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day after(笛/三上亮)(未来)
2004年08月03日(火)
終わったらでいいから思い出して欲しいこと。
目を開けると、光よりも先に冷たい何かの感触を知覚した。
「…起きちゃった?」
おそるおそる、という表現がぴったりの声が聞こえる。返事をしようとした三上は、口を開きかけた途端顔面を走った痛みに顔を歪めた。 心配そうな顔をして、いつもと同じ彼女が三上を見ていた。 その視線を受け、三上はどうにか彼女のところへ帰りつき腰を下ろした途端眠気に襲われた自分を思い出す。
「痛ェ」 「ごめんなさい。とりあえず拭こうと思って」
とりあえず、起きて。 そう言いながら狭いソファの上で寝ていた三上を彼女は腕を取って起こさせた。まだ半分醒めていない三上の視界の中で、彼女はほんのわずか苦笑したようだった。
「名誉の負傷ね。お疲れ様」
瞳の動きだけで三上に自分でタオルを持つように伝えてから、彼女は近くに置いてあった救急箱からスプレー式の消毒液を取り出した。
「…沁みるのヤだぞ」 「なに子供みたいなこと言ってるの。ほら顔出して。移動の間に包帯取れちゃったって自分で言ってたじゃない」
精神的な力を持つその細い手でこめかみを捕らえ、彼女は問答無用で三上の額の右上あたりに消毒液を吹きかけた。目に入らないようにテッシュペーパーで瞼のあたりを覆われた三上だったが、傷口に入り込んだ液体に今度は思いきり顔を歪めた。 テレビもついていない深夜の一人暮らしの部屋は二人の声しか響かない。
「…昨日、見たか?」 「見たわよ。向こうで病院行ったの?」 「行った。外傷だけですぐ治るってさ」 「…こっちは心臓止まるかと思った」
日常生活ではまず不要だとおぼしき、大きな絆創膏を取り出した彼女の声は疲労が滲んだためいきのようだった。 おそらく、テレビ中継されていた三上の遠征試合を見た後にわざわざ帰ってからの手当てに必要なものを揃えておいてくれたのだろう。真新しいガーゼや包帯まで入っている救急箱を視界に捉え、三上は殊勝な思いに駆られた。
「悪かった。心配かけて」 「…どうやって切ったの」 「競り合ってコケたときに、相手のスパイクが顔に当たったんだよ。ちょうど血管あったらしくて傷の割には血だけドバっと出て」 「物騒ね」 「…なんか言葉違わねぇ?」
三上が異議を唱えると、彼女は顔を上げてその綺麗な眉をしかめてみせた。
「じゃあ、心配かけさせないで」 「……スミマセン」
下手な罵声よりも心に応える一睨みには謝罪しか出てこない。 妙にゆっくりと手当てをしてくれる彼女はそれから三上と視線を合わせずに口を開いた。
「だいたい三上の試合は心臓に悪いのよ」 「…攻撃の起点を潰すのはよくあることなんだよ」
試合中一人二人以上のマークがつくのは、現チームの司令塔役を預かる三上にとってはいつものことだ。数で劣るからといって引き下がるわけにはいかない。 結果、激しいぶつかり合いになるのは慣れた。多少脚を削られようが、少しぐらいのアザや擦り傷を恐れていては、あの場にいる資格はない。 今度はごまかす気のない彼女のためいきが感じ取れた。
「それでも心臓に悪いの」
こめかみに添えられた手に力が入る。うつむきかけた彼女の睫毛をすぐ近くに見ながら、三上は同じことを繰り返す。
「悪かった」
けれど、どれだけ彼女が心配しようと三上はあの緊張感が閉じ込められた舞台を降りる気はなかった。まず有り得ないだろうが、彼女が泣いて止めてもきっと三上は断るだろう。 スポーツの世界にもルールという正義がある。それに則って戦うことが三上が選んだ世界だ。そこを去ることを決めるのは三上だけだ。 怪我をするたび彼女が心を痛めることを知っていても、どうしても離れられないものに三上はすでに出会っていた。 次の彼女のためいきは、あきらめの気配が滲んでいた。
「…別に、やめて欲しいって言ってるわけじゃないの」
ただね、と珍しく気弱で頼りない声が三上の耳朶を打った。
「試合終わったら、私が心配してることだけは思い出して」
彼女は四六時中自分のことを想っていろとは決して言わない女だった。三上には三上の、自分には自分だけの時間があり、お互いにそれを必要としていることも理解している女だった。過ぎた干渉は不利益にしかならないのだと。 だからこそ、たまの頼りない台詞には彼女らしいやさしい愛情が言わせるのだろう。 三上はそっと笑う。彼女は、なぜ三上が試合後は必ずここに寄るのか知っているだろうか。 心配するなとは言えない。肉体を酷使する場所に三上が立っているのは事実だ。そもそも気休めが欲しいわけではないと、本人がそう言っている。 どれだけ全力を尽くして戦えるかは、待つ人の有無で決まる。時折そんなことを考える。どれだけ無茶をして、激しい攻防を繰り返し、傷ついて帰っても、彼女がいる。 怪我の手当てをしてくれて、話を聞いてくれて、たしなめて苦笑して諭してくれる。こんなことを言えば彼女はきっと、自分は母親ではないと怒るだろうが、母親では抱きしめられない。 帰る場所に待つ人がいるから、心置きなく戦える。 そんな思いを、いつかこの戦う日々が終わったら言えるだろうか。
「聞いてるの?」 「ハイハイ聞いてます」
三上は色々考えていた自分が妙に照れくさく、ごまかすために投げやりな答えを返した。 当然彼女は鼻白んだのか、まったくというような響きで最後のためいきを落とした。
「はい終わり」
名残惜しいと思う前に、白い手が三上から離れる。 救急箱を片付けるために背を向けた彼女を見ながら、三上はソファに背を預け天井に近い壁のあたりを見る。時計はもう日付が変わる直前を指していた。
「…忘れてねぇよ」
心配してくれていることも、待っていてくれることも。 小さすぎる声を彼女に届ける必要はなかった。
「三上?」
なにか言った、とすでにいつも通りの凛とした声で尋ねる人。 三上は目を閉じてさらにソファに沈んだ。瞳を閉じてもなお感じ取れるこの空気。彼女の存在。
「なんでも」
毎度毎度この言葉でごまかす。それでも許してくれることを知っている。 夏の宵の空気を胸に吸い込み、彼はゆっくりと目を開けた。
************************ サッカーの試合って心臓に悪いなあ、と思いました。 あのガンガンのぶつかり合いを家族もしくはそれに準じる人はどんな思いで見てるのかなあ、と。成功と祈る気持ちと安否を祈る気持ち、まぜこぜな気がしました。 そんな感じの三上と姉さん。ちょっとこっぱずかしい気もします、な…。
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