2006年10月14日(土) |
「デュランダル:durandal」3 |
「カモミールは金の髪のあの方へ、ローズマリーは黒髪のあの方へ、か…」 浴室にローズマリーの煮だし湯をもってこさせた後、湯の滴を拭いながらセルピコはふと呟いた。平民の素朴な恋歌だ。彼自身、どこでおぼえたか定かではない。歌のとおりなら自分はカモミールを使った方がいいのだろうが、香りの好みでローズマリーを使っている。ただし、使用人に頼むにも「お願いします」と丁寧に。聖都邸宅の使用人は、なにせ昔は一緒に働いた顔なじみだ。 成り上がりものとして、上の者からは胡散臭い眼で見られ、下の者からは妬みの入り交じった視線を向けられる。母親からは「旦那様」だ。自分を正面から見据える者は、たぶんファルネーゼ一人だけかもしれない。
「ツッ」
脇腹に大きな青あざが出来ていた。 鎖帷子で怖れるべきは、斬れる刃より斬れない剣だ。力任せに打ち下ろされる剣は、こん棒の様に守るべき鎖帷子の中身を傷つける。 そう言ってラミレスは、鎖帷子ごと軽々とセルピコの身体を剣でもって振り飛ばした。やっと受け身を取ったものの、”打たれた”剣の痕が身体に残った。師は柔和で、大声で怒鳴った事などない。長身だが、あの痩せた身体のどこからそんな力が出るのか不思議なくらいだった。 巨漢のうち下ろす剣は、剣でもって力を受け流す事。騎士になればいずれ剣で人を殺めるだろう。そんな時に、激情は無用、剣と心を見誤らせる。
「『柔よく剛を制す』武術の奥義だよ」
そういって剣の師は笑った。 トーナメントの相手はゴリアテの様な巨漢だった。
「セルピコ、様。お嬢様がお呼びよ」
くすぐる様な笑いと一緒に、ファルネーゼの侍女が彼を呼びにきた。 『まいったな…』声に出さずとも、たぶんお呼びがあるだろうとは思っていた。
「すぐ参りますと伝えてください。お湯はこのままで」
急いで身支度を整え、髪を乾かした。ローズマリーの清しい香りは、やがて血の匂いにかき消されるだろう。
「あの男は何!?私にあんな口を聞いて、その上お前は側で取りなしもせず見ているだけ!」
「仕方がありません。ラミレス様の言う事はもっともなのですから。ファルネーゼ様の御身に何かあれば、ただ事ではすみません」
セルピコの口答えはファルネーゼを激昂させ、彼の脇腹に大きな青あざがあるのも構わず、傷だらけの背に胸にとムチを振り下ろした。治りかけの傷が開いて、新たな血が流れ出す。口答えをしなければよかったのか?例え黙っていても、何を言っても、ファルネーゼは激昂が静まるまでセルピコにムチを振り下ろすだろう。 鞭打つ程にファルネーゼの白いポーセリンの様な頬が紅潮し、瞳は憑かれた様な陶酔を浮かべる。他人への好意も嫌悪も、鞭打ち傷つける事でしか表せない子供のままの悲しい魂。 この世の楽園かと思ったよ……。ムチの音、痛みと共に、師の言葉を遠く聞いた。楽園、いや地獄ですらない。辺獄か、この庭は。見捨てられた子供が、大人になる方法も教えられず、たった二人で放っておかれた。何故?ファルネーゼが鞭打つのは、二人を取り巻く不条理への抗議なのかもしれない……。 いつもの様にセルピコは無感動に鞭に耐え、ファルネーゼが泣き出してその儀式は終わった。
セルピコは自室に戻って、そっと痛みに耐えながら服を脱いだ。絹の肌着にべっとりと鮮血が付着していた。 浴室で薄皮を引きはがす様に、絹のシャツを脱ぐ。もう使い物にならないだろう。湯は言いつけ通りそのままになっていた。ローズマリーの煮だし湯も残っていた。もう一度湯に入って血を洗い流さねばならない。ローズマリーも少しは薬効になるだろうか…。
「ぐっ…」
脚にも青あざは出来ているのだ。温い湯でも新しい傷口にしみた。ゆっくりと全身をバスタブに沈ませ、そっと傷口を洗った。血が溶けて、湯はうす赤く染まっていく。朝には変色して、薄茶色になるだろう。 セルピコは湯につかりながら、暗い天井を仰いだ。天井には、装飾で絵が描いてある。たぶん、小さな天使か聖人か何か、蒼い空を臨んだ本物の楽園らしき図かもしれない。それらはいつも闇に溶けて見えなかった。 ラテン語を瞬く間に身につけたセルピコであっても、あの荒れ狂う魂を救う手だては思い浮かばない。
今日の夜もファルネーゼ様のお召しを受けて、古い傷の上に新しい傷口が重なった。今夜のファルネーゼ様の昂りはいつにも増して凄まじく、セルピコの血が分厚い高価な絹の敷物へと飛び散った。 彼はいつもの様に、自室の戻ると浴室へいき血まみれになった絹のシャツを、もう一つの皮膚の様に引きはがす。 「湯に入らなければ……」 湯は馥郁たるアンバーラベンダーの香りがした。ゆっくりと身を湯へと沈ませる。湯に血が溶けて、瞬時に深紅に染まった。あの生き物から流れ落ちる、生臭い生の滴り。何故か、湯はどんどん血の色に染まり続け、やがてはバスタブから血が溢れ出した。 ああ、これでは、使用人になんと言い訳したものだろう。血の掃除は厄介だ。タイルにこびりつき、匂いがなかなか消えない。毛足の長い敷物も、織の複雑で美しい文様が見る間に血の色に染まっていく。 僕はそんなにファルネーゼ様に鞭打たれたのだろうか?鮮血が溢れつづけても、その様をぼんやり見つめていた。傷口は痛くない。何故かアンバーラベンダーの香りがそのままだ……。
「……」
夢だった。セルピコは寝室に置いてある時計を見る。いつもの起きる時間だった。朝の用意はいつもの通りで、ラベンダーの香りは、髭を剃る泡立てられた石鹸のものだった。 寝台で半身を起こし、白く裾の長い夜着を確認してみた。血の染みは付いていない。昨夜、傷口をよく洗い、サンタマリア・ノヴェッラの血止めの軟膏を塗っておいたおかげだ。ミルラとカレンデュラの軟膏は、高価だったがよく効いた。少し痛むが、いつもの事だ。動き出せば気にならなくなる。 いつもの様にベネツィア製の鏡の前に立ち、髭を剃る。珍しく体毛の薄い彼は、女の顔の様と誹られたが、それでも朝のこの習慣はかかせない。湯で顔を洗った後、さっぱりとした顔に、今日はベティベール水をなじませる。東の海の向こうの樹木を思わせる香りに、心は安らいだ。 僕でもあんな夢を見るんですね……。苦笑した。 居間にはトーナメント用の真新しい鎖帷子、クレストの付いたグレートヘルム、サーコートが飾られていた。ヴァンディミオン卿フェディリコからの拝領品であった。
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