草原の満ち潮、豊穣の荒野
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〜星の名はレグルス〜
夢を見ていた。
幼い頃、はじめて地上の星を見た時のこと。 どうしても童話の月や星を見たくて 海上近くまで近付いた。
海流と海流の間に、ある時間抜け道が出来る事を 大人から聞いていた。 くぐれても、帰る事が難しい。 何人かが行っては戻ってこなかったと聞いていた。 少年、大人、少女、年寄。
それぞれ地上に様々な想いを馳せて海流の 流れに飛び込んで行った人々。 戻った者の話は聞かない。 死んだ、という者もいれば、戻ってなにくわぬ 顔でいる者もいるからだ、と。
あの日、べろべろじいさんが言った。
自分はかつて毎晩地上の星を眺めて育った、と。 誰も信用しない。 飲んだくれて1から99まで嘘話のじいさん。 南の島にも行ったなんて言う。
だけど毎回南にいる奴がお姫さまだったり 怪物だったり、女神だったりで一貫性がない。 子どもだって信じちゃいなかった。
そんなじいさんが話す海流の抜け道。 それだけは、いつも同じ事を繰り返していた。 おかげでオレはまるで自分が行ったみたいに 道を諳んじて言えた。
だけどじいさんは多分地上の星なんか 知らない。 なぜなら同じスラムのもっと歳をとったおばばが 証言しているから。
「奴は肝のちいせえ男だったんだよ。 間違っても地上に出てみようとか考えやしないさ。 それどこかこの街から一歩だって出てやしないんだ」
じいさんはおばばを見るとこそこそ逃げる。 おばばがじいさんの法螺話を、全部 ひっくり返しちまうからだ。 そんなじいさんが繰り返す地上への秘密の道。
おばばは言った。 多分ひいおじいさんくらいに行った者がいたらしい、と。 あのじいさんはその話を聞いて繰り返しているんだ、と。
春。
オレは決行することにした。 まだ8つくらいだった。
熱い潮流と氷の潮流の合間にできる道。 不思議なくらいじいさんの言った事は正しかった。 小さくてやせっぽちな体がやっと通る隙間を抜けた。 どっちの潮流も生き物なんかいなかった。
死の海流とも呼ばれて海上と深海を隔てていた。 オレはゆっくり用心深く海上に顔を出した。 ふう、と水から顔を出した時。
巨大な星空が広がっていた。 恐い程どこまでも大きな星の海。
「空には大きな獅子がおってな、弱い者が 顔を出すと捕って喰うんじゃ」
じいさんの言葉が頭をよぎる。 頭上の巨大な獅子。
ただ静かに瞬いて身じろぎもしなかった。 オレはそのままずっと見ていたかった。 だけど潮の流れが変わる前に戻らなきゃならない。
まあ、いいさ、毎晩来よう。 あの潮流を抜けられた者だけが 獅子の心臓を手に入れられるんだ。
オレは眼に獅子を焼きつけて元来た道を引き返した。 そして無事に戻った。
だが毎日道が狭まって行く。 ギリギリまで粘った。
そして知った。
地上へ続く道は季節の数日しか 開かない事を。
それからオレはわずかな期間 ずっと海上へ出続けた。 それでも辿り着いた夜空は、雨や雪で星達を隠して しまう事が多かった。
獅子も春にしか現れなかった。 数度しか見れなかった獅子。 胸の奥にしまいこんだ 心臓星。
潮流は流れを変え、やがて道もどこかへ消えた。
それでも 夜の夢に瞬くのはいつも あの満天の星空に立つ獅子の姿。
遠い昔、海の記憶。
青い男の日記の一項より
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