静かに優しい雨の一日。まるで春先の雨のようであった。
ずっと空気が乾燥していた日が続いていたので
「慈雨」と言うべきなのかもしれない。
四万十川にかかる沈下橋も橋桁が剥き出しになっていたようで
川の水量が著しく減少している証であった。
菜種梅雨にはまだまだ早いけれど程よい雨が必要なのだろう。
伯母の49日の法要が菩提寺でありじいちゃんが出掛ける。
コロナ禍の事で最小限の人数で執り行うとのこと。
お葬式にも参列できなかった私は伯母の遺影にさえ会うことが叶わず。
帰宅したじいちゃんに聞けば孫やひ孫達の姿もなかったそうだ。
49日になると魂は三途の川を渡るのだと言う。
川船で釣りに行くのが好きだった伯父が迎えに来ていただろうか。
そうして天国で穏やかに暮らせるのならもう言う事は何もない。
私は輪廻転生を信じていて魂は必ず生まれ変わると思っている。
ソウルメイト。ツインソウル。今はもう死語に等しいかもしれない。
けれども切っても切れない縁は必ずあるのだと信じてやまない。
「赤い糸で結ばれていた」という表現もあるように
ひとは出会うべきものとして出会うものなのではないだろうか。
そんなことを考えていると「死」は決して怖ろしいことではなく
魂は浄化され再び生を受ける望みも無いとは言い切れないだろう。
けれども死ぬのはやはり怖くてならない。そんな矛盾を抱えつつ
せめて与えられた命を全うしようと躍起にならざるを得ない。
脚光を浴びるわけでもなくひたすら地味な道をこつこつと進む。
「死んだら何も残りはしない」とある亡き作家の言葉にあるけれど
その作家は今でも脚光を浴びていることを知っているのだろうか。
私もずいぶんと老いぼれて来たけれど
枯野の尾花にも降り注ぐ雨があった。
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