が少年である事など気付かなかった。
「ははは、俺はこないやけど、カーくんは執念深いから怒らすと殺しても死なん」
「誰の話です?」
「いやー、なんでもない」
街道。
海の獅子は魔獣を連れ、オンディーンのいる荒れ地に向かっていた。 その道は地下で荒れ狂う波の如く地響きを轟かせ、招くように道案内をしていた。
その姿は黒髪のカノン。 地上の人間、焔の神殿に所属する聖職者。 魔獣ブルーが目を覚まし吠えた。
「中身が変わってもムカつく野郎だ、チクショウ。 このへんブン取ったところで地上の連中が黙っちゃいねえだろうよ。 てめえみたいなのが関わりゃ正面戦争は避けられねえだろうに」
獅子が笑った。
「バカめ。俺は地上にはおらぬ。 すべては貴様達が古い時代に願い、やった事だ」
「なんだと...」
「地上に愚かな夢を抱き、秩序を乱し、人民を惑わし混乱に陥れた罪人共が はじめて役に立つ事を誇りに思うがいい」
「それですむと本気で思ってんのか?気違い沙汰だよ」
「ふん、大義さえあればどうにでもなる。 貴様と貴様が飲み込んだ亡霊共を人柱に地上を海に沈めれば文句を言う者もおらぬ。 はなから地上など関わる気も交渉する気もない。 為政者とはあらゆる機会を生かすものだ」
ブルーは全身を、更に膨れ上がらせ爪と牙を剥き呻いた。
「けったクソわりい。昔っからてめえのやり方は...」
獅子は魔獣を大地に叩き付け、黙らせると立ち止まった。
「.......」
獅子はカノンの顔を別人のように変え目の前にいるものを見ていた。 黒髪は鬣のように逆立ち、あたりの空気をも一変させていく。 ガレイオスは感情を押し殺した低い声で言った。
「...あなたの為にやるのだ」
長い白髭の海の老人がそこに立っていた。
その頃、荒れ地の砂塵の中オンディーンは笑いながら呪いを吐き出していた。 そのひとことひとことが大地に突き刺さるように何かの紋様を生み出して行く。 その度地下から地響きが響き渡る。 その足元は既に地割れから水が吹き出していた。
『潮が満ちる。時は来たれり...』
すべての命を呪って死者が詠う。 空の月はいびつに歪み、荒野の水面に不気味な影をゆらめかしている。
『...生けるものすべてを壊してしまえ...』
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