草原の満ち潮、豊穣の荒野
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41 幻の海〜カノン

街の大通り。

ブルーは日射しを避けながら歩いていた。

適当な店にでも入って商売が出来る場所を探すか。

彼は荷袋の残り少ない『商品』の事を考えながら
小さな飲食店のドアを開けた。
ざわめきの中、来客を告げるかろやかなドアベル。
店内の客がいっせいに振り返った。

静寂。


「え?」


店内で昼食を取ったり歓談していたはずの彼等は
ひとり残らず訪問者を見つめている。


....何かまずかったか?


踏み入れた足を止め、状況の把握を試みる。
旅用のごつい外套が物乞いとでも間違われたか。
それとも。

とっさに己の頬を触わる。
ケロイドのようにただれた感触はない。

「あの、こちらを飲食店のようにお見受け...」



店内の客が目配せし合う。
彼等は頷くといっせいに立ち上がった。


「し...失礼!」

ブルーはあわててドアの外に飛び出そうとしたが
入って来た男にぶつかり店内に押し戻されてしまった。
男が丁寧な口調で詫びる。

「おっと、これは失礼を」

「あ、いえ、こちらこそ..」

答えかけたブルーが黙った。
ぶつかった男が眼鏡に指先を当て、確認するよう覗き込むのを
渋面でかわす。


「君は確か...」

「....」


その声には聞き覚えがあった。
そしてその黒い髪にも。右側だけがやけに長い前髪。
肩できちんと切り揃えられた髪型にしては何処か
アンバランスに見える。

そうだ。先日森で会った男だ。

黒い詰め襟を崩す事なく着込んだ上、銀縁の眼鏡はインテリを思わせる。
ブルーにとって苦手なスタイルの男。
しかも彼は...


『〜よく来たね〜』




背後でいっせいに沸き上がった歌声。
ブルーは飛び上がらんばかりに振り向いた。

昼食や酒杯を放り出した店内の客達。
彼等は両手を広げ、訊ねて来た友人を歓迎する歌詞を
店内はおろか店の外まで響き渡らせる。
大合唱の昼下がり。


「なっ...な...」


黒髪の男が軽く笑った。

「ここはそういう店なんだよ」

「は?」


ワンコーラス歌い終えると彼等は何事もなかったかのように
再び座って食事を再開した。


「いらっしゃい。旅の方だね。驚かせましたか?」


店の奥から店主らしき親父が声をかけてきた。
彼は黒髪の男にも慣れた仕種で会釈を寄越す。


「ここの常連は揃って喉自慢なんですよ。
一見さんと見たらすぐああやって歌わずにはいられない。
まあ、気にせずごゆっくり」


店主は笑顔で仕切りながら二人分の席を空けた。
黒髪の男と向かい合ったテーブル。
半ば無理に座らされたブルーを無視して黒髪の男は
飲み物を頼んだ。

「旅の方、注文は?」

「あ...ああ、適当に」

この男の前で商談なんか出来るか。
難癖でもつけてくるかもしれない。
面倒だから下手に出ておくか。

そ知らぬ顔で男はティーカップを口に運んでいる。
飲食の姿はその人なりを物語ると言うが....
ブルーとは正反対に背筋を伸ばし音も立てず
端正に飲んでいく。

ブルーはと言えば。
運ばれたグラスに口をつけ瞬時に噴き出した。
黒髪の男は実に巧みに避け、店主に拭く物を、と
声をかけた。

「なんだ、こりゃ」

「あんたソーダ水を知らんのですか」

「なんでこうまずいモンばっかなんだ...」

ブルーは言ったあとで気まずい思いをした。
客達が不快そうな顔でこっちを見ている。
まずい。これから商売をしようってとこなのに。


「す...すみません。あの慣れないもので」

くそ、この黒髪野郎、早く消えろ。


「あの...ぶしつけですがこれを」


ブルーは荷袋から素早く旅の道中交換した
獣皮を掴んで差し出した。


「なんだい?」

「ささやかですがお近付きに」


黒髪の男は差し出されたそれを受け取って眺めている。
頼むからさっさと受け取って行ってくれ。


「では」


黒髪の男は受け取ったばかりのそれを
すっと突き返した。

「え...」

足りないってのか?



「僕はこういう事に一切関わるつもりはないし
気にもしない。心配しなくても
いちいち小物にかまってる暇は無いんでね」


ちくりと皮肉を交えて彼は眼鏡を押さえた。
奥の薄く青い瞳が、微かに厳しい色を浮かべて見える。

ちくしょう。堅物かよ。


「では、僕はこれで。
なるべくなら君とこれ以上出会わない事を祈ろう。
特に夜は」

ブルーがテーブルを蹴飛ばして睨んだ。
だが、黒髪の男は傾いたテーブルを難無く押し止め
立ち上がっただけだった。

「ごちそうさま」

彼は端正な仕種で己のイスを戻し、店主に飲食代金を渡している。

『小物』は完全に無視されていた。





「おい、あんた旅人なら国の歌でも教えろよ」

「一見で店に文句つける度胸があるなら
歌でも歌ってもらおうじゃないか」


隣のテーブルの男達が挑発めいた口調で声をかけてきた。

「え...」

勿論、そう言って軽く相手に歌わせておいて
自分の歌をえんえんと聞かせる腹である。
皆喉を競い合っていつも誰かに聞かせたくてたまらないのだ。
旅人は彼等のいい聴衆として歓迎されていた。


「歌なんか知りませんね」

「なんでもいいから歌えよ。伴奏屋もいる。
なんか母ちゃんが歌った子守唄でもなんでもいいって」


店の隅で弦を絡ませた箱のようなものを
担いだ男が叫んだ。


「ああ、悪い。こっちはまだ準備中だ。
どうにもうまく調節できん。あんたすまんが伴奏はなしだ」


子守唄なんか知るかよ。第一...

黒髪の男をちらりと見る。
『声』なんかここで出した日には。
とっとと行ってくれ。



「あ、司祭様、すみませんがちょっと教えて頂きたい事が」

店主が出て行きかけた男を呼び止めた。

「うちの娘が今度朗読会に出るんですがどの詩を
選んだもんかと...」


ボケ、クソ、死んじまえ!
なんで呼び止めるんだよ。嫌がらせか!


「早く歌えや」


またしても店中の客が自分を見ていた。
店主と黒髪の男以外は。

くそったれ。
だが、ここで馴染めばなんとか商売に持ち込めるかもしれない。
ブルーは仕方なく腹を括った。


注意深く息を吸い込みながら『開く』喉を一番細い状態まで絞る。
歌え、と言っておきながら、店内はざわつき
歌を聞こうと言う雰囲気は微塵も無い。

ちょうどいいからさっさとやっちまえ。

喉に手を当て、力が入らないよう加減する。
ほんの僅か、空気が揺れブルーの口が開かれた。


「......」








ざわめきが止んだ。


水の波紋。
唄い手を核にその『音』が店内を同心円状に広がって行く。

海の波。
寄せ返すような響きの振動を空中に生み出し
彼は唄った。詞などない。
それどころか言葉ですらない。
例えるならば映像。

仄暗い岩礁の影の奥深く。
青い深海。
沈んだ難破船に積まれた財宝の輝き。
優しい飯炊き女の暖かい食卓。
海の灯が汚れた街の氷の端にも光る朝。
焔の石を担いだ子供達の誇らし気な笑い声...



黒髪の男がゆっくり振り返った。
今まで無関心そのものだったその表情に
僅かながら変化が表れている。

聞いているのは耳ではない。
全身からその音は入って来た。
儚く、懐かし気なその光景は幻の海。
唄い手の胸の奥にある風景を彼等は『聴いて』いた。

年配の男が鼻をすする。
亡くした女房を彼の唄に見て。
子供の絵姿を取り出して覗く出稼ぎの男。
誰もが懐かしいその記憶を揺さぶられ
幻の風景を見い出していた。



唄の終わり。
幻は消え失せ、元の日常が戻る。
彼の唄は短かった。

彼にとって唄は他者に聞かせるものではない。
全身にぶつけて伝えるコミュニケーションであり
攻撃の手段でもあった。
辛い記憶なぞ死んでも他人に見せるものか。
彼は当たり障りの無い幼い日だけを軽く唄ったのだ。
黒髪の男もいるのにうかつな事はできない。
彼はそう判断して短く切り上げた。



静寂再び。


「え...」


全員が黙り込んで自分を見ていた。

しまった。やりすぎたか?

ブルーが退散するべきだ、と店主に代金を払いかけた時。
割れんばかりの拍手が起こった。
彼等はこよなく歌を愛しているのだ。
素晴らしい歌い手が現れればストレートに受け入れる。
黒髪の男までが感心したような表情で手を叩いていた。


「あんた、代金はいい。その代わりここでまた歌って
もらえないだろうか」

店主が酒瓶をドン、と置いた。飲んでくれ、とグラスを差し出す。

「いや...あの私は...」

「食事と少しばかりの手当てをつけるよ」

「いや、ただ、軽く商売をさせてもらえたらと思っただけで..」

「歌ってくれりゃオッケーだ」

「はあ...」



彼は複雑な気分だった。
海ではこんなもの当たり前の事で人魚達の歌声に比べれば
月とスッポンだ。
願ってもない事ではあるが...




「君の名を聞かせてもらってもいいかな?
僕はカノン・ルシード。この街の神殿に務めている」

黒髪の男が突然歩み寄って名乗ってきた。
状況判断が今ひとつの頭であわてて返す。


「あ...どうも。オレ..いや私はブルーと申します。
見ての通り旅の途中でして」


「先ほどの言葉は取り消す。
夜、ああいう場でなく、縁があればまた会おう」

「...はあ。そうですか...」


小物って言わなかったっけか?さっき。
ろくな縁じゃなきゃいいんだがな。

作り笑いで胸中を誤摩化しながらブルーも
さりげなく探りを入れる。


「神殿の方で?」

「ああ、すまないがもう行かなくては。
ブルー殿、ではまたいずれ」

「ええ、それではまた」


流されたか。まあいい。
えらくお上品な育ちなんだか、ブルー『殿』だってよ。
背中がムズムズする。苦手だね。
カノン・ルシード。
どのみち用心しとくに越した事はない。

「...ふん。神殿ね...」


カノンと名乗った男を見送りながらブルーは
グラスを口に運んでまた噴いた。


「あんた発泡酒もダメなのかね」

店内の客が爆笑した。
ムっとしながらも二口めは飲み込んで見せる。

喉に流れる複雑で雑多な感触。
森で呷った液体のなめらかな甘さを思い出して
彼は下を向いた。



「良かったら商品をひとつ見てもらえませんか。
海辺の街で買った装飾品と真珠で....」



発泡酒をボトルでラッパ飲みしながら
ブルーはにこやかに商売物の取り引きを始めた。

商業都市ヒダルゴ。
日射しは暖かい春。夕暮れにはまだ早い街角。