草原の満ち潮、豊穣の荒野
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15 カノン






地上。

やや時を遡る。


海から遠い、ある雪景色の街角。


大きな街道から馬車やたくさんの旅人が入って来る。
白い息を弾ませて子供が走る。
街並に並んだ雪の像や色とりどりのフラッグ、人形。

雪祭りの朝。

多少目的地と離れていても
わざわざ旅人が立ち寄るその日。
いつもより早い市の呼び声や音楽に華やいだ朝。

教会の鐘が時を告げる。


花を持った若者が誰かの家の
扉を叩いた。
顔を覗かせた娘がドレスの裾を摘んで微笑む。


肩に南国の猿を乗せた老人が打ち鳴らす太鼓。
踊る猿を食い入るように見ている数人の子供。
旅商人はあちこちで商売の支度を急いでいる。
誰もが浮かれて過ごすその一日。

教会の孤児院もこの日ばかりは賑やかな歌声に満ち
誘われるように街人が立ち寄って行く。
菓子や金子はいつもより気前良く寄付された。


孤児達を抱えた大きな教会。
四人の女神を祀る神殿が抱えた施設のひとつ。

火、風、水、土。

そこには赤い花と貴石で飾られた
焔の女神像があった。






「さあ、順番にちゃんと並んで」

三人の修道女が子供達に菓子を配り始めた。
篭いっぱいの焼き菓子やボンボン。
遠い国の旅商人が持って来た珍しい果物。
幼い子供から15〜6の少年少女まで20人ばかり
皆それぞれ菓子を受け取って笑う。


「あら、カノンはどうしたの?」

三人の内一番若い修道女が尋ねた。

「知らない」


尋ねられた少年の素っ気ない返事。

「またどこかで本でも読んでるのかしら」

「あんな奴いない方が楽しいよ。」

「そんな事言うものじゃありません」

「だって司祭様だって言ってらしたもの。
あいつの目....」


三人の中で一番年上の修道女が少年の口を塞いだ。
顔を見合わせる三人。


「もういいから行きなさい。
カノンには後で取りに来るよう言わないとね...」



子供達が広間から出て行った。
三人の修道女がひそひそと話し始める。



「いいですか?あの子は他の子供達にあまり
接触させないように」

「え...でもそれじゃあんまり...」

若い修道女が戸惑ったように言いかけて黙る。
年配の修道女の厳しい視線。


「さあ、今日は忙しいですから行きましょう」


丁度真ん中の年代の修道女が取りなすように告げる。
菓子をさっさと片付けて
修道女達が出て行った。


広間はいつものような静けさに戻り
女神像だけが佇む。
長い髪は足元の台座に複雑な紋様を描いて
刻んである。焔の紋様を象って
銀の燭台に繋がっていた。




コトリ。



絶やされる事のない蝋燭の火が揺らいだ。


像の後ろから小さな手。
そっと慣れた手付きで一本の蝋燭を抜き取る。
女神像の裏に狭い通路。
カノンはそこにいた。


黒い髪の少年。
年は6〜7歳くらいに見える。
細い腕に一冊の本を抱え彼は通路を上がって行く。
片手に握った蝋燭の火を消さないように慎重に。


通路は教会の尖塔に繋がっていた。
鐘の音を鳴らすのは子供達の仕事。
正確な時を刻むよう15〜6の少年がその役目を請け負う。

だがその日、街に鐘の音を届けたのは
もっと幼いこの子供の手だった。

長い螺旋階段を登って行く。
白い息を吐きながら彼は時折焔に手をかざした。

教会の尖塔は街のどんな建物よりも高い。
15の少年でも息を切らせて登る。
カノンは上手に息をついで登って行く。
慣れた足取り。


雪の朝の尖塔は凍える。その日彼は
少し下の踊り場に腰を落ち着けた。

小さな窓。

そこからさし込む光と一本の蝋燭で
彼は本を読み始めた。

外から楽し気な歌声がかすかに響いて来る。
黙ったまま、無表情にゆっくりと少年はページをめくっていく。

厚く重い一冊。
大人達が読んでいるような博物誌。
7歳の子供にとって決して優しい読み物ではないそれに
カノンは淡々と目を通していた。

時間さえ許せば、彼はいつも図書室かここに来る。
時折は窓の外の鳥の声に耳を傾け
空に目を向けもした。


春、夏、秋、冬。
孤児院に引き取られてから3度目の冬。

長めに伸ばした黒い前髪。
肩で切り揃えられたゆるやかなウエーブ。
ごく普通の人間の子供。

カノン・ルシード。

ちゃんと名字もある少年。
両親は亡くしたが同じ姓の血縁者がいる。


「お前など必要ない」


そう冷たく言い放った老人。



カノンはいつも俯き気味に歩く。
孤児院にいる他の子供達や大人達が居る場では、特に
そうだった。
努めて、他人をまっすぐに見ようとはしなかった。

そんな彼も、他に誰もいない窓辺でだけは顔を上げる。
鳥や空の様子を眺めては、僅かに微笑む事もあった。
己の境遇を嘆いて、俯いていたわけではない。
ただ、そうするに足る理由があった。




ガタン。



乱暴な足音と扉を閉める音。
カノンは螺旋階段の下を覗き込んだ。

あわただしい気配。
己を呼ぶ声がする。
カノンは小さく溜め息をついて階段を降り始めた。


螺旋の中程でカノンは足を止めた。

...なんの用事だろう。

7歳の少年はいぶかし気に顔を上げた。
大人達が6人。
狭い階段を塞いで立っている。


「読書してたのかね?」


先頭の男が声をかけた。

「...はい」


カノンは俯いて顔を半分髪で隠した。


「……っ」


抱えていた本を奪うように取り上げた男。
ぱらぱらとページをめくって顔をしかめた。


「魔法書だ」



男が本を放った。
後ろの大人達が顔を見合わせる。
聖職者の装束をまとった大人達。
目の前の小さな子供を疎ましそうに睨んだ。


「…博物誌の本…です。魔法書じゃない」

ほんの小さな呟き。
大人達がそれに耳を傾けることは無いとは解っていたけれども。


大人達が一歩進んだ。
カノンはその分、一歩下がる。

おそらく、本の内容が何であろうと関係ないのだ。
たまたま開いた頁にあった魔法に関する記述に目をとめ
彼らが判断したのだという事ぐらい、すぐに判る。
今まで何度も同じ事を繰り返してきているのだから。




「おいで。こわがらなくていい。
私達はお前を助けてやりたいんだよ」


一番後ろの男がカノンに呼び掛けた。
顔面に貼り付いた笑顔。
引きつって歪んだ微笑み。


「さっさとすませよう。
騒がれると面倒だ」


男がカノンの腕を掴もうと、手を伸ばしてくる。
不自然に片手を後ろに隠したまま。
カノンはその手を振り払うように、更に後じさった。
捕まればその後なにをされるかは、容易に想像がつく。

いつもと同じ事だ。

難癖付けられては叱られ、殴られ、蹴られる。
カノン自身に罪が無い、他の孤児達が成した悪事ですら
彼のせいにされるのが当たり前の日常で。

教育的指導と称しては
繰り返される折檻をじっと我慢するだけしか
彼には出来なかった。
独りで生きていくにはまだ幼く、行く当ても無い。
己自身以外に頼るものも、無い。

いずれ年を重ねれば
独りでも生きていけるようになれば
この場所を出て、どこか遠くへ行くのだ。
それまでは…

俯き、僅かに足を止めたカノンに、再度男が声を掛けた。



「顔を上げるんだ。
カノン。
お前の為でもあるんだよ」


男がゆっくり背中から手を覗かせた。
その手に握られていたのは真っ赤に焼かれた火かき棒。

カノンは僅かに息をのんだ。

ただごとではないと、脳裏で警鐘が鳴る。
火かき棒が恐ろしいと思ったためではない。
勿論、恐ろしくはあったが、それをここまで
持って来たと言うことの方が問題だった。

仕置きと称し、火かき棒によって背に
火傷を負わされた事はすでに何度と無くある。

だが、今まで彼らは必ず、地下にある
まるで牢獄のような折檻房にカノンを連れ込んで
それを行ったのだ。

それが、今日に限って何故。

「押さえろ。騒がないように口も塞いで...」



「うわっ」



カノンは男の腕を振払って階段を駆け上がった。
焼けた鉄が男の腕を掠めて落ちる。


「お..追い掛けろ!!くそっ」


腕を押さえて男が叫んだ。
いっせいに大人達が階段を駆け登って行く。

「どうせ行き止まりだ。上に行ってくれた方が
声も漏れなくて助かる」


男は火かき棒を握り締め階段を登り始めた。



「カノン、いい子だから来なさい」


7歳の少年は塔の頂上に立っていた。
頭上に大きな鐘。狭い足場の向こうは
空。


思わず下を覗く。
目眩がしそうな高さ。
背中に行き止まりの塀を押し付けて大人達を
見る少年。もう逃げ場がない。

冷たい風が強くカノンの前髪を後方に吹き流した。


「忌わしい」


火かき棒を握った男が吐き捨てた。


右の赤い瞳。血のような暗い赤。



強い風がまだ幼い少年の額から顎の先まで露出させる。
左は薄く透き通った氷の蒼。
反射的に下を向く少年。


『邪なる』

そう呼ばれるモノが彼の瞳に宿っていた。
邪眼。
この赤い瞳を見た者は皆眉を潜め横を向く。
魔物の力が宿っている、だの見られただけで病にかかる
そう勝手な噂や憶測で彼は
大人ばかりか同じ孤児院の子供達からさえ
拒絶されていた。


「その邪眼さえなくなってしまえば
お前はもう何も心配しなくてすむ。

隻眼でも邪眼よりはまだマシだ。
そうだろう?カノン」



「…っ嫌だ…!」


少年は赤い瞳を手で遮りながら叫んだ。

いつも下を向いていた。
だけどそれは自分が嫌われる事より
誰かを傷つける事がないように、と....


「!」

「さっさとすませろ!」


大人達がいっせいに7歳の子供を押さえつけた。
抵抗してばたつく足、赤い瞳を隠した手を引き剥がして
羽交い締めに固定する。
風すらそれを助けるように
長い前髪を吹き流していた。


母さん!
父さん!


よく覚えていない父母の顔が脳裏を過る。
幼過ぎた別れ。
死別。

それでも両親には幼いカノンを抱いて
繰り返し子守歌のように言い続けていた言葉があった。


『お前が持っている全てのものには
何一つ無駄なものはない。
赤い瞳も蒼い瞳も手足と同じように
全てがお前自身なのだ』
と....



『カノン、粗末にしてはだめよ....』


優しい母の声のそれだけは
幼い心にしっかり刻み込まれていた。



「邪眼を潰せ!」



「嫌だ!これは僕の....」



幼い子供の悲鳴が響き渡る。


「ちっ、しっかり頭も押さえておけ!」

熱く焼けた鉄が頭を背けたカノンの肩を焼いた。
厚くはないシャツはすぐに焼け皮膚を焦がした。


気の弱そうな笑顔の男がびくびくしながら階段の下を覗く。


恐ろしいのだ。
早く終わらせて逃げ出したい。

魔の力から子供を救う、と言いつつ
大人達は恐れていた。
今ならまだ幼い。


カノンの首を掴むように壁に押し当てる。
4人の大人達がそれぞれ少年を壁に貼付けるようにして
動きを封じた。


火かき棒を握った男が少年の目にそれを
かざす。



「うへえ」


その男は特に気が弱かった。
子供の泣叫ぶ声を聞くかと思うと耐えきれずに
階段を駆け下りて行く。


耳を塞いで一目散に男は逃げた。
しばらく降りて行く。


「...?」



静寂に己の足音だけが響く。
多分叫び声は木霊して聞こえてくるはずだ。
おかしい。

しばらくぼけっと立つ男。
聖職者の端くれではあったが信仰心もなく
喰いっぱぐれのない仕事という認識しかなかった。
魔と闘う為に、血を流すのも流されるのもごめんだ。
出来れば死ぬまでそんな現場とは無縁でありたい。




「.......」



誰も降りて来ない。
寒さがしんしんと背中に来る。暗く冷たい塔の中。


男はおっかなびっくり階段を上り始めた。
気絶でもしたんだろうか。


「ひゃっ!」


足を滑らせて男が階段でひっくり返った。

「なんだ?足元がやけに滑る....」


立ち上がった男はぶつぶつ言いながら腰をさすって
頂上へのそのそ進んだ。
鐘付き堂の冷たく重い扉をそっと開いて
男は覗き込んだ。



「ひいいいいいいいッ」



間の抜けた絶叫と共に男が後ずさって階段を転がり落ちた。


「だっ...誰か、だだ、誰かーっ!!」


裏返った声をぱくぱくさせながら男は下まで転がり降りて行った。
濡れた螺旋階段。


赤い色のそれが階段を伝ってぽたぽたと溢れ落ちて行く。





カノンはひとり立っていた。



足元におびただしい血だまり。
折り重なった大人達から流れ出した液体。


体中の穴と言う穴から噴き出した血液。
大人5人分のそれはいつまでも螺旋階段の上から
水が滴るような音を響かせて止まなかった。



少年は無傷で立っていた。
冷たい風の中魂が抜けたように死体の中に立っていた。
赤い目から血のような涙が頬を伝う。

それでも彼は泣いているわけではなかった。
ただぼんやりと大きな荷物を抱えて運んだあとのように
疲れた顔で空を見上げた。


赤い空。
まだ昼間だというのに火のように赤い。
見下ろす街も燃えあがっているように赤い。


彼の赤く染まったその瞳の中で
すべてのものが赤く染まっていた。



カノンは屍をもう一度見た。
火かき棒を握った腕も皮膚を剥かれたように
血溜まりに沈んでいた。
ちらちらと降り始めた雪が赤い池を覆ってはすぐ
真っ赤に染まっていく。


「うっ....」


カノンが口を塞いで膝を突いた。
頭がはっきりするにつれて胸糞が悪くなって行く。
血溜まりに転がった人間。
ひとりだけ顔が仰向いている。
開いた口は歯も赤く染まっていた。
見開いた目も...


濃厚な血の臭いにむせ返り、少年は苦し気に吐き始めた。
感情は何も湧いてこない。

ただ、己の為した惨状に
いや、醜く転がった死体に、ひたすら鬱陶しさと
気持ち悪さだけを覚えながら、血だまりの中に
吐瀉物をまき散らした。

ろくに固形物は無く、ほとんど胃液ばかりを吐ききっても
嘔気は止まなかった。









その事態はすぐに唯一の身内に知れたが
かの老人が取ったのは、肉親への救済措置では無かった。
ただ、邪眼持ちであれ何であれ
双方に公平な処罰を下せと命じ、報告に来た大司祭に
邪眼を封じる眼帯を渡しただけだった。




祭から数日後。



ひっそりと塔は入り口を封じられた。
小さな食事を差し入れる窓だけを残し
扉は塗り固められた。

幽閉されたその場所から
カノンが外に出されたのは一年後だ。


神殿の重鎮の血を引いるが故に
それを知る者からは扱いあぐねられ
邪眼であるが故に、恐れられ、疎まれる。

例え彼が、小さな虫や草花さえ踏まぬような子供でも。



腫れ物のような扱いを受けながら
カノンは幼い日々を過ごしていた。





次回は『深海の老司祭』を予定しています。