草原の満ち潮、豊穣の荒野
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~lose me~
カノンはその夜外に出なかった。 ルーを連れて来た事もあったし、祭事を控え神殿中があわただしい。 彼はナタクのハッタリをどうしたものか考えてもいた。 ルーを連れ出した事を神殿にはまだ黙っていた。 騒ぎが神殿に伝わっていると言ったのも嘘である。 それでも明日には知れるだろう。 いつでも『奇跡』というものを人々は待ち望んでいるのだ。 ルーの派手な行動はそれこそ神殿にとって願ってもない。
カノンは小さくため息をついた。 ナタクが言ったように本来ならふたりまとめて街から出すはずだった。 数日前、マークしていた南方女の仲間らしきチンピラを軽く締め ブルーの動向は探ってある。 彼が街を出て何処かへ去るつもりならこれ以上構う気はない。 だが、忠告も聞かずトラブルばかり引き起こす言動にはこれ以上巻き込まれたくない。 ルーの為にも。
「彼はうかつすぎだ」
ルーが笑った。 ブルーから離してきたものの、街の出口で引き渡すつもりだ。 言われなくともこういう特殊な存在が神殿にどう利用されるか 知らないカノンではない。 ブルーの言葉はいつもどこか人を揺さぶりにかかる所がある。 知ってやっているかどうかは知らないが、ナタクの指摘通り 腹立だしい気分には間違いなかった。 カノンの思考を象徴するかのようにペンが机から転がり落ちる。 小さな手がそれを拾い上げ、持ち主に差し出した。
「ありがとう、ルーく...」
カノンはペンを受け取りかけて黙った。 差し出された手は小さな子供のそれ。だがその手の肌の色が問題だった。 彼はブルーに似て青白い。 物議を醸し出したのも、そのそっくりな風貌のせいだった。 その手がカノンの目には青く映らなかった。浄眼も使っていない。 ごく普通に地上の人間の肌。 そして髪は黒くゆるいウェーブがかかり、衣服さえ今まで着ていたものと違う。 更に決定的だったのはそのふたつの瞳。 左は氷のように薄く淡いブルー、そしてもうひとつ右は血のような赤。 今までそこにいたはずの青い子供は別人に変わっていた。 黒髪の子供は無表情にペンを手渡すと頭を軽く下げた。 まだ眼鏡もなく前髪だけが、カノンと同じように赤い目を覆っている。 カノンはかがみ込んで子供の顔を覗き込み再び言葉を失った。 顔をゆっくりあげたのは青い子供、ルー。 何事もなかったかのように彼は笑っていた。
「....」
カノンは浄眼を使ってルーをしばらく見つめた。 彼の氷青の目は周波数を合わせるよう焦点を絞る事で ゴーストや善とされるものを見分ける事ができる。 しかし以前見た時と同じく、空洞の体に青い焔が踊る以上の情報は 得られなかった。
ますますわからなくなった子供の実体と、明日の厄介事について カノンはもうしばらく考え続けなければならなかった。 多分ブルーは祭りで執心の女神に会ったら街を出るつもりだろう。 それまでにこの子を連れてどこかで合流させなければ。 正体がなんであれ、ブルーの太陽に対する反応と ルーの能力を考えれば連れさせるべきだろう。 その先は、はなはだ頼りないが管轄外だ。 問題はそれまでに彼が何をしでかすかわからないという事。 万が一何かあった時、人と交流可能な存在を魔物同様に扱うわけにいかない。
カノンはゆっくり首を振るとルーの前にかがんで言った。
「ルー君、僕は君が意味もなく存在するとは思わない。 多分、君はあの粗忽者の彼になんらかの形で必要なんだろう。 間違っているかもしれないが、僕にはそう思える。 それから...」
ルーは静かにカノンを見ている。
「いいかい、今の君の存在は『善なるもの』だ。 だがどんなものも裏返せば必ず逆のものが潜んでいる。 そしてそれもまた、君自身だ」
カノンはそう語りかけながら遠い過去、自分が聞いた言葉を思い出していた。
「君がただの人形でなければ覚えておきなさい。 君は...」
「のんびり話しとる場合やのうなったぞ、カーくん」
部屋の扉越しからナタクのいら立った声がカノンの言葉を遮った。
「ちいと目を離すとブルー殿はすぐいらんことにドタマ突っ込みよる」
カノンが大きくため息をついた。 乱暴に開けられた扉。
「忌み女にもろに関わりおったで、ブルー殿は」
「忌み女?」
「ああ、どこの街にもおるやろ。幽霊扱いやらタブー扱いんなっとる やっかいもんが」
「そう言えばどこかの令嬢の事で通達が来ていたが、関わるなと...」
「ブッ壊れた金持ちの娘が何度も逃げ出してうろつくんで とうとうなかった事にしよった...ま、そんなとこやろな。 ブルー殿はお前が思っとるようには動かん。 祭りなんか待っとったらルーくん、お前の養子やで。ええんかい?」
「僕は子供が苦手だ」
カノンは眼鏡に指先を添え、苦々しい表情で答えた。
「やかましわ! さっさとブルー殿とっつかまえて二人セットで街から出さんと 祭りのド真ん中でえらい騒ぎになる」
「彼は今何処に?」
「森の方へ歩いてったとこまでは見た。街はまだ出とらん。 ほれ、ルーくんはよ連れていかんかい。 ...いや、のんびり歩いて見失っても厄介じゃ。 俺がつれてこ、ルーくんおんぶやおんぶ」
「ちょっと待ってくれ、渡すものがある」
カノンはルーを呼び止めると自分の首にかけていたものを外し 小さな手に両手で握らせた。
「ナニやっとんのじゃ...っておい、カーくん」
「ルー君、これはお守りだ。持っていきなさい」
「はい、司祭様」
ルーは笑顔で答えるとナタクの傍に駆け寄った。
「ほいっ、しっかりつかまっとれや」
バサリと空気を打つ音がした瞬間、ルーの体は放り上げられ ナタクの背中にしがみついていた。 ルーはほんの数秒目をつぶっただけだったが、目を開けた時 黒髪の司祭も神殿も遥か眼下、夜空高く舞い上がっていた。
「ルーくん、飛ばすで、落ちんよう気いつけえ」
もし彼らを下界から見た街人がいたなら『竜人』の姿に驚いただろう。 巨大なは虫類状の皮膜翼と強力な風の呪言。 それ以外はいつもの黒眼鏡の酒屋。 ふたりはあっという間に森へと降り立った。 泉の岸辺を見回すがブルーの姿はない。
「こっからじゃ街から出れん...引き返す時間もなかったはずやし。 こっちのが追い越してもうたらしいな。 ブっ飛ばしすぎたか」
冗談めかしながらナタクはルーの手にあるものを見つめていた。
「なあ、ルーくん。ブルー殿待ってちくっと座ろか。 こっちおいで」
泉のほとり、翼をいつの間にか消し去った竜人と青い子供が並んで座る。
「それな、聖印、言うんやで。 赤い石付いとるのは火のお神さんのお守りちゅう印なんや。 それ持っとると悪いもんが逃げてくようになっとる。 なくしたらいけんよ」
ナタクは司祭が渡したものをルーの首にかけてやったが 大人仕様のせいか納まりが悪い。
「あかん、ほんまならこういうもんはブルー殿が持っとらないけんのや。 ルーくんの方がしっかりしとるからな。 ええかルーくん。カーくんから聞いたかもしれんが 『ええもん』いうのはな、『悪いもん』も引き寄せてまうんじゃ。 そういう時に一番あかんのは誰やと思う?」
ルーはにこにこしながらナタクの顔を見ている。
「ええか、よく覚えとき。一番やばいんは『人間』や。 弱いは、ころころひっくり返るは、すぐつけ込まれる。 ブルー殿はかなり心細いんよ。カーくんもまだ似たようなもんやけど、 アレはそういうのいっぺん見とるし... なあ、ルーくん。火の意味知ってるか?」
ルーは首を傾げて銀の鎖に繋がれた細工ものを見つめた。 手のひら半分程のペンダント。 火の神殿の紋章を象った銀細工の真ん中に、小さな赤い石がはめ込まれていた。 石の中央に反射して現れる光は灯のようにも見える。
「人間は弱いようにしかでけとらん。やけどそのぶん火を持っとるんよ。 しんどいとな、その火がぼう、いうて燃えてな、みじめな事にならんよう しゃきっとさせてくれるように出来とる。 火のお神さん言うのはそのシンボルなんや。 カーくんかてどないに魔法の腕上げても、胸ん中の火が弱かったら ただのメガネくんや」
ナタクはどこか懐かしげな表情で聖印に触れると、ルーの服の下に仕舞いこませた。
「ルーくんも持ってるやろ。悪いもんは皆その火を持ってない。 だから人間を惑わせたりそそのかしたりして奪おうとするんよ。 取られた人間は抜け殻同然になる。 なーも感じんようになってからっぽになってまう。 そうなったらもう人間終わりやで。 タマシイ燃やして中から力がもりもりファイト一発、それが人間いうもんや。 よう覚えとき...」
ルーがぶんぶん頭を縦に振るのを酒屋はぐりぐりと撫でて止めた。 彼はポケットから小さな小瓶を出し、一口飲むとルーにも勧めた。
「酒やけど、ルーくんもう立派な大人や。 ジュースは卒業、飲んでええ!」
酒屋がルーの背中をポン、と叩いて小瓶を放る。 受け取った『大人』のルーは勢いで一気に流し込んでしまった。
「うあちゃ。ジュースやない、ちゅうたやん」
けらけら笑ってばったり倒れたルーが眠り込んだのを確認し 酒屋はもう一本取り出して飲み始めた。 彼はルーに自分の上着をかけてやると、ひとり泉を眺めた。 誰もまだ来ない。
「ブルー殿からルーくん離したんは失敗やったな... あの忌み女の持っとったもんブルー殿にくっついとったで。 くそ、もうちっとはよ戻ってりゃ止めたんやけど。 もともとああいうタイプは一番あかん。 つけ込まれる隙だらけやし、情に流されてそのまんま溺れよる。 見とる方が辛いわい...まったくどいつもこいつも....」
数時間後。 人の来る気配もないまま酒屋はしびれを切らして立ち上がった。
「ルーくん、起きや。ブルー殿とは入れ違ったみたいや。 夜が開ける前にもう一回街を見てみよ。もしかしたらもう行ってもうたかもしれん。 最悪ルーくん送ってかなあかんかもな。人に見られたらまずいし... ああ、もおいこ」
竜人が飛び去った数分後、泉からブルーが顔を出した。 人の気配に彼も出るのをためらって待っていたのだ。 そこにだれがいたかまでは知らない。 ブルーは頬の傷を押さえて足早に歩き出した。 ぼろぼろと指の隙間から落としても落としても虫が這い出してくる。
人とすれ違ってもわからないようにすっぽりとフードをかき寄せ彼は歩いた。 彼の歩いた後にぼとり、ぼとりと得体の知れない虫が落ちては消える。 まだ朝日は気配のみ。 ブルーは陰鬱な顔で黙り込んで歩いていた。 誰とも口をききたくなかったし誰の顔も見たくなかった。 あのパン屋の前すら振り向きもせず歩き去った。 正確には彼は何も覚えていなかったのだ。
ぼろぼろと落としていったものがまるで記憶か何かのように 歩く度、彼は自分が誰であるかを忘れていった。 もしそれをカノンが見たなら一瞬で彼の身に起こっている事を見抜いただろうが 彼はまっすぐ誰にも会わず、街の外へ歩き去った。
ルーはまだ街に残ったまま。 街は夜明け。 もうじき祭りがはじまる。
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