草原の満ち潮、豊穣の荒野
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53 ドーンコーラス

ブルーはここ数日機嫌が良かった。
ぞんざいな名付けのまま定着した『ルー』に悩みもするが
取り立てて腹を立てる程じゃない。
特に神殿へやってから、かたことながら
言葉や意味も理解しはじめたようだ。
但し、時折良からぬ単語がとんでもない場で飛び出しては
酒場の人間やブルーをあわてさせた。

それでもブルーは年の離れた弟を持った兄のように
辛抱強く手や足が出るのを我慢できた。
つまり毎日に不満がないという事だ。


「ブルー、お前最近よく歌ってるなあ」

酒場の店主が夜の開店準備をしながら声をかけた。
ルーはそろそろ神殿から戻る頃だ。

「あのじいさんの楽器の調子がいいんですよ。
オレも芸術には理解を示す人間だから
いい音聞きゃ歌いもするさ」

「なぁにがお芸術かね。歌はいいとして酔っぱらって
脱ぐのはやめてくれ。昨日はあのじいさんまでやりやがった。
それでなくともあの子の教育上よろしくない」

「乱闘、イカサマよりはマシでしょうよ。女性客は喜んでた」

「...お前、そういう奴なのか?」

「そうだよ」

「女性ってお前な...
ああ、そう言えば最近デライラはどうした?」

「ああ、あいつなら獲物漁りじゃないですか」

「は?なんでもいいがどうせ踊ってくれるんならこう
キュッとボーンの...」

「聞かれたら殺されますよ。こないだ声かけた奴が
返事抜きで股間蹴り上げられてた」

ブルーがふざけてその時の男の様子を真似た。

「やめないか、ルーが真似るだろ」

「あいつはルーよりサルだ」

「ああ、なんて気の毒な子供なんだ...こんな親父」

「オレはそんなヘマやらねえって。あいつは朝起きたら
頭から生えてたんだ」

「お前、開き直ってるだろ」

店主は肩を竦めると、火にかけた鍋を見に行った。
ブルーはニヤつきながらフードを被り直すと手斧で薪を割りはじめた。
力仕事を引き受けて嫌な顔ひとつしない。
重い瓶が入ったケースも担いで歩き店主に喜ばれた。
夜になれば伴奏屋と歌で客を盛り上げる。
申し分のない店員だった。

空いた時間があればブルーは体を鍛え、隣でルーがそれを真似る。
腕立て伏せをするブルーの隣でルーがお尻だけを
ひょこひょこやっても好きにさせていた。
スポンジが水を吸収するようにルーはいろんな事を覚え始め
ブルーのあとをついてまわる。
そんな寛大なブルーだったが一度だけルーを殴った。

浴室でシャワーを浴びている時だった。
ルーが浴槽の縁に顔を乗せ、ブルーの後ろ姿をじっと見ていた。
宿泊用の浴室には数人の客もいる。ブルーは地上の習慣に従って
水も浴びるようになったが髪を洗え、と石鹸を渡された時
海の名残りを残した呼吸器官に大ダメージを与えて以来
水だけを頭から浴び続ける。そんなブルーの背中を見ていたルーが
突然大声で叫んだ。

「ブルー!お尻割れてる」

居合わせた客がブルーをはがい締めで止めながら笑い転げ
ちょっとした乱闘騒ぎとなった....








もうすぐ例の日だ。
あの上品な司祭を一発でもボコれれば...。
彼の言う事は百も承知だが黙って従うのはプライドが許さない。
ルーや自分の事も話せ、と言われて何から話せばいいのか
考えるのも面倒だった。はい、人を喰いました、なんて未知の人間に
ぺろっと喋るバカはいないだろう。
そんな事を考えながらブルーは毎日準備に余念がなかった。

オレは普通に毎日を送りたいだけだ。
司祭も一発殴ればそう突っ掛かる気もしないだろう。
平和的解決だ。
今じゃ人喰いの記憶も曖昧でこのまま地上人として生きていけそうな
気がしている。もしかしたらもうアレさえも
じじいがなんとかしてくれたのかもしれない......
デライラが戻ればルーを連れて自分にふさわしい場所へ行くのだ。
例えばスラム。


もう子供じゃない。
大人達に左右される弱い存在ではないし、『自由』がある。
ブルーは泣きたくなる程嬉しかった。
過去は捨てていいのだ、と登る太陽に叫びたかった。
お前になど邪魔はさせない、と。
隣で眠るルーの横顔に自分の幼い日を思い出しながらブルーは
過去を思い出していた。

強い事が全てだ。弱ければ御される。
強ければ....
顔が半分崩れた少女の事やしつこく付きまとった人魚の言葉を思い出す。

『...だけどぼくには勇気がない....』


弱虫め、と小さく呟いて夜空を見た。
そうだ、幼い頃憧れた獅子の心臓。
もう後に戻れない場所にいる。あとは行くしかない。
一番最初の壁はあの司祭だ。
オレの過去を彼は引っぱり出そうとしている。
そう簡単に従うと思ったら大間違いだ。
オレは自分の意志で生きている。もう人なんか喰わない。
いや、もう誰にも騙されないし、いいようにもされるものか。
片腕の男の立っていた位置にオレが立ってやる。
騙される奴が悪いんだ....


ルーがシーツを蹴り落とした。
お腹が覗いている。
拾い上げて戻すとひとり机に肘をついて
リラの事を思い出して祈った。
海流の神殿にいた頃覚えさせられた死者への祈祷。
まだ彼女が死んでから一度も祈りなどあげていなかった。
ブルーは明け方までずっと去って行った人を偲んで祈り続けた。
あの頃のリラの目に映っていた自分はこんなだったんだろうか、と
時折ルーを眺めながら。

星は明け方のドーンコーラスに変わり白々と明けゆく空。
太陽が昇って来る。
ブルーは窓に拳を叩き付けると大声で叫んだ。


「Fuck You!!」