二十四節気の「大雪」本格的に雪が降り出す頃である。
北海道は雪。能登の被災地も雨が雪に変わったようだ。
季節はもう真冬となり遠く遥かな春を待つばかりとなった。
今朝はSNSのスペースで大阪の詩人E君と話すことが出来た。
繊細な「光」のような詩を書く人で私の好きな詩人さんである。
不思議だったのは初めて話すような気がまったくしないこと。
なんだか古い友人のように思えて懐かしくてならなかった。
詩は「独り」で書くものであり誰かと群れながら書くものではない。
私はまるで一匹狼のように書き続けて来たように思う。
そうしてそれは評価をされることもなく地に埋もれ続けて来た。
道端の石ころのようなものである。時には蹴られることもある。
口惜しい思いも沢山しながらであったが嘆くことはしなかった。
劣等感のかたまりであっても自分を見失わないことである。
そんな石ころのような私をE君は見つけてくれたのだ。
蹴りもせず投げもせず手のひらに載せてくれたのだった。
今日ほど石ころで良かったと思ったことはない。
これからも石ころで在り続けようと心に誓う。
先日「是非に詩集を」と言ってくれたのもE君だった。
私は百歳になったらと応えたがおそらくそれまでに定命が尽きるだろう。
焦る気持ちもあったがそこにはもう諦めしかなかった。
石ころはどんなに磨いても宝石にはなれない。
しかし今朝E君と話して少し目の前が明るくなった気がする。
経済的な余裕がなくても詩集を出すことが出来るのだそうだ。
E君は既に9冊の詩集を出しておりそれが何よりの証拠だと云う。
夢のような話であるが夢ならば叶えなければと思った。
「いつかそのうち」ではいけない。私にはもう時間がないのだ。
ひしひしと死が迫って来る。どうにも逃れられそうにない。
この大きな不安は得体の知れない沼のようなものである。
そんな沼をどうして見て見ぬ振りが出来ようか。
引き摺り込まれる前に成し遂げなければいけないことがあるのだ。
大げさな表現をするが命を楯に立ち向かうべきだろう。
死んでしまえば全てが終りである。
その終りを見ることは出来ないからこそ「いま」見なければならない。
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