草原の満ち潮、豊穣の荒野
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商業都市ヒダルゴ。
この街には大きな森や泉がある。 賑わった場所と静かな場所がバランス良く配置された街。 見つけだした泉も完全な自然物ではなかったが 深夜、誰かが訪れる場所ではない。 見回りの者はいたようだが。
そんな夜明けの泉。 水面から音も立てず顔を出し、辺りを見回す者がいた。 無人。『彼』以外は。
彼は人の姿の上半身に続いて、ぬめった蛇体のような半身を あらわにしながら岸辺に這い上がった。 青白い肌、そして長く青い髪。 海の獣人、ブルー。 彼は注意深く水辺を調べて這い回った。 似たような種族が暮らす痕跡を求めて。 だがここは地上。
時折獣人らしき者を見かけても、彼等は大地の上に生きていた。 ブルーのような水棲種族は獣以外見当たらない。 彼は肩を落とし、溜め息を漏らすと捜索を打ち切った。
地上、ここは風と土の世界。 晴れた空こそ青く、白波のような雲が流れるが 彼にとって乾きを運ぶ苦痛でしかない。 それでなくとも海を出てまだ一年足らず、見知らぬ世界は わからない事だらけだった。唯一の救いは 地上人が己と意志を疎通できる事。
ただし、今の彼の姿にその保証はない。
岸辺に上がった彼はうずくまって呻いた。 激痛と共にバキボキと骨の軋む音が響く。 長い胴体を激しく地面に叩き付けて転がり回る数分間。 激痛の中で彼は、いつも何かが笑うような声を聞いていた。
ようやく痛みが治まった頃、彼は人の姿に戻っていた。 火傷はすっかり消えている。海ではこんな事なかった。 地上に出てからだ。
「...くそったれめ。何を持たせやがったんだ。 じじい」
ブルーは悪態を付きながら身支度を調え、穴を掘った。 重い旅装を埋めておくのだ。体を休め、旅の必需品を揃えねばならない。 水、食料、痛んだ遮光コートの代用品、薬の材料、それから.....
彼はよろよろと売れそうな品を見繕い始めた。 魔物の子を押し付けた厄病神の言葉を思い出しながら。 あんなもの、買わなければ良かった。 夜の空をひとり、見上げるのにうんざりしていたせいか。 連れでも欲しかったのか....
彼は膝を抱えて座り込むと呟いた。 すっかり口癖になってしまった言葉が出る。
「...ここは海じゃない....」
知る者もなく、どうしていいかもわからない。 ただひとつだけわかっているのは、みじめに野垂れて死ねば 自分を追った連中が喜ぶ、という事だ。 こうやってのたうっていても同じ事だったが それは考えない事にしていた。
「ここは海じゃないんだ....」
荷袋を引き寄せる。中身はもう残り少ない。 彼にとって必要な物は増えて行くばかりだというのに。 なくなってしまった時、どうすべきか考えながら 暗い顔で覗き込んだ彼が小さく声をあげた。
緑色の小瓶。
「....」
昔、リラから盗んだ薬。 酔っ払いのじいさんに飲ませようとした毒。 今、はじめて彼はべろべろじいさんの気持ちが わかったような気がしていた。
目を伏せて、彼が再び呟いた。
「楽園なんかどこにもない」
あの飲んだくれじいさんも、もういない。 優しいリラも。 本当ならあの街に戻って今頃....
「帳尻なんて合うもんか。 こんな物入れやがったのがその証拠さ」
小瓶を持つ手が震える。 彼はしばらく食い入るようにそれを見つめた。
これを飲めばいいのか。 そうすりゃこんな望みもしない場所で生殺しの目に 合わずにすむんだ。自分で選んでオレは死ねばいい。
そうさ、オレはクズなんだ。口先だけで何も出来なかった。 育ててくれた人の物を盗んで、人を殺して喰って 何ひとつうまく行かなかった。 子供もあの人魚野郎も見殺しにした。 エレンディラもどうなったかわからない。
そしてここに来て....
白い雛鳥の声が聞こえた気がした。 唇を噛む。
あんなチビ一羽、ちょっと荒野に引き返して放せば それで済んだんだ。そんなに遠くなかったはずだ。
「......オレだってマトモじゃない。 人を喰って、それから....」
幻聴がもう一度聞こえた。 背中をぽん、と押すように。
ブルーは凄まじい勢いで小瓶の封をちぎり取っていた。
生きてたって何もできない。 ヘタすりゃまた誰かを喰うかもしれない。 あのチビみたいにブッ殺されるのも まっぴらだ!
小瓶を一気に呷る。 ほとんど発作的な行動。
喉に流れ込んだそれは甘くなめらかだった。
....飲んじまった。
ブルーは小瓶を落として座り込んだ。
「クズのまんまかよ...」
ぼろりと涙が落ちる。
眠るように死ねる、とじいさんは言ったっけ。 さっきまでこんなつもりじゃなかったのにな。 もう、いい。 もうがまんできなかったんだ。 オレは誰も傷つけるつもりはなかった。 なのに何もかもがうまく行かないのはなんでだ? べろべろじいさんだってリラが止めなきゃ殺してたかも しれない。助けるつもりだったのに。
辛いよ、じいさん。オレさ、万事がそうだった。 ほんとにどうか...してる...
意識が遠のいて行く気がする。 全身から力が抜け始め彼は座っている事も出来なくなった。 ぐにゃり、と仰向けに倒れる体。痛みも感じない。
ああ..これから死ぬんだ。
彼ははじめて地上の空を真正面から見た。 もうこんな場所からはおさらばだ。 何処へ行くかなんて知った事じゃない。 耳ではない聴覚にホイッスルのような音が聞こえる。 朝の訪れを示す空気の音を聴く。
『はは....あはは...』
ブルーの目に白んだ空が映ったその時。 彼の体にあの笑い声が響き渡った。 彼はこれ以上ないくらい目を見開き、顔を歪ませた。
太陽が深海で生まれた彼を照らしている。 彼は仰向けのまま、絶望の叫び声を上げた。 意識が戻ってくるのと同時に焼け付く痛み。 死にながら彼は生きていた。
登る太陽は地獄の開始の合図。 そして、そこから逃げる事すら許されない事を 彼は知り、焼かれながら絶叫した。
顔を覆って彼は全てのものを呪った。 生まれて来た事も、海も地上も何もかも。
「いったいオレにどうしろって言うんだッ!!」
ブルーは叫びながら荷袋から青い球体を掴み出した。
「こんなもの!」
握りしめた手の中で光が揺れる。 水の中で揺らめいていた青い光。 投げ付けられた石の痛み、怒号、そしてエレンディラの痩せた肩の感触...
スラムの街角、リラの食卓、片腕を食いちぎられた男の叫び声、 顔に走った熱い痛み、砕け散った女神像、じじいに突っ込まれた酒樽 自分をののしった人魚の娘...
「オレだって必死で....ッ」
彼は光を握り締めたまま嗚咽した。
登る朝日は彼を容赦無く焼き、地獄が始まる事を告げる。 彼はのろのろと立ち上がるとコートとフードを被り 歩き出すしかなかった。
街へ。
今日を生きる為に必要ないくらかの糧を求め 彼は顔を洗い、作り笑いを顔に貼付け街へと歩いて行った。
よく晴れた青い空。 泉には木漏れ日の光がきらきらと光って揺れている。 転がった小瓶に残った僅かな雫。 小さな雑草に朝露と混じって染み込んで行く。 ほどなくその小瓶の周りの緑は白く しおれて枯れた。
猛毒の小瓶。
『死を思え。そしてその向こうにあるものを見よ』
老いた司祭の最後の伝言。 ブルーにはまだ届かない。
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