Allegro


2004年08月23日(月)

本間依子 -2-

 爽やかな風とはまるで無縁、痛いくらい冷房のきいたオフィスでわたしは無心にコピーを取り続けている。機械の隙間から緑色の光線が漏れて、一定の間隔を置いて紙が吐き出されてくる。枚数と、白紙がないかとか、かすれがないかとかをチェックしてそれを束ね、クリップで止めていく作業。総合職と言っても、やっていることは制服を着てる子たちと変わらない。企画書を抱えてどきどきしながら会議室に座っていたのも最初の数ヶ月だけで、今はこうして何を考える必要もなく、単調な作業をして定時を待つ生活だ。女性も活躍している職場なんて売り文句は、実際そのほとんどが嘘なんだろう。研修期間が終わって初めて、その会社の実態が分かるのだ。
 数週間前、同期で入社した子が「話が違う」と掛け合っていた現場を目撃したが、もちろん取り合ってもらえなかった。その夜藤島はわたしにその話をした。ほとんどが悪口のような話だったのでよく覚えていないが、要するに「無能なやつが悪い」とか、そんな内容だったと思う。話をしている最中、彼はずっとわたしの表情を窺っていたが、わたしは眉ひとつ上げなかった。彼はわたしのそうした態度に満足し、「きみは賢い子だ」と言ってキスをしたのだ。わたしはその夜もセックスを拒まなかった。
 藤島とわたしの関係が始まったのは、わたしが3度目の企画を提出した日のことだった。それまでの失敗を元にして、たっぷり時間をかけて作った自信作だったが、その日のうちに発案者の名前は藤島の名前に書き換えられていた。それを目にしてすぐに彼のデスクの前へ行ったわたしに、彼はこちらが口を開く前にこう言った。「何か問題が?」と。わたしはこう答えた。「わたしのアイディアを使っていただいてありがとうございます」と。以来、口癖のように彼はわたしに言う、きみは賢い子だ、きみは賢い子だ、きみは……


 「おまえは無能だ」


 突然頭の中で重い声が響いた。はっとして顔を上げ、辺りを見回すと、時計は12時を指しており、人はまばらになっていた。わたしはいつ終わったのかコピー機から書類を回収し、それを自分のデスクの上に積んだ。友人の阿佐野を誘ってお昼を食べに出ようと思い、バッグから携帯電話を取り出すと、小さなディスプレイに「着信あり 1件」という字が浮かんでいた。わたしはバッグと携帯電話を手に持って廊下に出た。その番号にかけ直したが相手は出ず、留守番電話センターにつながったので、わたしは数秒頭の中で文章を組み立てると、メッセージを口にした。「お姉ちゃんです。仕事中で電話に出られなかったの、ごめんね。なにかあったの?また後で電話します」
 電話を切ってから、今度は阿佐野に電話をかける。「もしもし、阿佐野?お昼まだ?またお昼も食べないで仕事していたの?よかったらこれから外に出ない?そう、この前話したお店よ。先に行って注文しているから。うん、分かったわ。それじゃ待ってるから、ええ、またね」
 会社を一歩出ると、冷房で冷え切った体にむわっとした熱風がかかる。空を見上げて、そういえば今日は天気よかったんだわ、なんて思いながらわたしは歩き出した。

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