| 2005年11月19日(土) 思考する指先の感情と冒険 |
小学生の頃の作文って、なにをどう書いたらいいのやら、わからなかった記憶がある。 内容もさることながら、書式がなにやら堅苦しくて、あの「作文用紙」は好きじゃなかったなあ。 今でも作文用紙を前にすると、ペンが進まない。 僕らはキーボードで文字を打ちながら思考することに慣れすぎてしまったね。 語尾が「しまったね」なんて書くと、マイナスな感じもしてしまうけれど、別に良いとか悪いではなく。
まぁ、戻ろう。 作文用紙の正しい使い方、みたいのを習った気がするんだけど、例の 題名は最初の行に上から3マスあけて〜とか、 名前は二行目に、下から1マスあけて〜とか、 そんなんいーじゃん、伝統なんて、しきたりなんて、と当時からアウトロー志向の思考だった。 そ、かったるいじゃん、みたいな、感じ?(流行りの曖昧ことば)
そんなことより、書く人らしさがでるように指導したほうがいいんじゃないかと今さら思った。 ここの文章みたいに、やたら改行したり、やたら句読点があったりしたって、いいじゃない。 句読点を続けて使ったっていいじゃない、、。。 伝わるもん。感じが。 じゃないと、作文って、いかにも作文的な文体になってしまって、本当に感動したこととか、 嬉しかったこととか、悲しかったこととか、薄まってしまう気がする。
だからって別に小学校教育を批判してるわけではないのですがね。 まずは「正しい日本語」で「正しい文章」を書けるようにならにゃ始まりませんし。 けれど今はこうして先生に添削されるでもない文章を誰かもわからない誰かに向けて書いていて、 自由だなあと思ったのですよ。気楽でいいなあとも。 そして形式にとらわれないからこそ、中身についてあれやこれやと気ままに思考できるのだと。 ぱたぱたとキーボードを叩きながら。
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