ぶらんこ
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鹿児島(市内)まで出かけてきた。 フェリーに乗って、行った。 鹿児島へは車でも行ける。桜島を周って陸路を行くと辿り着くはずだ。 でも、フェリーを使う方が怖ろしく速いし楽チンなので、大体はフェリーに乗って行くことになる。 また、フェリーで車を渡すことも出来るが、安いとは言えないので、車は港の無料駐車場へと置いていく。
いつも感じるのだけれど、フェリーが離岸するときというのが、なんとなく好きだ。 海を渡って「あちら側」へ行くことに、こころもち、わくわくしてしまう。 甲板から眺めていると、つい今さっきまで自分が立っていたところから、ゆっくりと、でも確実に、離れて行く。 世界が分断される感じ。 あの場所にはもう、自分という存在はない。 なんとも不思議な隔絶感を味わう。 そして、向こう岸へと渡ることに、なんとなくちいさな期待感があったりする。 特別なことが何もなくったって、いつもそう感じるのだから、我ながら馬鹿みたいだなぁ・・と思う。
矛盾しているのだが、鹿児島市内に行くと、これまた奇妙な気分になる。 なじめない感じ。違和感。 街のそこかしこに、人々の往来に、「自分」が含まれていないことを感じる。 そこに住んでるわけではないので、それは当然のことかもしれないし、何も気にすることもないのだと思う。 それなのに、わたしは、どうもこのような気持ちとうまく付き合えないでいる。
問題なのは(問題にしなくても良いのかもしれないけれど)、人との関係のなかでもそういう「隔たり」を感じてしまうことだ。 ふとしたことで、ポーン、とひとりだけ、宇宙に投げ込まれたような気分になる。 目の前で話している人たちは、本当はどこかの異星人で(或いはわたしが異星人で)、彼らはわたしの目の前で何やら喋っている。 たぶん、わたし抜きで。 そんなときわたしは、我が家のぷーちゃんみたいにただそこに座り、時々見つめられたり、撫でられたりするのを待っている。 でも、ぷーと絶対的に違うのは、彼がすべてをそのまま受け入れているのに対し、わたしはそうではない、ということだ。 わたしはひとりだけ、違う空気を吸い、異なった滋養の下、くだらない思考の中にいる。
こういう感覚というのは、人は皆、多かれ少なかれ、持っているのかもしれない。 それを多くの人たちはうまい具合いに心のどこかに整理し、きちんとおさめているのかもしれない。 だから、これは特別なことでもなんでもなく、ましてや悲しい気持ちになんてならないのだ。 実際にわたしだって、人々の中では出来る限り普通に振舞っている。(つもり) ただ、どんな顔をしているのかはわからない。あまり良い顔はしていないように思う。 それから、その後にひどくくたびれる。重い気持ちになる。反省もする。なんでこうなんだろう、と落ち込む。 正直言って、辛い。
頭がどうかしているのかもしれないなぁ・・・と、思うこともある。 (人からそう言われたこともある) また、こんな風に文章にしたからと言って、どうにもなるものでもないし、たぶん克服したいとも思っていない。 ただ、そういった自分を見捨てたくない。 人は皆、「ひとり」と「ひとり」だ。それぞれがそれぞれ。孤独はどこまでも付いてくる。 だから、悲しい気持ちになったら、そのときは素直にそれを手放せるようにしたいと願う。 悲しみにじぃっと浸らなくても良いように・・・と願う。
フェリーに乗って、帰っていく。 離岸。 鹿児島が離れていくのを見ていると、今度は夢の世界が遠のくような気持ちになる。 現実へと戻る感覚なのかな?そういうことでもないと思うのだけれど。。。
毎朝・夕、こころの送り迎えをしている。 港内にフェリーが近づき接岸するのを見ていると、自然と畏敬の念が湧き起こる。何かの力を感じる。 そして、向こう岸の世界から笑顔で戻ってくるこころを見つけると、ついついこちらもにっこりとしてしまう。
たぶん、両岸の(人との)「隔たり」を繋いでいるのは、彼女自身の意思なのだと思う。 わたしは彼女のことを無条件に尊敬する。 彼女の勇気を。勇敢さを。寛容さを。
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