草原の満ち潮、豊穣の荒野
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77 魔鳥    1 夢見た場所へ

朝、ルーは妙な音で目覚めた。

ピチャリ、ペチャリとひっきりなしに聞こえる。
傍で仮眠を取っていたカノンも見当たらない。
床にはいくつもの呪文や、補助文様らしき図面が焼き付けられている。
折り重ねられた目覚めない人々や頭の無い死体が横たわる
ちょっとした化け物屋敷でルーは大欠伸をした。

「ヤな夢」

人を喰った記憶が確かに自分の物なのかわからない。
断片的に目覚めては記憶が欠片のように残っているだけで。
唯一自分のものであろうと思えるのは、冷たい氷に包まれた街での事だけ。
あれだけが繋がって思い出せる唯一のものだった。

「ブルー」

ルーは自分がそう呼ばれていた事を思い出していたが
カノンが自分を『ルー』と呼ぶのでそう呼ばせることにした。
どうでもいいのだ。
誰が自分をなんと呼ぼうがそれがなんだっていうんだろう。

ペチャ...

「?」

再び音がした。
ルーはその音が死体の山のむこうから響いているような気がした。
恐る恐る死体の陰から音の方向を覗く。

「わっ!!」

カノンが座っていた。
だが、ルーが驚いたのはカノンではない。
座って銀棍を握ったカノンの視線の先。

「静かにしたまえ」

カノンが小さく声をかけルーを隣に座らせた。

「あれ...なに」

「鳥だ」

カノンからやや離れた場所に刈り取られた頭の山がある。
ちょうどお下げ髪の少女が寝ていた場所。
司祭の手でそこにあったベッドはどけられ、魔法陣を焼き付けた祭壇に
変えられてはいたが。
その魔法陣を踏んだ大きな足と爪。
猛禽類のそれ。
ルーは足元からゆっくり上に向かって目を上げて言った。

「でかっ!」

そこにいたのは人間の大人を軽く越えた背丈の黒い鷲。
サイズさえ普通なら特に野生の鷲と変わらない。
金色の目にやや黒みを帯びた羽毛。
カノンはじっと鳥の足元を見つめて微動だにしない。

「げっ、あいつ何やってるんだ?」


大きな鷲はカノンやルーを無視して何かをせっせと食べている。
さっき聞こえたピチャピチャという音はこれだったのだ。
ルーが顔をしかめた。
黒い鷲は首塚に頭を突っ込んでは生首をくわえ、その目玉をひとつずつ
突つき出して飲み込んでいた。
もうあらかた喰いつくしてほとんどの頭に目が無い。

「いいのかよ、あんな事させて」

ルーがカノンの袖を引っぱる。
だがカノンは鳥と足元に絡まった銀細工の護符を見つめて動かない。

「しっしっ!!カラスじゃあるまいし死体なんか喰いにくんな!
行っちまえ!」

ルーはカノンの背中から顔だけ出して叫んだ。
鳥は無視した。
そして最後の生首から目玉を突つき出して飲み込むとルーを初めて見た。
金色の目。
足に絡んだ銀細工が朝日を反射させて光る。
魔法陣は作動していたが銀の護符を持つものを拒まなかった。
窓辺の朝日を背中に受けて立つ巨大な鷲は神々しさすら、感じさせていた。




「グェプ!」



いきなり大鷲がゲップをした。

「.....」

神々しい大鷲はあからさまに不機嫌そうな目つきで頭を下げ
ルーとカノンを覗き込んだ。

「うぷ!くさっ!!」

ルーがたまらず顔を覆った。
大鷲のゲップが臭くて耐えきれない。
カノンは眉すら動かさず鳥を正面から見ていた。
この匂いは死臭。
カノンにとってはそう珍しい匂いではない。
鳥とまともに睨み合う形で、彼は座って瞬きひとつしなかった。
しばらく巨大な鳥はカノンを見ていたがやがて足を彼の前に差し出した。

銀の鎖と細工。
中央には赤いルビーがはめ込まれたペンダント。
これこそカノンが最初、ルーに持たせたものだ。

「これは君が持っているといい。あの子にはもうひとつ
渡してある」


カノンは静かにそう言うと眼鏡を外し、浄眼で鳥を見つめた。


「...君はもう戻らないんだな」


大きな黒い鳥はカノンにとって違うものに見えていた。
そこにいるのは何度か会った事があった人間。
彼はかつて自分を『ブルー』と名乗った。
そしてそこにいる彼はもう生きた人間の姿をしていなかったのだ。






「何?」

ルーが鼻を摘んでカノンと鳥の間に入ってきた。
大鷲はルーの頭を翼の先で軽くひっぱたいた。
コロコロコロとボーリングの玉のようにルーは目なし首塚に突っ込んだ。

「うぎゃー」

カノンは大鷲に手招きして見せた。
首に埋もれたルーを見てあきらかに、笑う仕草をしていた鳥が再びカノンを見る。


「死者を何処に連れて行く気かわからないが、これ以上生きた者を
巻き込むのはやめてくれないだろうか」

大鷲は何も応えなかった。
ただカノンをじっと見た後もう一度ゲップをし、飛び去った。

「あんちくしょう、なんて事しやがんだ!
今度見たらしっぽの毛むしってやるからな!」


大空の黒点にむかってルーが吠える。
カノンが眼鏡をかけ立ち上がった。

「あんた、あれ知ってるの?」

「いや、わからない。
ただ、誰か思い出したような気がしただけだよ」

「ゲップが臭い鳥なんかサイテーだよ」

「...彼には荷が重い、ということかもしれない...」

「え?」

「いや、なんでもない」

カノンは鳥が飛び去った空を見上げた。
あの鳥が飲み込んだものを、彼は何処かに帰すつもりなのか。
それとも....




「ねえ、またあいつら、来るのかなあ」

ルーが胴体の山を見て呟いた。
朝がごく普通にやって来て、小鳥だってそのへんで鳴いている。
妙な大鷲は置いておくとして。
夜が来て朝が来る。
そして自分は朝、目覚めている。
おかしいのは人々だけだ。

「どうなっちゃったんだろう」

「戦争だよ」

「は?」

「簡単に言うなら民族間の紛争に近い。
違う立場の者同士がひとつの場所にいる」

「街?」

「いや、ひと、の中にだ」

カノンは胴体だけの死体と、眠っただけの人々を指差した。

「小さな規模では時々起こっていた事だった。
僕らは『魔』とか『闇』と呼んでいるけどね。
生きた人間の体を欲しがって入り込む存在だ。生きた人間同士でも
近い事をやっている。死んでも同じ事さ」


「そんなのが今ここにいっぱいいるってこと?」

「ご名答。僕はそれを整理する職業を持っている。
少しばかり、そういったことが出来る能力が
生まれついてあったおかげでね。
だが、正直ひとりでどこまで対処出来るのか自信はない。
早くナタクが戻ってくればいいんだが」


ブルーを追って街から出たナタク。
だが、そのブルーはゴーストのような姿でカノンの前に現われた。
そして尋常ではない死者の山。
ナタクが追って行った場所にいるものが誰なのか
それだけが気になっていた。
罠だったかもしれない...






「そんなに欲しいもんなのかな」


ルーがぼんやりと呟いた。目の前に転がる死体。
あれはただの物体だ。


「ルー君、人は寿命以外の死に方もするものだよ」

カノンが笑って言った。
神殿で彼が司祭らしい顔を見せる時の笑顔。
子供たちの多くはその顔で彼を見ている。
裏の姿など知る由もない。


「例えばだ。
ぼんやり歩いていれば走って来る馬車に跳ね飛ばされて
死ぬ事もあるかもしれない。
酔っぱらって歩いていれば橋から川に落ちて
溺死する事もあるかもしれない」

「ボケっとしてるからだろ」

「ああ、その通り。死はそうやって
唐突にその人物の何もかもを断絶することがある」

「それとあいつらとどう関係があるのさ?」

「もし、君が何か大切な用事や楽しい出来事を前に
そんな事になったら残念に思うだろう?」

「そりゃあね」

「じゃあ、もし、そうなった君に、もう一度戻れるチャンスが
与えられたとしたら?」

「そりゃ、必死こいて...え?」

「もう一度生きたいと願う者と
今当たり前に生きている者との差は明らかだよ。
死を知る者の方が生きる、という意味を強く知っている。

彼等は全力で来るぞ」


締めくくりの言葉と同時にカノンの笑顔は消えた。

「誰にだって事情はあるさ。だが問題はそんなことじゃない。
ブルー殿が何を考えていたかはわからないが、とにかく今やるべきことは..」


ルーが緊張した。
静かだった街の方から悲鳴や何かが壊れる音がする。
カノンが銀棍を握り直した。


「ルー君、君にも手伝ってもらうよ。
君は僕に『殺されなかった』人々を然るべき場所に運ぶんだ」

「キリがないから嫌だ」

「じゃあ、好きにしろ」



カノンが朝日の中、険しい声で何か叫んだ。
一瞬で銀棍の両端に白刃が現われ、彼は再び大鎌を携えた死神と化した。
死神は迷わず騒ぎの起こった方向へ走って行く。
ルーはひとり背中を向けて立っていた。




「...だってオレ、あのパンくれた人の生首とか見たくねえもん」


ルーはカノンとは反対の方角へ駆け出して行った。
見た事もないたくさんの人間よりも、パンをくれた人間を助ける方がいい。
カノンの大鎌からどこか遠くへ逃げるよう話さないと。

ルーは途中で青い顔の生気のない街人にすれ違ったが
彼等は誰もルーをかまわなかった。
ルーの青い髪、肌、目、ほとんどおなじ姿。
ただ唯一、ルーの頬は血の通った肌のそれ。
そこが彼等とはっきり違っていた。
目の青も彼のそれはかつてのブルーと同じく
海の波の色。太陽の光で照らされた明るい海のブルー。


ルー、『海の子供』は力一杯街なかを走って行った。
かつて冷たい氷の街を走り抜けた時と同じように。
あいまいな記憶とは裏腹、一足ごとに彼はそれを思い出していた。



ここは海じゃない。