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彼女にとっての楽しいこと、その1。(笛/渋沢克朗)
2004年10月28日(木)
一度やってみたいことがあるの、と彼女は言い出した。
「一度でいいから、私が何しても怒らないで」
一つ年下の幼馴染みに真剣なまなざしでそう言われ、渋沢克朗は珍しく反応に迷った。 何気ない学校生活の何気ない昼休み。中盤を過ぎた時間帯は食事風景もまばらになり、他クラスの存在がいたり空いた椅子が点在する教室になっていた。そのすぐ脇の廊下で、渋沢は幼馴染みと対話していた。
「……何をするかによるんだが」
しばらく彼女と視線を合わせた結果、渋沢は常識的にそう言った。 渋沢にとって年下の幼馴染みは、十年一日の如く妹同然であって叱ることはあっても怒った覚えはほとんどない。彼女もそれをわかっているだろうに、わざわざ言ってくるあたりが得も知れぬ不安を誘った。
「いいから、お願い」 「…お願い、か。じゃあこうしよう、俺が怒らない代わりにそっちも俺が一度だけ何をしても怒らない、っていうのはどうだ?」
同じことだろう? と渋沢はにっこりと笑って言った。 自分よりも賢しく、それゆえに何度か渋沢によって苦難に立ち向かわされていた幼馴染みの口もとがひきつる。
「や、…だ」 「じゃあそっちもダメだ」 「えぇ?」 「俺だけ一方的にされるのは割に合わない」 「かーつーろーうー」 「ダメ」
渋沢は両手の人差し指を使い、身体の前で小さくバツを作った。真面目ぶっているようで顔が笑っているので、純粋に断るというよりも珍しくねだる行為に出た幼馴染みの様子を楽しんでいると思えなくもない。
「ねーお願い!」 「ダメです」 「いいじゃない! そんなひどいことしないから!」 「じゃあどんなことする気なんだ」 「……………」 「黙るからダメ」 「……わかった」
しゅんと肩を落とし、渋沢の幼馴染みはうつむいた。
「じゃあ、いい」
しまったと渋沢は内心後悔した。焦らせすぎた。 お邪魔しました、とやや他人行儀に軽く頭を下げて彼女は踵を返した。とぼとぼと二年生の教室に帰っていく背が小さい。
「あーあ、何やってんのお前」
追いかけようとした渋沢に、教室のドアから声がかかった。ひょこんと顔だけ出した呆れ顔が、やりとりを聞いていたことを明白に物語っていた。
「三上」 「あのはねっかえりの頼みなんて、絶対大したことでもないくせによー」 「…ちょっと遊び過ぎたかな」 「どーせ必死な顔見てるのが楽しいとかそういう碌でもないこと考えてたんだろ」 「否定はしない」
軽く肩をすくめて渋沢に、三上がにやりと口角を吊り上げた。
「俺知ってるぜ、あいつが何したいか」 「え!?」 「随分前から考えてたらしいから、ま、覚悟しとけ」
ひらひらと手を振り人の悪い笑い声を残した三上に、渋沢は疑問符で一杯になったまま廊下の端を見たが幼馴染みの姿はすでにない。
「………一体なんなんだ」
憮然となりながら呟いたが、答える声はない。
「どうだった?」
教室に戻ると、結には笠井が笑って迎えてくれた。黙って首を振るとやっぱりねと笠井はさらに笑う。
「言えば普通にやらせてくれるんじゃないかな?」 「そうなんだろうけど、どう言えばいいのかわかんないし…」 「わかんない、って」
笠井は机の上に広げていた数学の課題ノートから、プラスチックの下敷きを取り出して扇ぐ。
「これで遊ばせて欲しいって言えば?」 「…小学生のときはよくやったの」 「下敷きの静電気で?」 「克朗の髪、ふわふわですっごく持ち上がって楽しいの!」
うさぎのぬいぐるみを可愛いと褒めるよりも情熱的に言う少女に、笠井は女の子は不思議だと思った。笠井の机の端によりかかって吐くためいきが、彼女の無念を教えている。
「…どうしたらさせてくれるかな」 「……………」
なぜそこまで拘るかが笠井には理解不能だが、少なくとも知恵を巡らせるよりも体当たりで渋沢に向かうほうが彼女には攻略しやすいことは薄々知っている。 笠井はそっと笑いながら下敷きをノートの間に戻した。
「ま、頑張って」 「うん。藤代に先越されたら嫌だなぁ」 「どうだろうね」
あの人も大変だ。 xとyの群に視点を転じながら、笠井は気苦労の多い部長に同情を寄せた。
************************ 何気ない日常、みたいな感じで。 克朗さんの髪はふわふわっぽいけど猫っ毛とまではいかない強度があるといいなあ、と思ったわけです。で、そういえば小学生のころ下敷きで髪持ち上げて遊んだな、と。 それだけから派生したネタなんです。
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