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ロングレイン8(笛/真田一馬)。
2006年05月05日(金)
雨が降る音が、最近よく耳に残る。
夕暮れのオレンジ色が消えた頃、家に戻った。
玄関前の明かりは淡い光。白熱灯の黄色い光は自然光に一番近い色をしている。
「ただいまー」
習慣でそう声を出すと、靴を脱いでまっすぐに洗面所に向かう。クラブハウスでシャワーは浴びてきたけれど、汗で湿った練習着やタオルは速攻で洗濯機に放り込みたい。
一人で暮らすようになって、小さい頃帰宅するとすぐに「洗濯物出しちゃって」と言う母親の気持ちを実感した。
「おかえりなさい」
洗濯機がゆっくりとうなり始める頃になって、いつもの応えが戻ってくる。
いつもと違うのは、あいつの腕に抱えられているさくらが大判のタオルに包まれていることだった。きなこ色の毛が濡れている。
「さくらちゃん、お風呂入れてみました。きれいになりましたよ」
「へぇ」
にこにこしている顔を見るのがなんだか久しぶりのような気がして、俺もつい笑ってみる。
さくらの湿った頭を軽く撫でると、犬の顔もどこか嬉しそうだ。
「意外に汚くなるもんな」
「ほとんど家の中にいますけど、床とか転がってますしね」
「やっぱたまには洗わないとな」
「洗ったらすごかったですよー。お湯が茶色くなりました」
「マジで? うわちょっと見たかったかも」
そりゃすげえ。そんな気分で笑うと、きれいになった犬を抱いた彼女もくすくすと笑っている。
なんだか、今日は機嫌がいいみたいだ。そんな事実にほっとする。
「メシは?」
「あ、まだなんです。…たまには、外でどうですか?」
「へ?」
外食?
とんでもなく珍しい提案をされて、驚いた。俺が面倒くさくなって外で食べることを提案しても、向こうから言われたのは初めてだった。
「珍しいな」
「たまには、と思って。お給料出たばっかりなので、よかったらおごります」
タオルごしにさくらを抱いたまま、ご機嫌顔で笑う。
何か、いいことでもあったのだろうか。極端な態度に不思議さと不審さの両方を抱く。
「今日はもう雨降らないらしいですよ」
だから行きましょう。そんな言葉が続きそうなかすかな笑顔は、同時にやはり違和感を俺にもたらした。
「明日の朝、出て行こうと思うんです」
中盤の焼き鳥が出てきたあたりで、おもむろに向かい側はそう切り出した。
一瞬、言葉が出なかった。ジョッキに伸ばした手がそのまま止まりそうになり、意地で取っ手だけは掴んでみせる。
正面を見れば、目が合った途端小さく苦笑する。
「妹に見つかったんです」
「…………………」
「だから、一度戻らないと」
平日の居酒屋とはいえ、客数は結構多い。偶然真横のテーブルには誰も座っていないけれど、ざわめきだけは店中から届けられる。
こんな場所で、なぜその話をするんだよ。
疑問が出た瞬間、相手の静かな表情でその思いが霧散する。ここなら、お互いに激しい感情を出すわけにはいかないから。静かに話し合いが出来る。
何事も無く、波紋を残さず、ただ立ち去る。それがこいつの望みなんだろう。
「…妹?」
「はい。一人いるんです」
色々混乱しそうになりながら、一番気になったことを言ってみると、向かいのあいつはやはり小さく笑ってうなずいた。
俺はぎりぎりのところで止めていた泡の入ったジョッキを引き寄せて、口に運ぶ。ビール独特の苦味。口の中に広がる炭酸と、鼻腔の中のアルコールの匂い。
見れば向こうも、ロックの梅酒を一口飲んでいる。
「明日の朝って、早いな」
「場所が割れてしまった以上、急がないと」
「…それって、一回家に戻るってことだろ?」
「…そうです」
じゃあ、それから後は?
一度戻って、それからまたあんな風に家出するのか?
言いかけた思いは、たぶん俺の顔に顕著に出たのだろう。木のテーブルを挟んだ顔は、お得意の曖昧な笑みを見せる。
「大丈夫です」
その笑い方が決定打だった。
たとえ俺がここで、出て行かない選択肢を提案したところで、こいつはきっと出て行く。何事もなかったかのように、もう二度と巡り合うことのないところへ。
さすがに俺にもわかる。こいつの、この意固地でひどく幼い心の有様が。
おっとりしたようで、生真面目なようで、本性はとても冷淡だ。必要がなくなれば捨て去る。そのくせ、罪悪感だけは抱き続けている。
「…大丈夫じゃなかったら、どうすんだよ」
俺が言えたのは、そのぐらいだった。
離れた場所から聞こえてくる、一気飲みの掛け声。大学生らしき数人が、すぐ横の通路を通っていく。年頃だけは俺たちとさして変わらない面子。
「わかりません」
「…お前って、計画性があるんだかないんだかわかんないな」
「計画通りには、なりませんでしたから」
今はただ、取り繕うだけです。
はじめてこいつの視線が落ちる。右手に握ったグラスを揺らして、氷の音を鳴らす。その、頼りなげなうつむき顔。
「…一度戻って、またそこを出たら、同じことの繰り返しじゃないのか?」
その場所を出て、また次の場所を出て、それで一体何が残る? その方法で掴めるのは、どんな未来だっていうんだ。
白紙の行き先。無限の可能性。そんな言葉じゃ括れない無計画な生き方をするほど、二十歳っていう年齢は子供でもなく、大人でもない。
「…お前には、大事なものって何がある?」
たとえば俺にとってのサッカー、家族、英士、結人、好きになった人、出会ってきた人、今の生活、所属球団、さくら、これまでの人生の良かったこと。
ずっとそれが知りたかった。生まれ育った場所や、家族や、友達や思い出、それらを放棄することが出来たこいつが持っているもの。
少し息を飲む気配がして、それから凪いだ目が俺を見た。
「大事でしたよ、両親も妹も。大事だったから、近くにいたくなかったんです」
「…………………」
「…たぶん、真田さんにはわかりません」
まるで責めるような拒絶。初めて向けられた、快さを欠いたまなざし。
嫌われたような気がして、胸の奥が少し重くなった。それと同時に、これまでずっと見えなかった彼女の奥底が少し見えた気がした。たぶん、英士や結人が言うほど、素直でも従順でもない女。
始まりの日々から、少しずつ露呈していったお互いの狡さと脆さ。かたくなに心を見せないあいつと、見て見ぬ振りをしてきた自分。同じ家で暮らしていても、少しずつ互いの空気に慣れてきても、距離感だけは縮まらなかった。
それらを思い返すと、なぜだかおかしい気分になった。
「ずいぶん長い間、ご迷惑をお掛けしました」
店を出たら、少しだけ雨が降ったらしく道路が濡れていた。雨上がりの夜半。湿った空気が、夏の匂いを運んでくる。
静かな住宅街に月は無く、稀に自動車が通るだけだった。
そんな空気の中、隣を歩く小さな影がぽつりと言った。俺は軽く空を仰いで苦笑する。
「こっちこそ、いてくれて助かった」
「……………」
「本気でそう思ってるから」
注釈をつけないと信じてもらえない気がしたから、そう付け足した。
「俺のこと、どう思ってた?」
ほろ酔いの気分が、そんな言葉を俺に言わせた。どうせ最後の夜だから。そんな半ば自棄の気分だった。
少し躊躇う気配のあと、足音に混じって声が聞こえた。
「大好きでした」
過去形。
「真田さんも、さくらちゃんも、あの家も、大好きでした」
昼間の熱を冷ます湿った風。アスファルトの匂いと、どこかの庭の土の匂い。水と緑の清涼さ。夏が近い、最後の夜の匂いだった。
覗き見た横顔は白く、歪めた目元が泣きそうに見えた。
胸が詰まって、こっちが泣きたくなった。
好かれていること、慕われていることを俺は知っていた。俺が頑張れば、もしかしたらもっとずっと一緒にいられたかもしれないことも。
だけど、俺じゃ駄目な予感もあった。俺がどれだけ近づこうとしても、心を開かせる自信はなかった。今こうして、こちらを見ないのと同じように。
「…ありがとう」
それしか出て来なかった。
続きの言葉の代わりに、歩きながら手を伸ばす。
掴み取った手は今まで触れてきた通りやっぱり小さくて、少し冷たかった。
ありがとう。俺も楽しかった。
俺も。
最後まで中途半端にしか出来ない狡さを隠すために、握り返して来ない手を俺は家まで離さなかった。
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…えー、今年も梅雨がやって参りますネ。
開始から3年、ようやくここまで辿り着きました。これを終わらせない限り、このサイトの閉鎖はまずありえないと思います。
そんなロングレイン、8話。
前のものはこちら参照で。
ちなみにこの話、現在まさにリアルタイムです。
舞台が2006年5−6月です。
つまりこの舞台中、柏はJ2です。…すっごいJ1設定で書いてますけど…!!(だってまさかJ2落ちするなんて思ってもいなかった)
しょうがないので、この作品での柏レイソルは未だJ1です。J1ということでお願いします。
だいたい連載開始時ですら、真田=柏、の図式も決まっていませんでした。後付はしょうがないということで…。
開始当時はまさか追いつくとは全く思ってませんでした。いくらなんでもW杯が一回りしたら終わるって思って以下略。
…連載初期からずっと読み続けて下さってる方とかもうお知り合い除いていないと思います…。すみません、もう何ていうか遅くて。土下座して謝りたいぐらいです。
そしてどれだけ書いても真田さんが慣れません。書き慣れとは縁遠いよ、真田一馬。
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