小ネタ日記ex

※小ネタとか日記とか何やら適当に書いたり書かなかったりしているメモ帳みたいなもの。
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春夏秋冬1(笛/真田一馬)。
2006年09月12日(火)

 一年の四分の一が流れていく。








 七月も終盤になって、ようやく梅雨が明けた。
 空は梅雨の頃の薄暗さが嘘のように晴れ渡り、鮮やかなブルーを背景に真っ白な雲が流れる。一週間しか生きられない蝉が短い生を謳歌し、太陽の角度が上がるについて気温が上昇する。
 世界は回っていた。わたしの横を、わたしを置いて。

「椿、買い物行かない?」

 小学校五年生のときに与えられた『わたしの部屋』で本を読んでいたら、母にそう声をかけられた。
 明るい声。何気なく声をかけてきてくれたようで、それが母なりの熟考の末の行動であるような気がした。

「ごめん、この本読んじゃいたいから」

 読みかけの本を見せながら笑ってみせると、母は「じゃあちょっと行ってくるから」と打てば響くような調子で言った。
 きっと、わたしの答えがイエスノーどちらでも、彼女は自分の返答をそれぞれ用意していたんだと思った。ほっそりした母の後姿。
 エアコンも扇風機もないこの部屋は蒸し暑い。去年の夏使っていた扇風機は、わたしがいない間になくなっていた。
 わたしはその行方を知りたいとは思わなかったけれど、父は勝手に処分したことをとても気にしてしまったらしい。新しいものを買ってくれると言ったけれど、断った。
 暑いのは好きではないけれど、新しい何かを身の回りに置きたくなかった。
 いまは、元々部屋に置き去りにしていったはずの団扇で涼を得ている。
 団扇を軽く扇ぐと、前髪と一緒に本のページも一緒にめくれる。まだ読んでいないページだったけれど、構わず団扇の風にまかせた。
 総ページ四百にも満たない薄い本は案の定、次のページの主人公の台詞はわたしには要領が得ないものだった。
 この家に戻ってきてから、そろそろ一月近くが経つ。
 大学は夏休みに入って、図書館はほぼ休館状態になった。解放日は専任の司書の人たちが出勤して、わたしのような非常勤は秋まで仕事がない。それもちょうどよかった。
 秋になれば、またわたしはここを出て行く。
 それだけは決まっていた。戻るときからそう決めていた。

「お姉ちゃん、そっちに国語辞典ある?」

 廊下から妹が顔を出した。
 風を通すために、二階にあるわたしの部屋と廊下に繋がるドアはいつも開け放したままだ。そのほうが、この家の両親や妹は安心すると思った。見えるところにいるという証拠だから。

「うん。そこの本棚から好きなのとって」
「好きなの? うわ、古い辞典なんてもう捨てなよ。どうせ新しいのじゃなきゃ役に立たないんだから」
「そのうちね」

 邪魔くさい。わかりにくい。と文句を言いながら、妹は辞書を引き抜いては発行年月を確認する。
 辞書は発行されてから二年以内のものを使いなさい。言葉として使用されている言語は意味が少しずつ変化するものだから、古い辞書は今と意味が違うものになっている可能性がある。
 そう言ったのは、わたしと妹が教わった高校の先生だった。

「…今井先生、相変わらず辞書研究会やってるの?」
「そ、違う辞書から同じ単語を調べて。どういう風に書かれているのか見比べなさいって、いつものパターン。毎年同じ夏休みの宿題なんて、手を抜いてるとしか思えない」

 つんと細い顎を逸らして、妹がふてくされる。パフスリーブのカットソーからは、日に焼けた健康的な腕。淡いピンクとその肌の色はとてもよく似合う。

「じゃあこれ借りていくね。しばらく使わないんでしょ?」
「うん。辞書使うならネットの使うから、好きにしていいよ」
「はーい」

 はだしの脚で出て行こうとした妹が、ふと何かを思いついたように振り返った。
 開いたままの本を膝の上に置いていたわたしの上に、妹の薄い影がかかる。

「そういえば、今日って七時からだよね?」
「何が?」
「サッカー。親善試合、真田一馬が出るんでしょ?」
「………………」

 わたしが『真田一馬』と一緒にいたことは、この家では妹しか知らない。
 黙ったわたしを、妹は怪訝そうに眉をひそめた。

「観るでしょ?」

 当たり前だよね。そんな口調だった。
 わたしがこの家に戻ってから、妹は全く真田さんの話をしなかった。そもそも、わたしがいなくなっていた期間のことを、この家の人たちは深く聞かない。
 短大が同じで、卒業して地方の実家に戻った友達のところにいた。わたしのその嘘を、両親はすんなり信じてくれた。妹は聞かなかった振りをしてくれた。
 戻ってきたことを喜んでくれているのはわかっている。両親も、相変わらず好きと嫌いの間の関係を繰り返す妹も。
 わかっている。家族と呼ばれる人たちが、わたしとの時間をやり直そうとしてくれることを、わかってはいる。
 わかっているのに、わたしはその中にどうしても入って行けないままだ。
 感謝や申し訳なさは感じているけれど、わたしにとっては、実の親や妹ですらわたしの世界にはいない人だ。この家に戻って、そのことをはっきりと自覚した。

「DVD撮るならパソコンのにしてね。下のテレビ、私がドラマ撮る予定だから」
「わかった」

 真田さんとはあの部屋を出た日から一度も会っていない。
 声も聞いていないし、メールも出していない。それでいいと思ってる。
 きっと、あの人とわたしの人生が交わることは二度とない。
 彼はきっとあの部屋でこれからもサッカー選手として生きていくのだろうし、わたしはわたしで秋からの生活のことを考えなければならない。わたしの世界を回すために。
 この家を出た数ヶ月間。戻ってきたわたしが得たものは、うっすらとした薄雲のような、けれど果てのない絶望に似たものだった。

『じゃあ、元気で』

 最後の朝、真田さんはわたしにそう言った。
 足元のキャラメル色の床、生成りの色をした玄関のドア。荷物を持って外に出て行こうとするわたしに、黒髪の彼はどんな顔をすればいいのか困っているように見えた。
 お世話になりました。楽しかったです。そう言ったら、彼はすこしだけ笑った。

『こちらこそ』

 社会人の如才のなさだったかもしれない。真田さんは、本人が感じているよりもずっと生活能力があり、職業の華やかなイメージよりもずっと堅実で、いい加減なところが少ない人だった。
 別れの握手はしなかった。前夜、すでにお互いの手の温度は知っていた。
 手を繋いで帰った夜。湿った宵の匂いは薄紅の花のように甘くて、大きな手のひらの温度は心地よくて。この手を得る人が少しうらやましくなった。明日の別れがあるからこうして触れていられるのだとわかっていて、少し泣きたくなった。
 あのとき、わたしがまた泣き出しでもしていたら、彼は。
 そこまで考えてその勝手な思いにぞっとした。出て行くと決めたのは自分なのに、都合よう別の道を想像している。いつもそうだ。わたしは、わたしの決めたことを成し遂げられない。
 自分の弱さと卑怯さに、吐き気がするほど絶望する。
 夏の午後は考え事をするのにちょうどよかった。たとえ涙が滲みかけたとしても、汗のようなものだとすぐに追い払ってしまえる。







 午後七時ちょうどに、民放のサッカー中継が始まった。
 録画はしなかった。どうせすぐに処分するものをわざわざ残しておく気にはなれなかった。そもそも最初から観る気にはなれなかった。わたしは真田さんの試合風景というものを、これまでほとんど観たことはない。
 彼はわたしがサッカーに興味がないことをわかっていたんだと思う。仕事の話はよくしたけれど、直接試合に誘われたことはなかった。

「うん、面白い顔ぶれだな」

 キックオフ前に発表された先発メンバーの一覧がテレビ画面に表示されると、居間の特等席を陣取っていた父がそう言った。その隣では妹もまだ始まってもいない中継画面に見入っている。
 ふたりは、そんなにサッカーが好きだったのかな。そう、思わず母に問いかけそうになった。きっとそうに違いない。わたしが知らなかっただけで。
 すぐ部屋に戻ろうとしたわたしを引き止めたのは、妹だった。

「お姉ちゃん、ここで観てけば」

 誘う言葉というよりも、なぜ観ないのか、という詰問のような響きだった。
 そうっとテレビのあるほうに近づき、父と妹が座っているソファの後ろからどこかのスタジアムの映像をながめる。

「…国際試合なの?」
「そう。時差がないから、日本の選手は楽だろうな。なんだ、椿もサッカーに興味が出たのか?」
「いままでオリンピックもワールドカップも観なかったのにね。あ、真田一馬!」

 ひときわ大きく、跳ね上がるような妹の声に、わたしの心臓も跳ねた。
 音楽に合わせて、各チームの選手入場が始まっている。十数名の列の中ほどには、妹が言うように黒髪のフォワード選手がいた。カメラの向きには全く気づいていないのか、昂然と顎を上げて歩いている。
 言葉にならない名前が、胸の中にこみ上げた。
 食い入るように見てしまったことに気づいたときは、もう画面は別の選手に切り替わっていた。

「真田かー。お父さん真田はあんまり好きじゃないなぁ」
「なんで」
「彼はフォワードとしては洗練されすぎているというか、繊細というか、悪くないと思うけどもうちょっと情熱とか頑張りみたいのが欲しいな」
「ふーん」

 相槌を打っている妹が、わたしのほうを気にしているのがわかった。
 生憎、わたしは父の感想は気にならなかった。ふたりが話している『真田一馬』は、わたしの知らない人だ。わたしはこの画面の中にいる人を知らない。
 口端をきつく引き締め、目を鋭くたぎらせ、戦う匂いを纏う『真田一馬』をわたしは知らない。
 わたしが知っているのは、もっとちがうひとだ。
 国家斉唱が始まる。胸に手を当て、軽く目を伏せ、小さく唇を動かす黒髪のひと。管楽器の音楽。ゆるやかな旋律に合わせて、青のユニフォームの人たちは口ずさむ。
 それは、歌うという行為に寄せた祈りの光景だった。
 音が発生しているというのに、十一人の選手の祈りは静謐さがただよっていた。国の名が背負う、そのこころの在り処はわたしにはわからない。
 やがて伏せられた目は開けられ、顔は前を向き。彼らは任された地へと散っていく。
 主審の笛が高らかに鳴り響いたとき、観客の慣性とカメラのフラッシュが白く光り輝いた。
 目が離せなかった。それだけは認めなくてはならなかった。
 数メートルの距離から、画面に映る遠いスタジアムを見つめていた。長方形の右端寄りに立つ黒髪の人に、わたしが見てきた数ヶ月間の面影を見出すのに必死だった。
 それが、彼の戦う世界の一端だった。
 自分の世界を自分の力で回している人。
 胸が痛かった。

 夏の夜は、真田一馬との二度目の出会いだった。









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 お待たせしてすみませんでした。
 中身的には、そろそろもう言うことなくなってきました。
 あ、思いっきりヒロインの名前はデフォルト名使用ですみません…。正規に移すときは変更可能になります。

 そんな、真田シリーズの最終タイトル第一話です。
 前のものはこちらか、正規の真田編参照です(注:若干訂正をいれた正規版のほうが正式版とも言えます)。




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