草原の満ち潮、豊穣の荒野
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51 Something to Talk About 3 No, I don't have a …

その朝、彼はいつものように娘の歌を聴いていた。
人魚の娘。
移民の夢を歌に託して彼女は歌った。
様々な言葉を選び抜き、繋ぎ合わせ
祈り、願い、希望を歌う。
彼はそんな朝のひとときが好きだった。

「愛してます」

「...えっ!?」


人魚の娘の唐突な言葉。正しくは『歌詞』
彼は長い銀の髪をくしゃくしゃにかきながら狼狽した。
くすくすとまわりから笑い声が漏れる。

「あの若先生はあの子が好きなんだよ」

小さな子供が囃し立てるように叫んだ。

「これっ。失礼だよ。お黙り」

「だって怪しいよ。なんか真っ赤になってるし」

「すみません、まだ子供ですから...」


子供の口を塞いで毋親が詫びたが彼女の目も笑っている。

「...いや...その私は別に...」

「別になあに?」

人魚が銀の髪の若者に詰め寄った。


「あはは!若先生が逃げ出したよ」

「恥ずかしがらなくてもいいだろうにねえ。
若い者同士なんだから」


人魚を囲んで座っていた人々が笑い合った。
地上へ行く日が近付いてくる。
海を思いきって離れ新天地を目指すのだ。
銀の髪の若者は密かながら壮大なプロジェクトに
携わる研究者のひとりだった。
度重なる海底の変動で海で暮らす者達は追い詰められていた。
乏しい食料、厳しい環境での生活、病の蔓延。

密かなこのプロジェクトは口べらしでもあった。
それでも知恵あるものはなんとか生き延びる事を
考え続け、ありとあらゆる手段を試してきた。
成功すれば地上で生きのびられる。
海と地上に別れて、安定した頃に戻るのだ。
それが自分の生きている間なのか子孫の代なのかは
誰もわからなかったけれど。



古い童話をシンボルに彼等は祈り、危険に臨んだ。
海に残っても餓えか寒さで死ぬ。
ある毋親は3人の子供のうち2人目が死んだ朝、
末の子の手を引き海を捨てる決意をした。
ある男は息子夫婦に黙って志願した。
またある若者は新しい未来に胸を弾ませやってきた。
誰もが絶望的な未来から少しでも光を掴もうと願っていた。


そして、銀の髪の若者もまた、その重さを若いながら
背負い、宿命として人生を捧げようと決めていた。
小さなどんな可能性でも偶然でもいいから必ず彼等を
地上に、と強く願っていた。

あの人魚の娘の為にも。




彼の上司は黒い髪で背の高い男だった。
あまり喋らず冷たい感じすら漂わせている。
銀の髪の若者はいつも彼に従って働いた。
無駄のない的確な采配。ただ従っていても何ら問題などない。
信頼と使命感で送る毎日は彼にとって充実したものでもあった。
ほのかな恋心まで加われば人は無敵にすらなり得る。

尤も人魚の方が彼をどう思っているかはわからなかった。
思わせぶりな恋の歌でからかっているだけかもしれない。
彼は時に高揚と失望に揺れ動きながら日々を送った。
生体実験に突入した時すら、人々は恐れなかった。

背後には死。
それよりは遥かにましだと少々の勇気を焚き起こし合い
神の加護を祈った。
そこにいる全ての人々が皆同じように。

結果はまだ出ていない。



銀の髪の若者は眠る度に南の浜辺を夢見た。
人魚の歌でそれは彼の胸にいつか訪れる現実の風景として
刻み込まれていた。

移民。壮大な計画、無謀な夢...熱い焔...見開かれた瞳の赤...

『むかしむかし.....』




「わあっ!!」

叫び声と共にブルーが飛び起きた。
数枚かけられたシーツが床に散らばる。


「ブルー殿、具合は?」

カノンが声をかけた。
夕刻、薄暗い神殿の待ち合い室。
ソファで眠り込んでしまったのか目の前には応接用のテーブル。
夢を見ていたんだろうか。思考がよくまとまらない。


「ブルー殿?」

カノンがもう一度声をかけた。

「あ...そうだったっけ...」

ブルーが小さく舌打ちした。
そうだ。この司祭の前でオレは...
くそ、なんてヘマをやらかしたんだ。


「すみませんがオレの事はほっといてもらえませんか」

ブルーは仏頂面で一枚のシーツを頭から被り直した。



ひでえ目覚めだ。