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正しい春の迎え方12(笛/真田一馬)。
2004年08月28日(土)
それから一度部屋に戻ってからの帰り際、結人は言った。
「あれでも、英士はあの子気に入ってたぜ?」 「…ふーん」
唐突に言われたもんだから、顔は平静を装ったつもりでもエレベーターの呼び出しボタンを押す手が止まってしまった。 夜九時過ぎの五階エレベーターホールは俺たち以外誰もいない。セキュリティのかなり厳しいところだから、住んでいる人間も俺みたいに特殊職の人間が多い。
「俺も、会えて良かった」
ようやく俺がボタンを押したのと同じタイミングで結人は言った。 一階で点灯していたオレンジのランプが、ゆっくりと動き出す。
「…会う前はいろいろ言ってたくせに」 「そりゃー、あの子が押し掛け女房気取りでお前んちにのさばってるんだったら俺もちょっと考えさせてもらいますけどー」
笑いながら、わざと敬語を混ぜる。結人なりの冗談を利かせた口調だ。
「…突発的な家出じゃないらしいから」 「…ああ、そんな感じ」
夜の静寂に寄り添うように、俺たちの声音も静かになる。オレンジのランプは三階まで上がってきている。 初めて会った日、俺はここであいつを捕まえた。赤い目をして振り返ったあのまだ幼さの残る表情を、忘れていない。あれは俺にとっても自分の生活を省みる日々の始まりだった。
「電車の中で会ったんだ」 「………………」 「後で聞いたら、あいつ家出た直後だったらしくて、…泣いてた」
周囲の同情を誘うための媚のある涙じゃなかった。抑えつけていた何かが突然溢れたような、唐突の涙だった。 あのとき俺はすごく驚いたし、居心地も悪かった。心配にもなった。だから。
「放っておくって選択肢が浮かばなかった」
試合中なら相手チームの誰かが目の前で派手に転んでも俺はプレーを続ける。問題があるなら主審が止めるし、そうでないならプレー続行は当たり前だ。 だけど俺たちが会ったのは緑の芝じゃなくて、動く電車の中で。 断片的すぎる、ぽつぽつ話す俺の言葉を、結人は全部黙って聞いていた。 心の中では、こいつ馬鹿だなとかわけわかんねーとか、いろいろ思ったかもしれないけど、とりあえず俺が言い終わるまで黙っていてくれた。
「お前がそれでいいなら、いいだろ」
やがて4Fと書かれたオレンジ色のランプが点いて、結人はそう言った。俺のすぐ隣で、いつも通りに。
「あの子、お前にやたら感謝してた」 「…知ってる」 「あの子にしてみりゃ、お前は立派な救い主様なワケだ。懐くのも、憧れるのも自然なんだろうな」 「…………………」 「拾っちゃったもんは仕方ないんだから、最後まで面倒見てやれよ」
最後。その言葉が、明確な『いつ』は教えてくれなかったけど、俺はうなずいた。 仕方ないんだ。だって、あの日からこの日々は始まってしまったから。 終わりは必ずあると、確約された関係で。
「じゃ、また明日な」
やがて来たエレベーターに乗って、結人は今夜の宿舎に帰って行った。 そうして、明日会うときは全く別の顔をして現れるんだろう。長年の親友ではなく、プロ舞台の敵役として。 人はいくつもの顔を持つ。その中で、素の顔を見せれる相手というのは人生で何人出会えるんだろう。 そんなことを、ふと、思った。
部屋に戻ってみると、同居人は冷蔵庫の中のものを出したりしまったりしていた。
「何してるんだ?」 「あの…冷蔵庫の掃除を」 「は?」
こんな時間に? 別にするなとは言わないけど、もうちょっとするべき時間とかそういうものがあるんじゃないか? 一瞬にしてそんな言葉が脳裏に浮かんだ。床に膝立ちになって、台ふきんで冷蔵庫の牛乳の裏とか置いてあった場所を拭いている同居人は、上目遣いになって言う。
「…さっき、郭さんにメール打ったんです」 「英士に? どうやってメアド…」 「若菜さんが…わたしのアドレス郭さんにも教えとくって言われて、そうしたら郭さんのほうからメールが来たので、ちょっとしたやりとりを…」
俺の知らぬ間に何やってんだあいつらは。
「英士、なんて?」 「冷蔵庫の掃除は月に一度ぐらいしたってバチ当たらないよ、って」 「……………」 「それで…真田さんが戻ってくるまで一人ですることもなかったので…」
だからって、やるか、普通。 ただの親切心にみせかけた嫌味をなぜ素直に受け取るんだろう。それともよっぽど英士に恐怖心でも抱いているのか。…どちらでもちょっと問題だ。 とりあえず、明日あたり英士に文句のメールでも送ろう。そもそも冷蔵庫の掃除なんて半年に一度ぐらいで充分だろうが。
「…悪かったな、今日」 「え?」
本人がやる気を出しているようなので、今日のところは俺は止めなかった。せっせと中身を出し入れしては拭いている姿に声を掛け、俺自身はテレビの近くの壁に背中を預けて座る。 ところでほぼ開きっぱなしのあの冷蔵庫、電気は入っているのかいないのか。
「結人、いきなりいたからびっくりしただろ」 「…おどろき、は、しましたけど…。いい人ですね、若菜さん」 「愛嬌が取り柄だから」 「真田さんと雰囲気が似てますね」
そんなことを言われたのは初めてで、会話を止めてしまう。せっせと冷蔵庫の前に膝をついて掃除をしている小さな背は、自分の発言の重大さに気づいてないようだった。
「似てない、だろ…」 「でも、一緒にいるときの空気とか会話のタイミングとかが、すごく」 「付き合い長いから」 「長く一緒にいれるのって、素敵ですよね」
純粋な憧憬を含んだ声に、俺には聞こえた。自分はそうしてこなかったと、自分に皮肉っているのだろうか。
「今日、話があるって言ったよな」
結人が来たせいで忘れかけていた、俺の今日の本題。 振り向かない背がほんのひととき硬直したように見えた。けれどすぐに手早くきりのいいところまで片付けると、ぱたんと冷蔵庫を閉めた。 ふきんを流しに置き、手を洗って俺のほうを見る。
「はい」
真面目で清潔感のあるその声が、いつでもどうぞと告げていた。 何かを諦めたまなざし。その目で、俺をどう映しているんだろう。 猛烈に俺の中で何かが吹き出した。
「…やっぱ、いい」
瞬きを増したあいつの双眸が、戸惑いと疑問をありありと浮かべていた。
「真田さん」 「ごめん、もう寝る」
俺はかなり一方的に言って、勢いよく立ち上がる。追ってくる視線を無視して、自分の部屋に入る。これでいい。 何があってもあいつはこの部屋には入らない。それを知った上での、完璧な逃げ場だった。 部屋の中は明かりをつけていない分、夜の闇だけがくっきりと見える。そして意気地のない自分に、ほとほと嫌気が差した。
わかってる。 俺は、結論を決めるのが怖いだけなのだ。
あいつがまだここにいるのか、いなくなるのか、選ばなければならない責任から、逃げているだけなのだ。 願いを言わないあいつと、答えを言わない俺と、二人してどっちつかずだ。 どうすればいいのかすら、一緒に考えようとしない。
ちょっとは馴染んだと思っていた。 少しは、知り合えたと思っていた。 だけど知る。俺たちはあの始まりの頃から、何も変わってなんかいない。
過去を言いたがらないならそれで構わない。たった一言、俺がそう言ってやるだけで、何かは変わるかもしれないのに。
『真田さんには言いたくないんです』
あの言葉に、俺がどんな思いをしたか、あいつはわかってるのか。 拳と唇が自然と力む。 盗み聞きの代償がこの自分への悔しさなら、あの赤いカードにも劣らない。
その日は、俺の小さな意地で終幕になった。 少しだけほっとしてもいた。答えを先延ばしにして、決定的な何かに背を向けていられる時間を、俺は出来る限り引き延ばしたかったのかもしれない。 そう思うようになったのは、春が過ぎた初夏になってからだった。
************************ 春編終了。 長かったです、ね。なんか問題放置したまま終わってますけど。 そんなわけで、続きは次回からタイトルが変わって始まります。
真田シリーズの一覧は、 旧日記版 新日記版 の、二つに分かれています。 旧日記で本編(数字で続いてるものを指します)は正しい春の迎え方5話までがサイトの正規ページに加筆修正(と誤字脱字そのほか直して)再録してあります。
すっかりうちのサイトは日記小ネタが七割メインになってますね…。 日記で書いているせいか、正規更新の少なさを管理人本人がときどき忘れがちです。あわあわあわわ(もうちょっとしっかりせい)。
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