ぶらんこ
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2004年09月21日(火) 隔たりと繋がり

鹿児島(市内)まで出かけてきた。
フェリーに乗って、行った。
鹿児島へは車でも行ける。桜島を周って陸路を行くと辿り着くはずだ。
でも、フェリーを使う方が怖ろしく速いし楽チンなので、大体はフェリーに乗って行くことになる。
また、フェリーで車を渡すことも出来るが、安いとは言えないので、車は港の無料駐車場へと置いていく。


いつも感じるのだけれど、フェリーが離岸するときというのが、なんとなく好きだ。
海を渡って「あちら側」へ行くことに、こころもち、わくわくしてしまう。
甲板から眺めていると、つい今さっきまで自分が立っていたところから、ゆっくりと、でも確実に、離れて行く。
世界が分断される感じ。
あの場所にはもう、自分という存在はない。
なんとも不思議な隔絶感を味わう。
そして、向こう岸へと渡ることに、なんとなくちいさな期待感があったりする。
特別なことが何もなくったって、いつもそう感じるのだから、我ながら馬鹿みたいだなぁ・・と思う。



矛盾しているのだが、鹿児島市内に行くと、これまた奇妙な気分になる。
なじめない感じ。違和感。
街のそこかしこに、人々の往来に、「自分」が含まれていないことを感じる。
そこに住んでるわけではないので、それは当然のことかもしれないし、何も気にすることもないのだと思う。
それなのに、わたしは、どうもこのような気持ちとうまく付き合えないでいる。



問題なのは(問題にしなくても良いのかもしれないけれど)、人との関係のなかでもそういう「隔たり」を感じてしまうことだ。
ふとしたことで、ポーン、とひとりだけ、宇宙に投げ込まれたような気分になる。
目の前で話している人たちは、本当はどこかの異星人で(或いはわたしが異星人で)、彼らはわたしの目の前で何やら喋っている。
たぶん、わたし抜きで。
そんなときわたしは、我が家のぷーちゃんみたいにただそこに座り、時々見つめられたり、撫でられたりするのを待っている。
でも、ぷーと絶対的に違うのは、彼がすべてをそのまま受け入れているのに対し、わたしはそうではない、ということだ。
わたしはひとりだけ、違う空気を吸い、異なった滋養の下、くだらない思考の中にいる。




こういう感覚というのは、人は皆、多かれ少なかれ、持っているのかもしれない。
それを多くの人たちはうまい具合いに心のどこかに整理し、きちんとおさめているのかもしれない。
だから、これは特別なことでもなんでもなく、ましてや悲しい気持ちになんてならないのだ。
実際にわたしだって、人々の中では出来る限り普通に振舞っている。(つもり)
ただ、どんな顔をしているのかはわからない。あまり良い顔はしていないように思う。
それから、その後にひどくくたびれる。重い気持ちになる。反省もする。なんでこうなんだろう、と落ち込む。
正直言って、辛い。


頭がどうかしているのかもしれないなぁ・・・と、思うこともある。
(人からそう言われたこともある)
また、こんな風に文章にしたからと言って、どうにもなるものでもないし、たぶん克服したいとも思っていない。
ただ、そういった自分を見捨てたくない。
人は皆、「ひとり」と「ひとり」だ。それぞれがそれぞれ。孤独はどこまでも付いてくる。
だから、悲しい気持ちになったら、そのときは素直にそれを手放せるようにしたいと願う。
悲しみにじぃっと浸らなくても良いように・・・と願う。




フェリーに乗って、帰っていく。
離岸。
鹿児島が離れていくのを見ていると、今度は夢の世界が遠のくような気持ちになる。
現実へと戻る感覚なのかな?そういうことでもないと思うのだけれど。。。




毎朝・夕、こころの送り迎えをしている。
港内にフェリーが近づき接岸するのを見ていると、自然と畏敬の念が湧き起こる。何かの力を感じる。
そして、向こう岸の世界から笑顔で戻ってくるこころを見つけると、ついついこちらもにっこりとしてしまう。

たぶん、両岸の(人との)「隔たり」を繋いでいるのは、彼女自身の意思なのだと思う。
わたしは彼女のことを無条件に尊敬する。
彼女の勇気を。勇敢さを。寛容さを。




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