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雨月草紙(笛/渋沢と三上)(パラレル)。
2005年07月15日(金)
封じるもの、解放するもの。
夜明け前から続く小雨は未だ止もうとしなかった。
雨が多く、湖畔に位置するこの街は千水という。
さらさらと小川のせせらぎのように天から降る音は、馴染みのない人間には風流に聞こえるという。けれどこの水害の街で暮らす者にとっては、いつ何時この音が竜神の唸りに変わるかもしれないことを知っている。
朝から硯で墨を磨る作業に没頭していた彼は、雨音に負けじと叩かれる戸の音で顔を上げた。一段低くなった竈の前では、相方が紐で綴られた冊子に没頭したままだ。
黒檀のような髪が目許に落ちるたび鬱陶しげに跳ね上げる相方に、渋沢は仕方なく声を掛ける。
「三上、客だ」
「あ? お前行けよ」
「近いのはそっちだろう。手が離せない、行ってくれ」
「へいへい、わかりましたよー」
立ち上がった三上亮という名の相方の背を視線で見送り、渋沢は再び墨を磨る作業に戻る。これがなくては、彼の生業は成立しない。この作業をしている間はどうしても手が離せなかった。
外扉へ続く隣室へ行った三上の取次ぎの声が、雨音に混じって渋沢の耳に届く。
今回の客はどういった用件だろうか。無茶なことを言われなければいいが、と渋沢は溜め息をつきかけ、慌てて飲み込んだ。墨磨りの最中に余計なことを考えるべきではない。その後の術式に影響が出る。
素人から見ればまだただの水同然の水色(すいいろ)を見据え、渋沢が改めて背筋を伸ばしたときだった。
「失礼、こちらに封術師がいらっしゃるとか!?」
何の断りもなく、隣室からの引き戸が開けられた。
強い声音はまだ若い者のそれであり、渋沢は動作を止めて目を瞠った。黒い髪と白い肌をした、一見して権力者に添う者という格好をした若者だった。
彼の後ろでは、三上が苦虫を噛み潰したような顔をしている。三上の口の悪さでも押し留められなかった客だと渋沢は瞬時に理解し、椅子を立った。
「確かに、俺が封術の渋沢です。そしてそちらが解術の三上」
「突然の無礼は承知で申し上げます。あなた方の力を借りたい」
「おいテメ、偉いさんの従者だか知らねぇけど物には順序ってもんが」
「急いでるんだ!」
怒鳴り声と同時に、客人の少年が抜刀した。外套の下に隠れて見えなかった短刀が三上の眼前で光を弾く。
相方が唖然としている気配を察し、渋沢は息を吐いた。長身の彼の琥珀色の瞳が細められ、声が低くなる。
「随分、穏やかじゃないな」
「封解の施術について少しは知ってます。ただの紙に人や物を移し、保存することも解き放つことも出来るという」
「ただの紙じゃねーよ。紙も液も全部俺らが生成して、命削って封じては解いてる。気安く使おうなんざお門違いだボケ!!」
渋沢の思いとほぼ同じ内容を、三上が怒鳴った。
封解士という職業がある。目に見えるものを特殊な紙に墨で描き写し、紙の札として封じる。特定の術式を使えば、封じたものをまた同じ姿で札から取り出すことも出来る。
しかし封じた者が、札を解くことは出来ない。そのために封解士というのは、封師と解師、二人揃って初めて成り立つ。封じる者も解く者も、必ず札に相手の名を刻まなければ札は術に呼応しない。渋沢と三上は同門の兄弟弟子だった。
「ならばその力は何のためにある!? それらを商売として使うなら、俺はそれを買いに来ただけだ!」
「…まあ、それはそうなんだが」
「買いに来たっつーのは対等の立場を見せてから物言えっつってんだよ! 物騒なもん突きつけられて要求することを脅迫ってことぐらいわかんねーのか!?」
凶器を前にしても一向に怯まない三上に、黒曜石のような黒髪を持つ客人が逆に怯んだようだった。その濡れた前髪から水のしずくが落ち、白皙の頬を濡らす。
押し黙った間の後、短刀を収めないまま来訪者は語り出した。
「…あなた方は、人を封じて持ち出すことは出来ますか」
「出来ないことはないが、基本的に俺たちは生物を封じることはやっていない。物では感じないだろうが、生物は感覚があるからな。生成方法が特殊でも、結局はただの紙だ。そこに封じられたとき、生物がどんな思いをするのかは試してみればわかる」
「…そうですか」
一瞬、彼の瞳が強く閉じられた。すべを失い、途方に暮れる寸前の顔だった。
抜いたときと変わらぬ速さで客人は短刀を懐に戻し、渋沢と三上に完璧な宮廷作法で一礼した。
「どうやらここでは私の目的は果たせないようですので、失礼致します。重ね重ねのご無礼、どうぞお許し下さい」
そして彼は素早く踵を返す。
渋沢と三上は顔を見合わせたが、声は渋沢のほうが早かった。
「誰を封じて欲しかったんだ?」
「…あなた方には関係ないことです」
「荒事なら手伝えるぞ。俺たちはこの界隈に詳しいし、そこの三上は喧嘩技なら一流だ」
「俺は手伝わねぇぞ渋沢」
また渋沢のお節介癖が出た。開業してから数年、渋沢のお人よしの気質に巻き込まれ、幾度タダ働きをしたかも覚えていない三上はさっさと釘を刺した。
黒髪の客人は、迷うように脚を止め、振り返った。渋沢と三上に改めて見せたその面差しは、焦りと動揺を押し隠すような硬さがあった。
「…誘拐された女性がいます」
「いつ、どこで」
「夜明け前後、船上から」
「対岸からの旅船か?」
「帝都から南方への旅の途中でした。国許に知らせるわけにはいかず、賊との交渉も出来ません」
「うさんくせぇほどワケアリだな、そりゃ」
呆れたように三上が言うと、はじめて黒髪の客人が困ったように笑んだ。
「無茶なことばかりしたがるお人なものですから」
「んで、お前はその護衛ってことか」
「国へ戻れば馘首は確定でしょう。でもそんなことは今は問題じゃない」
「無事に助け出したい、そのために俺たちを?」
「彼女がいる場所も攫った相手も情報は掴んでいます。ただ、どうしても秘密裏に助け出したい」
躊躇いなく言われ、渋沢は脳裏で逡巡した。これは、相当の理由が裏にあるとしか思えない。
昔より随分寂れた街とはいえ、まだ皇帝の目が届く範囲の土地だ。警吏もいれば犯罪の駆け込み場所となる組織もある。それらを使わず、一介の術者を雇わなければならない事情とは一体如何なるものなのか。
色が変わるほど濡れた外套、黒髪からしたたり落ちる水の雫。事が起こってからおそらく彼は不眠不休で駆けずり回っていたのだろう。
封解士が裏事情に通じるというのはよくあることだ。所詮真っ当な職ではない。魔術と祖を同じくする術ではあるが正しい姿は世間に浸透されておらず、宮廷道化師よりも地位は低い。
「ってか、俺らが手貸したらもっとマズい立場になる可能性もあるってことわかってんのか?」
「悪い立場になるのは俺です。彼女じゃない」
潔く護衛の少年は言い切った。
護衛するはずの相手を失い、躍起になっている従者の顔ではなかった。強い責任と、守り手への愛情。必死であることはすぐに窺い知れた。
渋沢が三上のほうを見ると、解放が役目の彼は顎をしゃくることで「好きにしろ」と告げた。
「わかった。俺たちも手伝おう。封解士としては役立たずかもしれないが、この街の住人としては役に立つだろう。ちょっと向こうで待っててくれ、片づけをして行くから」
早口でそう言い、置き去りにしたままだった硯を片付けに入った渋沢を三上はもう止めようとは思わなかった。
礼を言いたげにしているがタイミングを掴めずにいる客を、彼は仕方なく促す。
「この間に、お前ちょい身体拭け。濡れ鼠じゃねぇか」
「あ、ああ…。申し訳ない」
開き戸を抜けた隣室に移り、三上は相手を適当なところに座らせると適当な布を渡し、竈に薪を放り込む。燃料も決して安くない街だが、この際仕方ない。
黒髪を布で拭いていた少年は、ようやく人心地ついたように息を吐いていた。
「竈がここにもあるんですね。さっきの部屋にもあった」
「…簡単に物を封じるとか言うけどな、墨の濃度とか温度とか、そういう微妙な違いも関係するんだよ。解くのも同じだ。ほいほいそのへんの道端で解くわけじゃねぇ」
最適な空間でなければ、術は成功しない。魔術師が魔方陣の清められた空間を用いるのと同じように、封解の世界も適切な空気を作ることが基本だった。
そのあたりがどうも世俗には伝わっておらず、尊敬を集める魔術師より格下の存在として扱われる。
「…俺たちの師匠はそういう封解の誤解をどうにかしたくて、渋沢にさんざん教え込んだんだよ。『人を助けて、信頼を勝ち得る術師になれ』ってな。あいつのお人好しなのは、生まれつきと師匠のせいだな」
「…先程は、本当に申し訳ありませんでした」
「まーな、うさんくさい客ならしょっちゅうだけど、小奇麗な顔しといていきなり刃物持ち出すのは驚いたぜ」
少しずつ温まっていく部屋の中で、三上は揺らめく炎に向かって息で笑った。
「…それでも、ありがとうございます」
室温と同時に気持ちも緩んだのか、少年は固い声を解いた。
おそらく年下に見える彼の白い顔が少しずつ落ち着きを取り戻していくのを目の当たりにし、三上はぽつりと呟く。
「俺らはムカつくぐらい二人一組なんだよ。あいつがやるって決めたら俺もやるしかない。そういう誓いだからな」
「……………」
「ところでお前、名前は?」
最初からごたごたしていたせいで、すっかり忘れていたことを三上が指摘すると、相手も失念していたのか目を瞬かせた後に姿勢を正した。
乾き始めた黒髪が、同じ色の瞳の前で揺れた。端然とした一重の黒色。
「郭英士です。どうか、宜しくお願い致します」
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渋沢と三上でパラレルでーえーと英士もつけちゃえ、みたいなノリでした。
パラレルで、というリクエストを頂いたのですが今パラレルやるならたぶん種だろうなー…と思いつつ、全然関係ないパラレルの渋沢さんでした。
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