Allegro
2004年09月04日(土)
名取義春 -3-
図書館の横の非常階段をあがると緑色のフェンスにかこまれた狭い屋上があって、そこからはコの字型につくられた校舎が見渡せる。敷地を縁取る緑の木々と、くすんだ臙脂色の校舎の壁と、グラウンドにひびく声と、校門を抜けて散りぢりになってゆく制服姿――白いシャツのお揃いの夏服――なんかを遠くから眺めていると、僕は変にそわそわしてしまうのだが、それを成田は「感傷ってやつだろう」という。その通りなのだろう、けれどそれはたぶん僕自身が感傷的なのではなくて僕がこの感傷的な気分をつよく望んでいるからなのだと思う。過ぎ去ってからでは遅いのだ。すべてを惜しまなくてはならないと僕は焦っているような気がする。
何ヶ月か前に父方の叔母が尋ねてきた。親類というものの価値が僕にはよくわからないのだが、彼らは決まって、慈しむような憐れむような、もはや憐憫の情が溢れすぎて見下しているようにすら見える目つきで僕を見る。その目で見られると無性に吹き出しそうになるのでそれを抑えるために僕は必要以上に子どもぶって見せる。叔母には、最近読んだ本の感想を事細かに述べてみたのだが、主人公が家出する場面で泣いたといったら彼女は笑いながら「お話なんかで泣けるのも今のうちね」といった。本を読んで泣いたなんていうのは勿論冗談に過ぎなかったのだが僕は叔母のそのせりふがひどく気に入らなかった。大人の醜さは年を重ねることで生じるのではない、未熟だった過去の自分を、まるでなかったもののように記憶の埒外に追いやってしまうことで生まれるのだ。
小室はフェンスに寄りかかる姿勢で煙草を一本すい終わると、軽く手を振って階段を下りていった。僕はそれを見送ったあともしばらくアスファルトのうえに座っていた。合唱部の女の子が二人やって来て少しだけ練習をして、また帰って行った。病院の面会時間は夕方の五時までだ。煙草の吸い殻を空き缶に入れて、目を閉じた。どこにも行きたくないけれど、ここにいたいというのもちがう。
「まーた青春を満喫してるのね、おまえは」
目を開けると非常階段へ続くドアの前に成田が立っていて、口の左端だけを少しあげた、いつものにやにやした表情で僕を見ていた。
「おまえこそ、今ごろ出てきて、なにしてんの? どうせきょうは欠席扱いだろ?」
「おれは重役出勤なの。バスケ部の連中にさ、もうすぐ試合だから、おまえが必要だー、てせがまれてね」
「そんな嘘ついてどうしたいんだよ……」
成田は二年生になった春になにを思ったのか突然バスケットボール部に入部したが、一ヶ月も経たないうちに部長の恋人を寝取ったとかで、出入り禁止の仕打ちを受けていた。一度、成田と遊んでいた休日の大通りで、すれ違いざまに大声で罵られたときは、女々しいというか大人げないというか、部長も部長だな、と思ったが、そんなことを考える僕の隣で成田は顔色ひとつ変えずにゆうべ寝た相手のこと(勿論、バスケ部の部長の恋人だった女の子とは、別の女の子だ)を話し続けていて、成田も成田だな、と思った。
さっきそこでまた睨まれちゃってさ、と成田はいい、僕の隣に座って煙草に火を点けた。「自業自得」と言ってやると、成田は軽く肩をすくめるようにして笑い、猫のような目で僕を見た。
「おまえに会いに来たんだぞ、ナトリ」
「そのこころは?」
「電話、来てたぞ。親父さんから」
僕は部屋にいてもいなくても常に電話はとらないようにしている。電話は、表情の見えない相手の、声だけが耳元で聞こえるのが、なんだか奇妙で苦手なのだ。自分の声もそんなふうに相手の耳に届くのだろうと思うと、気味が悪くて戦慄する。
「なんか言ってた?」
「うーん、チェックリストみたいなの読み上げてた。学校行ってるのか、めし食ってるのか、まだあのひとに会いに行ったりしているのか、とかなんとか、十項目くらい」
部屋の隅に無造作に置かれた電話機の、赤いランプが点滅しているさまを思い浮かべながら僕は曖昧に頷いた。成田が「オキャクサーン、ゲンキダシテ」と、夜になると駅の裏で盛んに客引きをしているフィリピーナの口真似をしながら僕の肩を撫でた。いつものように痴漢みたいな手つきだったが、それが少しだけ愉快で、僕はしばらくじっとしていた。
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