ぶらんこ
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2004年11月20日(土) 翻訳

2年程前から、ほぼ毎日のように、(短い文章ではあるが)英文を翻訳するという作業をしていた。

最初は英語のままさらっと読んでいただけだったのが、ちょっとしたことがきっかけとなって日本語に訳してみたのだった。
よく聞く話だけれど、どんな簡単な英文でも、いざ日本語にしようと思うとこれがなかなか難しい。
とりあえず普通に直訳すると、なんとなく違う、というのがわかるのだ。
さらに、自分のなかで「わかっていた」ことが、実は「理解しているつもりなだけ」だった、と気付かされる。
それがとても新鮮で面白かったので、なんとなく続けてきた。



翻訳という作業は不思議だ。やればやるほどにその魅力を感じる。
だんだん、その英文を書いた人の脳のなかに入り込むような気さえしてくる。
まるで自分がその人になってしまったような気持ちになる。
でも、これは大きな勘違いだ。決して、相手の想いを決めつけてはならない。

だから、とにかく何度も読む。
一度読んで、意味がわかっても、また、わからない箇所があっても、まずは読み込む。
何度も繰り返し読んでいくと、その文章が何を伝えたいのかが、ぼんやりとわかってくる。(そんな気がする)
そうなって初めて「訳す」作業に入る。
すると今度は必ず、自分のヘンテコリンな日本語と格闘することになる。
何かが違う、と感じるのがなくなるまで、それが続けられる。
そして大体は、いい加減なところで手を打つ。
わたしのやってる翻訳は、まだその程度でしかない。

それでも、なんとなくこの作業に惹かれている。
これを生業にしたいという気持ちはないが、もっと勉強したいなぁとは思っている。



最近、自分の心を言葉にするということが、この「翻訳」という作業によく似ているなぁ・・と思う。
(もっと大きく言えば、絵描きさんとか陶芸家とか、何か創りだす人たちは皆、自分の想いを翻訳しているのだと思う。)
想いを言葉であらわしてみると、それでも何かが不足なような、或いはまったく違った感じの言葉になってしまったりする。
そうじゃない、と感じながらも、とりあえず言葉にしてみる。
口にしなくても、たとえばこうやって書いたり、消したりしながら。
そうやって繰り返していくと少しずつ、心に近づいた言葉になるような気もする。
「とにかく出来る限り多くの原文に触れ、数多く、翻訳してみること」が、良い翻訳者の心得だそうだし。。。



と言いつつ、今は翻訳することを止めてしまっている。


毎朝やっていたちいさな作業がなくなって、なんとも空虚な感じだ。
何度か自分のために翻訳してみたけど、どうもいけない。
たぶん気持ちがのらないのだと思う。わざわざ日本語にしなくても良いなぁ、と思ってしまうから。
綺麗な英文のままで頭に入れ、英文のまま受け止めている(気になっている)。
きっと、翻訳というものは、相手にそれを使って伝えないと、ほとんど意味のないものなのかもしれない。
少なくともわたしにとっては。。。



ひとの気持ちもそうかなぁ・・・と思ったりもする。
伝えること。

自分の気持ちを翻訳してみる。なるべく自然な言葉になるように。
それを誰かに伝えて、誰かがそっと受けとめる。
それがお互いにとって自然なかたちであればあるほど、ひとはわかりあえるのかもしれないなぁ。。。と思う。
そこには優しさとかあったかさとか、なんだかわからない心地良いものが流れるような気がする。
調和。かなぁ。。。



言葉から人の心を捉えようとしても限りがある。
でも、心は感じるもの、感じあうものだと思うから、そう信じて、出来る限り人の心に添えるひとになりたいなぁと思う。。。

そんな気持ちで相手の言葉を聞けるといいなぁと思う。
そんな気持ちで自分の心を言葉にできるといいなぁと思う。


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