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二つの月(笛/渋沢と三上ヒロイン)(大人編)。
2004年08月15日(日)
一億二千の光より、指折り数える星でいい。
夜八時の訪問者はオフホワイトのスカートを身に纏い、吐息を伴って、彼の新居に現れた。
「夜分に失礼します」
古い知り合いだというのに、ドアが開いた途端丁寧に頭を下げた彼女の態度は、心の底から申し訳なさを漂わせていた。彼女とは中高校と六年あまりを同じ場所で過ごした渋沢は、寛大な笑みをもってそれに応える。
「まだそんなに遅くないさ。こっちこそ悪かったな。仕事は大丈夫だったか?」 「ええ。ちょうど帰るところだったから。…奥様は?」 「出掛けてる」
帰りは遅いことを告げると、彼女の怜悧な面差しに安堵の色が過ぎった。 渋沢が玄関の内側に招きいれると、バックストラップがついたパンプスの踵がかろやかな音を奏でる。制服がない職場の女性らしく、ヒールの高さは控えめだが高さゼロというわけでもない。昔から何をしても有能然としていた彼女らしい通勤スタイルだった。
「それで」
彼女が内側に入ったことで、ドアを開けるため突っ掛けた靴を渋沢が脱ぐかどうかの頃に、彼女は背筋を伸ばして尋ねた。微笑みが浮いているが、それは怒気混じりだった。
「どこに?」 「向こうだ。まあ上がってくれ」 「お邪魔します」
前向きに靴を脱ぎ、家主に対し斜めの角度で床に膝をついて脱いだ靴を直す。渋沢の旧友は教本通りの作法を披露したが、その後の行動は渋沢より早かった。 さして長くもない廊下を大またで歩き、突き当たりのリビングへの扉を開く。そしてそのまま固まった。
「……………」 「…いや、ちょっと昼過ぎから飲んでたから、な」
無言になった女性が、部屋全体のどこを見ているのか背後からでも渋沢は知ることが出来た。リビングの中央を占める、脚の低いガラステーブル。その上に乱立する空の酒瓶と空缶を見れば、この部屋で男二人で何していたか大体の想像はつく。 軽く十秒単位で黙った彼女は、肺の空気すべて使ったようなためいきをついた。
「アスリートが二人して、昼間から酒盛り?」 「でも夕方まで他の友人たちもいたから、二人であの量というわけでも…」 「それでも、飲みすぎて熟睡するほど飲んだわけね」
その部屋に一歩も入らず、腕を組んだ彼女の視線と皮肉はソファで長い脚を投げ出して熟睡している黒髪の青年に向かっていた。
「試合休みの日に、ほかにすることないの?」 「面目ない」
言い訳せずに渋沢は苦笑しながら否定した。同じ歳の彼女が、こういった口調で非難するときに下手に逆らわないほうがいいと生徒だった時代から知っていた。 今度はさして沈黙になることもなく、彼女が意を決してその部屋に脚を進めた。キッチンとカウンターを隔てて続き間になっているが、テーブルの周辺以外は新婚家庭らしく新しい家具類が初々しい調和を保っていた。
「三上?」
彼女はソファの前へ回り、膝をついてその顔をのぞきこんだ。香る酒気も覚悟していたのか、顔をしかめることはなかった。おそらく渋沢が掛けた水色のタオルケットの上から肩を揺り動かすが、漆黒の睫毛が上がる気配はない。 渋沢も同じように近づくが、彼女はすぐに渋沢のほうを向き直る。
「起きなかったの?」 「ああ。たぶん、少し寝れば起きるとは思ったんだが、山口なら起こせるかと」 「無理よ」
あっさり黒髪の恋人を持った彼女は答えた。
「寝穢いもの」 「それは知ってる」 「まったく」
静かに肩を落とし、彼女はかろうじて残る三上の体に支配されていないソファの一部分に腰を下ろす。 伸ばした白い手が、汗ばみ乱れた黒髪を梳くのを渋沢はじっと見ていた。
「未だに自分の飲む量もわからないのかしらね」
言葉とは裏腹に、優しい口調と慈しむような仕草。 飲み過ぎて前後不覚に熟睡してるので暇だったら回収しに来て欲しい、と渋沢が電話口で頼んだときは心の底から「馬鹿じゃないの」と言った人間が、結局本人を前にすれば穏やかにならざるを得ない。
「随分呷ってたぞ」
カウンターの向こうの冷蔵庫に向かった渋沢が、肩越しにそう言うと、彼女は一瞬黙って目を伏せた。
「…そう」 「一月は飲ませなくていい」 「そうでしょうね」
吹き出すように、彼女は笑った。居場所を落ち着かせるため鞄を床に下ろしたが、三上のそばからは離れない。前髪をなでつけ、いつも通りにしてやる手もそのままだ。
「不調だと自棄になるのは、よくないことよね」
やけにひっそりと、寂しげに聞こえた声に渋沢は買い置きの緑茶をグラスに注ぐ手を止めた。面倒なので明かりをつけていないキッチンは薄暗い。明かりの点いているリビングの中央にいる二人が、まるで舞台上の俳優たちのように見えた。 主演女優は渋沢の目にも少し痩せたことが、この角度からははっきりわかった。
「…後は訓練するだけって本人は言ってたな」 「そうなんだけど、気持ちは身体ほど順調に治ってないみたい」
もう走れはするんだけど、と彼女は睡眠に身を浸している彼の顔を見ながら呟いた。
「全治三ヶ月のところを、二月ぐらいでここまで来たんだ。三上はそれほど弱くはないさ」 「わかってるけど、…相変わらず私にはあまり頼らないのよね」 「…そうか?」
そうだろうか、と渋沢は純粋な疑問を感じながら淡い萌黄色に染まったグラスを彼女の前のテーブルに置き、近くの一人がけの座椅子に座る。 彼女は三上から渋沢へと視線を移し、彼女らしくない頼りなげな笑みを見せた。
「自分一人で何とかするっていう気持ちはわかるけど、あんまり頼ってこないと、やっぱり私じゃ無理なのかなとも思う」 「何言ってるんだ。三上の怪我に感化されて、気弱になってないか?」 「…そうかもしれない」
眠りを妨げないようにひそやかな声で肯定しながら、彼女はゆっくりとまた三上のほうを見た。寝顔に手を伸ばすのは、そうしなければいられないような心境にあるからだ。 一度、二度、と指先を髪にくぐらせながら、瞳が細まる。
「私は渋沢や三上みたいに、自分のプレーを見た人のほとんどを勇気づけたり、感動させるようなことは出来ないけど」
白い指先が止まる黒髪の合間。夜の静寂に溶け込みそうな淡い声。
「せめて、一人ぐらいの支えになりたいって思うのは、傲慢かしらね」
一億二千に感動を与える女神にはなれなくとも、たった一つを幸福にする傍らの何かに。 涙より先に溢れ出しそうな愛情に、その横顔が濡れているのが渋沢には見えた。一時驚いたが、やがて渋沢は不謹慎なほど破顔した。
「何かと思ったら、そんなことか」 「そんなことって」
当然、彼女は自分の本気を嘲笑されたと思い柳眉を逆立てた。渋沢はそうういうことでもないと、手を振って否定する。
「そう思ってくれるだけで、三上には充分だ」
三上の口からはっきりと彼女への感謝の言葉を聞いたことはない。けれどそれは彼が不得手とする事であるだけで、心の奥底では支えにしていることぐらい、渋沢でもわかる。 大事なことほど、客観的になりきれない本人には伝わりにくいものだ。 渋沢の目を見つめ返すかつての同級生に、渋沢は同じくかつての自分を思い出す。危ういところのあった中学高校時代。可愛げなく成長してしまった自分と違い、時には己を顧みず振る舞い、一途すぎて暴力的な生き方をする三上を幾度救えるだろうかと思ったものだ。 彼の悩みが自分の存在にあると悟ったとき、自分に三上は救えないと痛感した。あのときの絶望とやるせなさ。三上の向ける視線に、嫉妬と憎悪がちらついていることに気づかない振りをするのが精一杯だった。 サッカーの世界に身を置く限り、渋沢は三上を絶対に救えない。それは今でも変わらなかった。
「…むしろ、そう思ってくれるだけで俺には有り難い」
傍らに寄り添い、性質にとらわれず慈しんでくれる存在。 いつかあの強情で一途な友を包み込んでくれる鞘のような人間が現れることを願ってきた。自分では出来ないことを、誰かがしてくれることを祈ってきた。 よかったな、と渋沢は眠る友の心中に語り掛ける。彼女はあの頃から、きっと三上の中にいた。気づかなかっただけで、ずっと。
「…この人もそうだといいんだけど」
苦笑に近い印象で、彼女は顔をほころばせた。 それでも先ほどよりは晴れやかな笑みだ。望むなら渋沢は彼女が信じるに値するだけの具体例を挙げてもよかった。気分が落ち込んだとき、自分を肯定してくれる言葉は心を浮上させるのに何より役に立つ。
「今度聞いてみたらどうだ?」
それでも渋沢は、三上の名誉を思って具体例は言わなかった。彼女はすこし考えて、そうねとさらに小さく笑った。
「ともかく、見捨てないでやって欲しい」 「そんなことまで渋沢が頼むの?」
彼女は呆れた声だったが、表情はやさしかった。そして、ふと目の色を楽しげに変える。
「そういえば、知ってる? この人、こっちが見捨てるつもりで立ち去りかけると、服の裾つかんで引き止めるような人なの」 「ほお」 「でもつかむだけで何も言わないの」 「タチが悪いな」 「でしょう?」
でも、と言いながら微笑む横顔の先。ただ静かに眠る黒髪の存在。
「考えたら、ずっと前からこういう人なのよね、三上は」
呆れたのではなく、諦めたのでもなく、ただ受け入れた声。 しょうがないからそばにいるのよ。そんな強気で憎まれ口を叩くような少女だった彼女は、あの頃よりさらに愛情を磨いてまろやかで穏やかなものへ変えた。 彼はもう大丈夫だ。彼女がいるのなら。
「世話が焼けるな」 「本当にね」
軽く笑い合う二人の間に、もう一人がいる。 同じ世代を生きる黒髪の青年の脇で、二人はただ笑った。
地球と同じ年月を傍らで見守ってきた月が、窓の外に出ていた。
************************ 三上寝っぱなし。 途中でだんだん書いていることがわからなくなって混乱しました。あぶないあぶない。でもなんだか、やっぱり書きたかったことからズレた気がします。え、いつものことですか?(その通りだ)
これまでちまちま書いていた、中学高校時代の渋沢と三上の関係のうち、渋沢が抱いていた三上の危うさと心配っぷりが解消されるとしたら、姉さんが常にいるようになってからかな、と(わかりにくい言い回し…)。 とか言っても、最近ここに来た方にはわかりませんよね。すいません。
三上は同世代より一際抜き出た天才渋沢に友情半分嫉妬半分で接していて、それをどっちかに統一できない自分に苛立ったり、鈍い(と思ってる)渋沢がそんな三上の葛藤に全く気づいていないことにさらに苛立ってて。 渋沢は渋沢で、三上が自分のことを奥底では嫌っているような気がして、それが性質とかじゃなくてサッカーの点で渋沢が同世代の頂点付近に常にいることへの嫉妬だって理解してまして、すごく複雑なんだけど三上のことは嫌いになれず(性格上で嫌われてるわけではないので)、逆に三上を傷つけまいと三上の嫉妬に気づかない鈍感を装っているのです。
いるのです、とか言っておいてまあとどのつまり私の妄想ですよ。 笠井と藤代にも似てますが、笠井くんは三上より穏やかな性質なのと、藤代は渋沢さんみたいに装ってるんじゃなくて本気で笠井の嫉妬に気づいてない、と。 性格上では嫌いではなく、むしろ好きなんだけど、そこにサッカーが混入することによって複雑になってしまう、という葛藤とかそういうのがね、うん。
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