草原の満ち潮、豊穣の荒野
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3 傷〜片腕の男

片腕の男



場末の裏路地。

街道から少しばかり奥に入った『裏』の宿場街。
猥雑な酒場から嬌声と灯が漏れる。


「くそったれ、あのガキが!!
ブッ殺してやる!!」


激しい音と共にドアを破り
血まみれの男が飛び出して来た。

道に立つ女が振り向く。






「誰か銛を寄越せ!!」




壮絶な顔で血まみれの男が喚き散らす。
片手に重そうな皮の袋。

男に傷は見当たらなかった。ごついこけた頬の中年。
隙の無い身のこなしで得物を探る。
足で門を蹴り壊して支柱をもぎ取った。




壊れたドアの奥で誰かの悲鳴が響く。
野次馬達は数秒で散った。
関わらぬ方がいいと一瞬で判断できる
その悲鳴。

喚き散らした男すら顔色を変えて物陰へ飛び込んだ。


一瞬後。





澄んだ鈴のような高い音と共に
壁、窓、ガラス、寝具
ありとあらゆる物がふっ飛んだ。


「くそったれ獣人共め。どいつもこいつも
考えなしだ」

毒付きながら男は用心深くあたりを伺った。
裏街はほんの数瞬静まり返っていたが
すぐにまたいつもの喧噪が戻っていた。

よくある出来事。

隠れた男の前にかがんだ男は
飛んで来た柱の下敷きになって弱々しく
助けを求めた。


「ジャマくせえ」

皮袋を握った男は下敷きになった男を
踏み付け唾を吐いた。



そこにあった汚い宿屋は跡形も無い。
ひとりの少年を中心に前方数メートルのものが
何もかも吹き飛んでいた。

少年の叫んだように開いた口。
小さな牙とある種の音波を増幅させる喉の
器官が覗く。


「続けてやれるモンならやってみろ!」


男が怒鳴った。
青く長い髪の少年がゆっくりと
顔を上げる。
地上の蛇が鎌首をもたげるように
異様な滑らかさを伴って。


男は思わず一歩後ろに下がった。



子供の顔ではない。
口元は耳まで裂け、双の瞳は赤く見開いて
獣のような殺気を漂わせて立っていた。


彼の後ろには小紛れの肉片が転がっている。
高価そうな縁飾りが着いた布辺が絡み付いたそれ。

血と内臓。
へし折られた骨。
少年はその一本を握って放り捨てた。


獣人。
海に生きる者の中でも最も低い層の種族。
近年までは彼等を妖魔と呼んではばからぬ者も
多かった。獣や水妖海獣と交わった外道と
嘲りろくな仕事につく事もできない。

徴兵、墓掘り、ゴミの処理、過酷な肉体労働。
拒絶すれば生きて行く糧はなく犯罪者の道を辿る。

大人も子供も老人も。


「とんだ喰わせモンだな。
オレはてっきりどこぞのアバズレ人魚のガキだと
思ったんだがな」


海人の男は用心深くもぎ取った支柱を構えた。

人買い。
下の階級から糧を得て生きて来た男。
どんなに健全に見える社会でもどこか必ず
暗い闇への入り口と橋渡し役が存在する。

少年は心非ずの表情で男を見ていた。
「食事」をすませて獲物はもういらない。
少しずつ纏った殺気が散って行く。

瞳の色を赤から青に変えながら。
裂けた口も人の風貌を取り戻して行く。

それでも全身に被った血と肉片にまみれて
とてもまともな姿とは言いがたかった。


男は少年の姿が戻って行くのを待つ。
蛇体の半身で立つ少年はつんのめって
その半身を男と同じ
二本の足に変えた。



「得意先をブっ殺しやがって」


男は倒れた少年に重く尖った支柱で
殴り掛かった。


鈍い音。

低く暗い唸り声。




「!?」


男が目を見開いた。
右の肩に熱い感触が走る。

ゆっくりとそれはスローモーションのように
彼の目に映った。




凄まじい叫び声。
何かが咬み砕かれる音に続いて
ずさり、と一本の腕が彼から離れた。


ドアを破って転げ出た時の比ではなかった。
男は何を叫んでいるかすらわからない。
失った右腕を半狂乱で探しながら転げ回った。


その探しものが少年の口にくわえられている事も
気付かぬまま。


少年はぼんやりした頭で血が流れる腕をくわえていた。
まだあどけなさの残る顔。
わずかにふっくらと子供の特徴を残した頬。


大きく走った刀傷付きではあったが。





彼はそのままふらふらと何処かへ消えて行った。
片腕の男の行方も知れず。






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