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松葉牡丹が咲いた日(笛/渋沢と藤代)。
2004年08月05日(木)
松葉寮に松葉牡丹が咲いた頃、彼女はやって来た。
玄関先での押し問答はすでに十分を経過しようとしていた。
「藤代」 「ヤです」 「…藤代」 「イヤ、です」
松葉寮の玄関はタイル張りになっており、両開きの厚いガラスドアを潜れば壁に沿って簡易型の靴箱が設置されている。土足で踏むことになるタイルからはすのこが敷かれ、そこから靴を脱いで上がることになっていた。 そのすのこを隔て、スニーカーの藤代と、室内履きの渋沢が対峙していた。
「ふじし」 「嫌です」
とうとう同じ一言を言い合う応酬にも飽きたのか、またはかたくなな藤代の態度に呆れ果てたのか、寮長として生徒間の問題に責任を負う渋沢が大仰なためいきをついた。 渋沢が組んでいた両腕を外したが、藤代は自分の腹のあたりで組んだ手を離さない。 その藤代の腕の中で、何かがもぞりと動いた。 漆黒の毛並みを持つ仔猫が藤代の腕の中から顔を出す。その純真な瞳に渋沢は敢えて逆らった。
「…藤代、ダメなものはダメなんだ」
当初は説得と叱咤が混じったものだった渋沢の声に、同情が混じった。 半ばうつむきながら、腕の中の存在を決して手放そうとしない藤代の口許がきゅっと引き締められる。黒い目だけは叱られる子供そのものだ。
「ここで動物を飼うことは出来ない。規則で決まってるんだ。どうしても藤代が飼いたいなら、ここを出て行ってもらうしかない」
退寮とはそのまま、サッカー部からの除籍を意味する。武蔵森学園は寮生活を過ごすことによって、通常の学校教育における学力向上と共に集団生活における協調性や精神の充実を計ることを学校教育の理念としている。特別な事情を除き、ほぼすべての生徒が寮に入ることになっている。 その中で、この松葉寮はサッカー部員のみの特別寮だ。一般入学試験通過者ではなく藤代や渋沢のようにスポーツ特待生の枠に所属する生徒だけが入寮出来る。そこを出るということは、部員としての資格剥奪に近い。
「…だってこいつ、飼えないから保健所に連れてくって」
すでに何度か聞いた、黒猫の事情を渋沢は黙ってまた聞く。
「かわいそうじゃないッスか。保健所連れてっても飼ってくれる人がいなかったら安楽死させるしかないって言うんスよ」
飼い主が現れない野良猫や野良犬に、そういった運命が待ち受けていることは渋沢も知っている。だからといって、簡単に首を縦に振れない自分に彼は失笑した。 ひょんなことから出会った子猫を見捨てられなかった藤代の心の優しさは認められる。しかし、現実は丸ごと全部受け入れられないのだ。
「仕方ないだろう、と言ったらお前は俺を罵るか?」
まだ十五で、渋沢もこんな役割をしたくはなかった。 鋭く顔を上げた藤代の目に相手を責め立てようとする正義感を見つけ、渋沢は意識的に表情を引き締めた。
「飼えないからといって捨てた相手を無責任だと言うが、そうやって一時の同情で猫を拾って、規則に反した場所で飼いたいと駄々を捏ねるお前はどうなんだ」 「―――」 「頼み込めは許してもらえるかもしれないからと安易な思いで拾ってきたお前は無責任じゃないのか」
藤代が歯を食いしばって渋沢を睨んだが、言い返す言葉はやって来なかった。 自分の発言が非情だと理解しても尚渋沢は続けた。
「可哀相なだけじゃ、どうしようもないことだってある」
我ながら可愛くない意見だ。険しい顔で言う自分の裏側で、渋沢はほろ苦く、こうしか立ち回れない自分をやるせなく思った。 悔しげに顔を赤くする藤代の腕の中、渋沢の手のひらに乗ってしまいそうなほど小さな猫が身じろぎしている。自分の運命を考えることも出来ないほど幼く無垢な命だ。 母猫はどうしたのだろう。兄弟もいたはずだ。藤代が見つけたときはもうこの一匹しかいなかったという。無事に拾われたか、あるいは。 人間社会に翻弄される生き物たちの運命を、渋沢は心の奥底で悼んだ。
「…でも、拾わなきゃこいつ死んでた」
ぽつん、と水面にしずくが落ちるような藤代の声だった。 敬語も忘れるぎりぎりの感情で、藤代の黒目にも水膜が出来ていた。
「すぐ俺が連れて帰るって言い出したら、ちょっとでもこいつが生きる可能性があったら拾った! 無責任でもいい! 見なかった振りして、仕方ないって言って見殺しにするよりよっぽどマシだ!!」
憤りをそのまま声にした藤代の声は、夏の松葉寮に響き渡った。 渋沢が目を見開くと、怒った顔の藤代が両手で子猫を渋沢に突き出した。
「俺は!! キャプテンみたいに大人になれなくてもいい!! わがままでどうしようもないって怒ってもいいから、こいつここで飼わせて下さい!!」
藤代は溢れ返った感情に半泣きになっていた。言い草といい、とても頼む側の人間とは思えない。だが渋沢はそのひたむきさを目の当たりにして、数秒動けなかった。 何事かわかっていない黒猫の金褐色の目。必死さと強情さが混ざった藤代の黒い双眸。 二つの命が、渋沢を凝視していた。
「…ふじしろ…」 「お願いします!!」
この様子では土下座も辞さない勢いだ。激高しすぎて真っ赤な顔になっている藤代に、渋沢は少しずつ笑い出したくなった。 いつの間にか理屈と理性ばかり重んじるようになっていた。藤代のように自分の感情のまま動いても、良い方向になるわけではないと割り切るようになったのはいつからだっただろう。 藤代は生き延びる可能性を選んだ。楽観視さえも超越する生命力と運に賭けた。 彼だからこそ、出来たことだったかもしれない。 渋沢は一度だけ息を吐き、姿勢を正した。
「それでも、ここで飼うことは出来ない」
藤代が何かを言いかける前に続ける。
「だが、夏休みの間だけ置いてもらえるよう頼んでみる。その間に、飼ってもらえる人を探すんだ。これだけ人数がいるんだ、寮中の人間に全員聞けば飼ってくれそうな人を知ってる奴もいるかもしれない」
言葉を進めるごとに、藤代の顔にいつもの華やぎと明るさが戻ってきた。 渋沢はそれこそ仕方ない、と言いたげな顔で笑う。
「それでいいか?」 「はい!! ありがとうございますキャプテン!!」
やったー、と手放しで喜ぶ藤代が、歓喜のあまりぐりぐりと腕の中の子猫をなでくり回す。
「よかったなー!!」
子供を抱き上げる父親のように浮かれて、藤代は踊りだしそうな勢いだ。 渋沢はこの数十分ですっかり凝った肩を自分で揉みながら淡く笑む。ここで飼えないとは言えても、結局渋沢は元の場所に置いてこいとは言えなかった。見殺しにしなくて済んだことに渋沢もかなり安堵していた。 これから先、寮の管理人や学校側への説明など、雑多なところで骨を折るかもしれないが、藤代に酷なことをさせ罪悪感に浸るよりは遥かに楽なことだ。
「キャプテン、ありがとうございます!!」
弾けるように笑う藤代が、早速靴を脱いで寮に上がる。
「じゃ俺! まずは竹巳に見せてきます!」 「待て」
ここで終わるわけではない。渋沢は藤代を引き止めた。
「室内はダメだ」 「うぇ?」 「動物アレルギーの者がいないとも限らない。夕食前の点呼で確認を取るまでは、中庭だ」 「ええー?」 「それから、名前つけちゃダメだぞ」 「えっ」 「今名前をつけてそれに慣れたら、飼ってもらううちで新しく名前がついたときに困るだろう」 「そんなぁ」 「そのぐらい我慢しろ。後で諸注意一覧作って持って行くから、ちゃんと読むんだぞ。今何か箱を探して持っていくから、猫と一緒に中庭で待ってろ」
一度決まれば後は渋沢の得意分野だ。矢継ぎ早に言うと渋沢はさっさと寮の事務室に足を向けた。 後に残された藤代は、安堵と面倒さの中間で、子猫の顔をのぞきこむ。
「…やったな」
やっぱキャプテンってやさしい。 ほんの一時、冷酷だと思った自分を反省し、藤代は肩の力を抜いた。 一度味方につけてしまえば、渋沢ほど頼りになる人間はいない。寮内でどれだけ反対する人間がいても、穏やかに根気よく諭してくれるだろう。藤代は心置きなく飼い主探しに没頭出来る。
さすが俺らのキャプテン。
我らがキャプテンのことを思い、藤代は自分もやれるだけのことをやる決意を固めた。 玄関外の花壇で、松葉牡丹が咲いていた。
************************ 猫抱えて駄々捏ねる藤代が書きたかっただけなのですが、途中思いのほか深刻路線に傾きました。あら?
昔うちの妹も、顔真っ赤にして子猫連れて帰ってきましてですね。 そのとき我が家にはすでに一匹の犬と四匹の猫とそのほかカメやら魚やらがいまして、これ以上猫は飼えない状態だったんですが、話聞けば妹の友達が拾ってきてマンションだから飼えるわけがないと親に叱られてまた捨てるはずだった猫で。 うちのほうがまだ飼えるかもしれないから、ということで妹は受け取ってきたという。 結局知人のうちに引き取ってもらったのですが、それについて色々思うことはありました。
…というのが本日の元ネタ。 何かの生き物を飼うってことは、最期までその命に対して責任感を持つべきだと思います。 子供の頃に動物を飼うことによって情操教育に役立つ、とかよく聞きますけど、うちの場合家に帰っても犬や猫がいることによって寂しさの緩和になった気がします。親がいなくても犬と猫たちは絶対いたものですから。 まあそんな私の思い出話などどうでもいいのですが。
キャプテンはなんだかんだ言いつつ、藤代に甘いぐらいでいいと思います(何突然)。
ところでメモライズがどうやらまだ書き込めるようなのですけど。 こっちは31日の夜に必死で1日に完全消滅してもいいように色々作業してたんですけど。 なんだなんだなんだ。これで復活とかしちゃったら怒るよもう。エンピツさんにお金振り込んじゃったんだから!! まだ試運転中なのでしばらく(仮)状態です。
あとですね、Web拍手なのですが。 以前に拍手レスをつけてから、あちこちのサイトさんでこれについての意見をいろいろ目にしたのですが、うちでは拍手レスは行わないことにしました。 わざわざ誰が見てもおかしくない場所でレスをするなら、掲示板を設置するのと同じだと思ったので。 送りっぱなしで、誰が送ったかわからないところがあの拍手の利点だと考えました。 …あとうちの場合、web拍手の公式理念と若干すれ違っているところがあるものですから。オマケメッセージをメインにすること自体、はっきり言って間違っているのです。 気が向いたら押して下さるだけで結構ですし、メッセージメインとして扱うのも製作者様に悪い気がしますので、メッセージについての更新も記載しません。今も前と変わってないですよ。 相変わらず穴だらけの管理で申し訳ないです。 も、もうちょっと隙のないサイトを目指したい…。
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