草原の満ち潮、豊穣の荒野
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少年は走っていた。 幽霊を振り切り、死んだ海の匂いがする街を。
さよなら、リラおばさん....
青い少年の口から言葉が溢れる。 あの日のブルー、少年の日。 氷の海の街を出た夜。 遠ざかる街の灯を、振り返る事もなく走った。
あれからどのくらい僕は走ったんだろう.... ルーの思考はブルーのものと重なっていた。
いや、もっと昔。 ずっとずっと遠い時間の果てから僕は...僕らは走っていた。 白銀の髪の若者が笑っている。 同じ歳くらいの娘と幸せそうに。 黒髪の背の高い男が唇を引き結び手紙を投げ捨てている。 彼は悲痛な叫びをあげた。
ー彼等を殺せと言うのか!ー
少年はひたすら走り続けた。 あとを青い死者達が風と共に追って来る。
空へ、南へ行こう 遥かな地上へ 遠く、道は長いけれど、誰かが行きつけば あとに皆が続いて行ける...
歌いながら彼等は手を伸ばした。 魂すら崩れかけ、ずぶずぶになった青い死者の群れ。
空に現われた月だけがそれを見ている。 ブルーが不安と期待を膨らませ走った夜のように。 死者達はそれを踊るように追い、腐った足がもげおちる。 転んだ者を次の死者が踏み潰して追ってくる。 エンドレスで歌い続けていた死者は下あごをぼろりと落として黙った。
ああ... 誰も辿り着けない...
完全に囲まれてしまった。 さっきの謎めいた幽霊は見当たらない。 忠告を聞かなかったのだからさっさと行ってしまったんだろう。
死者が死者に襲われるなんて....
少年は観念したように目を閉じた。
僕が手に入れたもの...それは泣く事だ.... どうにもならない事に絶望して泣く人間の無力さだ。 だったら、泣く事が出来ただけでも...
少年、小さな『ルー』は焔が消えるその瞬間まで泣こうと 空を仰ぎ、固まった。
「泣くんじゃないよ男の子が」
青白い大きな月を背に、ひとりの黒髪の女が立っていた。 満身創痍。 破れた黒い布を巻き付けた素肌のあちこちから血を流し 豊かな胸元には深紅の刺繍布を絡ませている。
「ちくしょう。あのタヌキ親父!」
彼女はそう叫ぶと死者の群れを長い足でなぎ倒し 片手に持っていた生首を死人達に投げつけた。 丸顔にヒゲ。
「この死人共!さっさとお行き」
死者達がじりじりと退がる。 デライラは大股で歩きながら怒鳴り続けた。
「何が海の末裔だ。過去に殺されてたまるかってのよ」
足元でさっきの生首が何か喚き立て、煽るように飛び跳ねている。 死人達は再びルーとデライラに近付き始めた。
「坊や、あのバカを止めな。英雄気取りでホイホイ乗せられて 踊らされてる事、永遠に理解できないアホ男をね」
ボールのように蹴られた生首が跳んでいく。
「アルファルド!なんてザマさ。 悪党なら自分の為に面白おかしく生きて死ぬもんよ。 家来以下の奴隷になり下がるくらいなら死んだ方がマシ」
ドン!
ルーの尻をデライラが思い切り蹴飛ばした。
「アホ男へ伝えといて。『死ね、バカ』って。 蹴りも忘れずに」
『もしかしてそれってブルーの事?お、おねえさん....』
デライラは蹴られて尻餅をついたルーの前にかがむと濃厚なキスをして微笑んだ。
「あたしはデライラよ。さあ、行って。 あとでもっとイイ事教えてあげるから」
『イイ事ってあの..』
不意を喰らった少年がしどろもどろで言葉を返すと デライラは真顔でこう言った。
「泣いてる暇なんかないって事」
『!』
ルーは始めて気付いた。 背を向けたデライラの月明かりに照らされた黒髪は半分が濃い碧になっている。 死者達の前に立つひとりの海の女。 そして傍らの瓦礫には小太りな男の死体。 首がない。
死体は建物の窓に仰向けで突っ込み、硝子に頭を切断されていた。 片手には血のついたナイフ。 そしてその傍らにもうひとり動かない人影があった。 胸から足元まで赤い刺繍のように流れている血潮。 彼女は背中の壁に寄りかかるようにして 蹴りを入れた姿のまま絶命していた。 ゆるいウェーブの黒髪、健康的な浅黒い肌の南方美女、デライラ。
碧の髪の女は振り向かず手を振った。
「忘れないで。夢だの希望は生きる為にあるってこと」
目の前の死人達を見つめたまま女は静かに古い歌を歌い始めた...
むかしむかし、南の浜に 特別な椰子の木がはえていました
その木はまっすぐ 月に向かってはえていました
ルーは再び駆け出した。 背後で響く女の歌を聴きながら。 死者達は動きを止め、泣き始めた。 そして泣きながら風に塵となって消えて行く。 その不思議な歌は女の姿が砂のように風に散って消えるまで続いた。 数刻後、誰もいなくなったそこには薔薇とも潮ともつかない 不思議な香りだけが残っていた。
遠い遠い昔のこと。 遥かな楽園を夢見たひとびとが海にいた。 愛する若者へ恥じらいながら胸の内を打ち明ける娘がいた。 からかう子供達に頭を掻いた若い研究者がいた。
遠い忘れられた事のひとつは、娘の告白。 海の薔薇を髪に差し、微笑みかけた娘は魔獣になって死んだ。
むかしむかし、南の浜に特別な椰子の木が はえていました。 その木はまっすぐ月に向かって はえていました。 その木は神様の木で、特別でした。
月や星をひとやすみさせるために はえている木でした。 それはとても高く、空にむかってのびていました。 月や星はその枝に腰掛けて、こっそり ひとやすみしては、夜空へ登っていったのです。
ある夜、何人かの少年が月をさわりたくて 木に登ろうと思いました。
ひとりめはほんの少し登った時 風の音に耳を奪われ落ちました。
ふたりめは遠く広がる水平線に 目を奪われて落ちました。
さんにんめは星空の大きさに驚いて 足を滑らせ落ちました。
よにんめは星や月の近くまで登った時、 あまりの心細さと寂しさに飛び降りました。
ごにんめは歯を食いしばり、一番上まで登りました。 そしてそこで彼は知ったのです。 遠く遠く、水平線の彼方を見つめ続けた挙げ句 そこに何もなかった事を。
彼は悲しみのあまり月や星、風や空、海 すべてを呪って身を投げました。
彼は海には落ちず砂浜で砕け散り そのかけらは数億の砂の中に隠れ 待ったのです。
夕陽に染まった波が砂浜に寄せるように この地上とあの空が真っ赤に染まる日を。
数えきれないかけらの数の 呪いの言葉を吐き続けながら
いつまでもいつまでも....
「なんちゅう香りや...」
魔法陣を見張りながら空を見上げていたナタクは 少しばかり鼻をすすって肩を竦めた。 向こうから人影がやってくる。 ナタクの目が黒眼鏡越しに険しく細まった。
「カノン....ちゃうわな」
黒髪の海の獅子が牛のような魔獣を引きずってやってくる。 月の夜、再び死の海の風が吹き荒れ 薔薇の香りはあとかたもなく散っていた。
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