無責任賛歌
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| 2002年04月20日(土) |
スゲーナ・スゴイデス!/『映画クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶアッパレ! 戦国大合戦』ほか |
初日一番で、『映画クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶアッパレ! 戦国大合戦』を見に行く。 本当はしげと一緒に見に行きたかったのだが、公演が間近いので、土・日は全て練習にアテてている。 かと言って、平日の午後だと、今度は私が映画館に間にあわない。 う〜くそう、天神東宝、『クレしん』は子供連れしか見にこないと決めてかかってやがるな。オタクの立場はどうなるんだよう(そんなもんを考慮する映画館は、池袋文芸座くらいのものだ)。 しげは月曜に見に行くつもりらしい。 「なんなら今日、練習が終わって、劇団のやつ、誰か誘えば? オレ、二回見に行ってもいいから」 「でも、『クレしん』行きたがるの、よしひと姉様くらいしかいないよ。今日は来てないし」 そうなのである。 いやしくも演劇をやってて、自らが表現する立場にありながら、ウチの劇団の連中はホントに映画や芝居を見ないのだ。中には「長いこと座ってたら息が苦しくなるし」とか言いだすやつまでいるし。舞台で座りっぱなしの役が振られたらどうするつもりなんだ。 しかもなんつーかねー、自分に知識ないこと、恥ずかしげもなく堂々と言い放つしねー。 別にな、アカデミックになれなんて言いたいわけじゃないけどよ、「私、算数できないけど数学者になりたいんです」ってのは通らんだろう。つ〜かなれるわけがない。 役者が映画見るの嫌いでどうするんだよ。 そんなやつが演じた芝居なんて、一人よがりのものにしかならんぞ。 今日の練習は、午後3時に終わるそうなので、しげと待ち合わせして劇団のメンツと一緒に見に行くことも考えたのだが、なんかもー、日頃のみんなの言動をしげから聞いてるだけに、チョイと顔を合わせたら、なんか余計な一言を言っちゃいそうだったんで、結局は控えることにしたんである。
天神東宝、開始の三十分前に到着。 窓口で「本日は全て指定席となっております」のアナウンス。なるほど、既に子供連れが黒山の人だかり。 こりゃ混むかなあ、と思ってエレベーターに乗りこんだのだが、みんな五階の『名探偵コナン』行きだった。 『戦国』の三階で降りたのは私一人。 うーむ、前作の評判高かったから、初日から、ちったあいいオトナが泣きに来ちゃいないかと期待してたが、やっぱ全国レベルで見たら局地的なのかなあ。
パンフは買うが読まない。 先入観はできるだけ入れないで見るのはいつもの信条。既に「しんちゃん映画だから」で映画に対する期待は充分である。
……見た。 信じられない。 これが奇跡か。 昨年、あれだけ感動したのに。 昨年、あれだけ笑って、笑って、泣いたのに。 去年よりずっと冷静に見ていた。 眠田直さんが「オタアミ会議室」に「去年を引きずっていない」と書かれていたので、傑作を期待などしていなかった。 なのに超傑作が今年も見られるなど、誰が予測しえただろう。 私は基本的にある程度のネタバレは覚悟で、映画や本の筋は書くようにしている。この物語についても、その凄さを語ろうとすれば筋に触れざるを得ない。
しかし、私は今度の映画に関しては、ストーリーラインすら紹介することは一切しない。 なぜなら、この映画は私がこれまでに見てきたドラマ、映画、アニメ、全ての頂点に立った映画だからだ。 黒澤明の『七人の侍』をも、スタンリー・キューブリックの『2001年宇宙の旅』をも、軽く飛び越えている。 ストーリーは全く複雑ではない。 オタク向けの濃いネタもない。 ただただ映画だ。 これが映画だ。 誤解を招くことが多いので、こういう表現をすることはできるだけ控えているのだが、「これを見ずして『映画ファン』を名乗るな」、そう断定していい(この手のモノ言いは誉める時の常套句なんだから、イチイチ文句つける方が神経過敏と言うものである)。
これだけじゃ単に常軌を逸してるだけのように思われそうだから、オカシクなってるのは私だけではないということを証明するために、唐沢俊一さんの裏モノ日記・15日の混乱ぶりを紹介しよう(^o^)。 もちろん、誉めに誉めちぎってはいるのだが、ところどころ照れがあるのだろうか、あえて貶そうとしているところがあって、それで貶しきれずに困っているのだ。 「タイムスリップのあの静かな描き方を見ても監督がSFをやりたいのではなく時代劇をやりたかったのが分かる」とあるが、原監督が時代劇を描こうとした、という見方はまさしくその通りだと思うが、それを「SF的要素が少ない」という説明のしかたで語るのはヘンだ。 あれは紛れもなく、SFとしての表現である。しかも最上級の。 SFはロボットやタイムマシンなどのアイテムに頼って描かれるものではなく、使い古された言いかただが、センス・オブ・ワンダーによって描かれるものだ。それを実践して来たのが、日常SFの名手、藤子・F・不二雄に薫陶を受けたシンエイ動画の面々なのだ。 『ドラえもん』には「タイムマシン」が出てくるじゃないか、と批判する向きもあろう。けれど実は藤子さんにはなんのアイテムも必要とせず、今回の『戦国』と同様、○○の○○のみで、タイムスリップが行われる、という短編があるのだ(ネタバレするのでタイトルは言わない)。 このネタは実は山田風太郎もある時代SF小説で使っている。 SF者としてはちょっと唐沢さん、見方が甘い。 ケレン味がほしかった、と言いたいのをムリヤリSF的見地から語ろうとしてズレちゃったんだろうな。「唐沢さんの混乱」というのはそういう謂いである。
でも唐沢さんの混乱はこの程度に留まらない。 何しろ、日記にも書かれている通り、今まで「アニメや怪獣映画の主人公が近代的自我を持ってはいけない」、というスタンスで批評して来たのだから、どんなに面白くても、立場上、手放しで誉められないのだ。プロはツライよなあ。 おかげで、唐沢さん、「オトナ」としての一面を見せたしんちゃんの姿に、「もし次回作でまた、何の屈託もこだわりも自分を取り巻く社会に対して持たない子供に戻ってしまったら、それはこの作品に感動した観客をバカにした行為とならないだろうか?」と言わずもがなのことを語っている。 実はこの批評、私が昨年の『オトナ帝国』を見た際に、「オタアミ会議室」に、「そんな風に考える人もいるのではないか?」と指摘したことなのだ。 そのときは眠田直さんが、「しんちゃん何度もオトナになってますけど?」といいツッコミを入れてくれて(問題の回答にはなってないけど)、「野暮言ってんじゃねーよ」って雰囲気になっていたのだ。 そう、今回の唐沢さんの批評、全体的に「野暮」なんである。しかし、「野暮」になるのも無理はない。 唐沢さん自身が語る通り、これほど破綻のない映画と言うのは類を見ない。しかし、「完璧」だの「奇跡」だのという言葉は本来、批評の言葉ではない。完璧な映画などあるはずはないからだ。にもかかわらず、それ以外の言葉が思いつかないほどに、誰もが心を揺さぶられてしまっているのだ。 結果、何を語っても野暮になる。 だからただこう語るしかないのだ。 この映画は、面白い(夢枕獏かい)。
続けて『名探偵コナン ベイカー街の亡霊』を見る。 あー、でも『しんちゃん』の後に見るもんじゃないな。 それなりに出来がいいような気もするんだが、既に頭は飛んでいる。 だってさっきからまだ涙が止まっていないのだ。 前半がともかくタルい。新型ゲーム機コクーンに入るまでで、映画の半分使ってないか。結果、ゲームとしての見せ場がほんの数ステージしかない。 犯人が最初に死んでるってのも劇場版『パトレイバー』だし(飛び降り自殺まで一緒にするなよ)、切り裂きジャックとシャーロック・ホームズを絡めるってのも、エラリー・クイーン『恐怖の研究』や映画『黒馬車の影』という先駆例がある。 史実と合わない都合の悪いところは「ゲームだから」で逃げてるしなあ。 私は別に「切り裂きジャックを操って、モリアーティ教授がアイリーン・アドラーを殺そうとするのを、ホームズのヒントをもとにコナンたちが救おうとする」ってストーリーに対しては特に腹は立たないんだけど、熱心なシャーロキアンは、『ヤング・シャーロック』並に怒り狂っちゃうんじゃないか。 うーん、でもつまんないって言っても、冷静じゃない状態だったからなあ。まあ、今回の感想は割り引いて見てください。
練習終わったしげと待ち合わせて、ベスト電器でダイヤルアップルータとかゆ〜のを購入。 よくはわからんが、しげ、今あるパソコン2台、これを同時にネットにつなげるようにしたいらしい。 練習から鴉丸嬢もついてきてたので、てっきりしんちゃんでも見たいのかと思ったが、ただ単に着いてきただけらしい。 う〜、一瞬期待したのになあ。しげも「別にアニメだからとか関係なくてしんちゃん面白いよ」と言うのだが、不得要領。絵柄がダメなのかなあ。どっちにしろ、無理強いしてまで見せたいなんて気はサラサラないので、そのままアクロス地下のMKで点心。 ここの中華はあっさりしてていい。鴉丸嬢、久しぶりに中華が食べられたと言って喜ぶ。なんでも其ノ他君とのデートでは、彼が中華嫌いなので、全然食べられないそうだ。 「杏仁豆腐の味が懐かしい」と言うので一口分けてもらったが、なるほど、昔食べたミルクプリンのような味。……杏仁豆腐って、こんなんだったっけ?
3人で三千円食い放題は安い。 鴉丸さんの分は奢りでいいとして、しげの分をもらおうと「千円出しな」と言ったら拒否される。 「なんでだよ、お前、食ったじゃないか」 「でも昨日は私が奢ったし」 「その前は俺、カニおごったろ?」 「あれは奢ってくれるって約束だったんだからノーカンだよ」 「奢りにノーカンもクソもあるかあ!」 隣りで鴉丸さんが笑っているがやはり我々夫婦の会話は人から見たら漫才にしか見えないのだろうか。
鴉丸嬢を家まで送るしげと一足先に別れて、帰宅。 テレビで『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶアッパレ! スペシャル』を見る。 前に半分だけ録画していた去年の『嵐を呼ぶモーレツ! スペシャル』の残りテープに録画したので、この一本は期せずして『オトナ帝国』&『戦国大合戦』のメイキングテープみたいな感じになった。 で、名場面集見て、また泣いてるし(^_^;)。処置なしだよなあ。
帰宅したしげ、嬉々としてルータとやらを設置し始めるが、どこをどうつないでいいか分らずに悪戦苦闘。 こちらもしげが何をどうしたいのかわからないので見ているしかない。そのうち眠くなって寝る。夜中にしげが溜息ついてベッドに潜りこんできたが、「どうだった?」と聞くと「できん」のヒトコト。 ……しげの戦争は明日も続きそうである。
2001年04月20日(金) ただいま治療中/『クラッシャージョウ』(細野不二彦)ほか
| 2002年04月17日(水) |
オタクによるオタク否定/アニメ『ヒカルの碁』第二十七局/『学校って、なんだろう』(産経新聞) |
今日もまた雨。 またぞろ「春は長雨」ってセリフが頭に浮かぶが、考えてみたらイマドキの若い子は、大島弓子の『綿の国星』の存在自体、知らなかったりするんである。 この日記にも、オタク的な知識だのが余り説明もないままに、ポン、と提示されること、よくやってるんだけど、本来なら、それがどういうものか解説をつけるべきかもしれない。田中康夫か(←昔、『なんとなくクリスタル』って小説書いて、当時のトレンディな用語にいちいち解説を自分でつけてたんだよー。ってな具合に解説がいるかなってことです)。 けど、そんなのいちいちやってたら、書く方もツライか読んでる方もツライだろう。しようがないんで解説は必要最低限に留めるように心がけ、できるだけ脚注のような形はとらず、文脈で内容が推し量れるよう、務めてきたつもりだった。
けど、世代格差ってのは私が想像している以上に大きい。 私たちの世代にとっては「常識」なモノが、ちょっと下の世代にとっては「存在すら知らない」ということが現にあるのだ。
先日も、ある濃いオタクな人と話をしていて、その人が「高野文子」を知らなくて仰天したことがある。 彼女の絵柄をご存知ない方は、北村薫ミステリーの表紙絵を数多く書かれている方だと言えばおわかりいただけようか。私はあの絵がほしくて、北村薫の本を集めまくった時期があるくらい、ファンだった(中は殆ど読んでない)。 80年代のコミックシーンを語る上で、彼女を避けて通るわけにはいくまい。単行本『絶対安全剃刀』中の「田辺の鶴」は、ある意味『綿の国星』以上の衝撃を与えてくれたと言っても過言ではない。老人が老人として登場せず、その精神性ゆえに童形に描かれる、というのは当時のコミックファンにはとてつもないショックだった。 先年公開された映画『金髪の草原』の大島弓子の原作も、この「田辺の鶴」の影響下にある。単に抜群の画力を誇るだけでなく、マンガ表現のスタイルを革新させた功績のある方なのだ。 その、オタクの人は、私より5、6歳年下なだけである。 にもかかわらず、ある意味大友克洋以上にその登場がショッキングだったと言ってもいい高野文子の存在を、全く認識していなかったのだ。そのこと自体が私には大ショックだった。 確かに超寡作な方で、これまでに出版された単行本も『おともだち』『ラッキーお嬢さんの新しい仕事』『るきさん』など数えるほどしかない。しかし、寡作だからといって、その存在が無視されてはならない人、というのが確実にいる。つげ義春を想起していただければ、私の言いたいことにご賛同頂ける方も多いと思う。
つまりは、マンガの世界も既に一オタクがフォローできないほどに拡散してしまっている、ということなのである。黒澤明もスタンリー・キューブリックも見たことがない自称「映画ファン」が存在するように、全てのマンガに通暁しているオタク、などというものは存在しないのだ。 実は私は、以前からオタク度を「濃い」「薄い」で表現することになんとなく違和感のようなものを感じていたのだが、それは「濃いオタクってどの程度なのよ?」ということだったのではないか。 先日見ていた『BSマンガ夜話』で、「日本のマンガってどんなの? って聞かれたら、とりあえず手塚治虫を見せておけばいい」という発言があったのを見て、あそこに出ているマンガに一家言ある方々でも、その程度の狭い認識しか持っていなかったのか、とショックを受けた。 手塚治虫の功績を認めるのに吝かではないが、マンガ好きがマンガの世界を一作家のそれの中に押しこめるような狭い捉え方をしてもいいものなのかどうか。
『クレヨンしんちゃん』がメジャーでない、という人は誰もいないだろう。 しかし、非常に濃いオタク、と私が思っていた人たちでも、「映画の『しんちゃん』は凄いよ!」と、この十年、何度となく語り続けたけれど、全くと言っていいほど耳を傾けてくれなかった。 その意味で言えば、彼ら彼女らが「私、オタクじゃないから」と謙遜するのは謙遜ではないのだろう。 しかし、メジャーであるがゆえに日頃『しんちゃん』を見ている人たちはその凄さに気づかない。「オタク」は初めから見ようともしない。だとしたらその「凄さ」を訴える人間はどこにいるのか? なんだか、江戸期に浮世絵がただのラクガキのように消費されていったのと同じような状況があるように思う。 私は「オタク」というのは知識ではなく「スタイル」だと思っている。基本的にオタクはディレッタント(趣味人)であるはずだ。 単なる知識の多寡ではなく(少なすぎるのは問題だが)、世間一般の人が見過ごし、打ち捨てて顧みないクズ、ガラクタの類。そこに光をあて、特殊性と普遍性の両方を見出す。それがオタクの本懐というものではないのか。
本当は私も「オタク」と自称したくはない。 知識自体が濃い方々に比べて圧倒的に少ない、というのもあるが、何より雑多な知識の一つ一つの特殊性と特殊性の間に連関性を見出し、そこに普遍性を持たせて大系化しようとしている唐沢俊一さんのような根気は私にはないのだ(唐沢さんはそんなアカデミックなことはしてないと否定されるだろうが)。 それでもあえて、「オレはオタクだ」と私が主張しているのは、オタクを名乗る者もそうでない者も、結果的には自らの偏狭さの中に閉じこもって、何かを発信すること、発信されたものを受け取ることを怠っているように思えてならないからである。
私のこういう「発言」自体、どのような意味を持つものか、充分に自覚してモノを言っているわけではない。でもだからこそ、どんな批判も受けた上で更に発言を繰り返していかねばならないのだろう。 雨を見ながら、そんなことを考えていたのである。
給料日前なので、極貧である。 どれくらい極貧かと言うと、現在、財布の中身が97円である。惜しいところで100円缶ジュースも飲めない。 しげに話すと思い切り笑われる。 「じゃあ、今日の食事はどうするの?」 「まだ買い置きのレトルトカレーとかがあるよ」 「私の夕食は?」 ……私がメシ代にも逼迫してるのは、そうやってテメエが食料ピンハネしてるせいだろうが、と文句がオクビまで出かかるが、グッとガマンして言わない。 言えばまた、「DVD買うのやめれば?」と切り返されるのがオチだからだ。 もちろんそう言われたって、更にこちらが「オマエもムダなダイエット商品買うの止めろよ」と反駁することもできるのだが、それ以上言えばもう、目糞鼻糞どころか泥沼になる。 ぶっきらぼうに「自分でなんとかしろよ、メシくらい」とだけ言う。
……でも、結局作ってやりましたよ。 とり肉に野菜ミックスを混ぜて甘酢で炒めて、丼にする。 「美味い美味い」とあっと言うまに平らげるけど、「肉が少ない」と文句を言う。作ってもらって、文句言うかなあ。 「オレ、家事しないし」のしげ、今日は珍しく洗濯をしたので、ちょっと威張っているのだ。
アニメ『ヒカルの碁』第二十七局「時々戻りたい場所」。 特番が続いてたので、『ヒカ碁』を見るのも久しぶり。作画も安定してるし、原則の構図も生かしてる。ううう、悩むぞ悩むぞDVD。 (ー’`ー;) ウーン。 あ、おかっぱ頭の金子さんだ。わーい♪ 佐為だアキラだ伊角だと、婦女子のみなさまがたが美形に靡くのはわかるが、同性にも暖かい眼を向けようぢゃないか(^.^)。やっぱ脇キャラ一人一人までイキイキと描かれてるとこに『ヒカ碁』の魅力はあるんだから。 それに、プロの世界に入って行ったとはいえ、囲碁部がヒカルの出発点になったのは確かなことだ。これから先、ドラマの中枢に絡んでくることはなくても、「ヒカルがいなくなった後も、囲碁部はちゃんと続いてるんだよ」というエピソードを描くことは、読者に安心感を与える意味でも必要なことなのだ。 金子さん、三谷を引き戻した立役者じゃないか。こういう重要なキャラもちゃんとヒイキしよう(^^)。 金子さんの声優の「くじら」さん、『ブルース・ブラザース2000』でもアレサ・フランクリンの声アテてたんだよな。押しの効くキャラと言えばこの人って定番ができつつあるみたいな(サム・ムーアまでアテてたぞ。男じゃん)。
夜、春風亭昇輔師匠から再びストラップについての問い合わせの電話あり。 うわあ、本当にご丁寧な方だなあ、正直言って頭が下がる(^_^;)。 もちろん、注文を受けているわけだから、確認をするというのは、当たり前の行為ではあるのだが、その当たり前ができない人間ってのが現実には多いのだよね。 私もそうだが(墓穴掘り)。 今日はしげ、在宅していたので、電話のベルが鳴った途端、「受話器取れよ」と言ったのだが、照れてるのか「アンタが出て」、と私に仲介させようとする。 そんなとこまで面倒見きれるか、人見知りにもほどがあるってもんである。 そう思って、ムリヤリ受話器を取らせる。 しげはもう、電話口での声が3オクターブくらい上がって興奮状態。 こういう時のしげの声って、ホントに声だけ聞くとすっげーかわいいのな。日頃私と喋るときはふてくされてドスの効いたヤクザ口調だってえのに。この声のせいで「有久さんの奥さんはすごくかわいいらしい」と誤解されたことがどれだけあったか。 ただのアホだよ、こいつは。 しげ、誰でもうっかりやっちゃうことだが、電話の相手に向かって「よろしくお願いします」とか言いながらアタマを下げている。 だから見えないっつーの(^w^)。 考えてみたら、しげはトンデモナイ悪筆なんである。「これこれこう、ストラップに書いてくれ」と書いて注文はしたんだろうけど、多分、「この字、なんて読むの?」と、困惑されたのではないか。 確認の電話をしたくなる気持ちもわかる。 実は、送ったファックスの字が読めなくて、ソルボンヌK子さんからも「なんて書けばいいの?」、と、問い合わせてきていたのだ。 そのファックスも見せてもらったが、「Dan Aykroid」という文字が、「Dan Aソkvoid」に見える。ムッシュもキツイおヒトのようで、「これ英語?」とか書いてるし(^_^;)。
そういえば、昔、しげが友達に送った手紙で、私のことを「太ってる」と書いてたけど、その字がどう見ても「たってる」にしか見えなかったな(確かに「た」は「太」の草書体だけど)。 どこが立ってんだよ、オレの(-_-;)。 日ペンの美子ちゃんに字を習え。
産経新聞「じゅくーる」取材班『学校って、なんだろう』(新潮文庫・500円)。 最近、教育関係の本によく目を通すようになってるけど、そりゃもうなんてったって、「学校五日制」なんて教育改革の大転換の時期に偶然巡り会えたからであってね。もともと私ゃ教育のことになんて全く関心がないの。 私が「国を憂えてるんじゃないか」なんてヘンな邪推は、決してなさらぬよう、読者のみなさまにはお願いいたします。 歴史の真実を追い求める気なんて私にゃサラサラない。 というか「真実」なんてものはハナからないと思ってる。私が興味持ってるのは、常に「時代の様相」。あるいはヒトの生きざまなのだな。 正しいか正しくないかなんて、歴史だって証明できないよ。我々にわかることって、せいぜい「あのころはこうだった」という個人の見方の集積を確認するだけ。 その「集積」が時には一つの潮流を作ることがある。それに「歴史」という名前が与えられて記録されることもある。でもそれは決して「全体」になることはない。 「学校五日制」。 国の制度である以上、この「流れ」は「全体」であるように見える。けれど、その意味の捉え方がこんなに個々人間で乖離している現象って、おもしろくないか?
この本、平成8年に連載されたものの文庫化だけど、その後の変化なども大量に注として加筆してある。まさしく「教育の今」を問うている本なわけだ。 ここでは、現在の教育現場での苦悩を紹介しながら、たびたび「学校はその役割を終えたのか?」という提言がなされている。 ある学校はフリースクール化することで、不登校の生徒たちを受け入れようとする。 またある学校は、社会人として生活できるよう、学校の形態は変えないまま、生徒を学校に戻そうとする。 でも、その正反対のどちらも、「提言」に対する「答え」にはなっていないのではないか? 「学校なんて要らない」という答えを出せばすむことなのに、あえて「学校」という形態を変化させててでも残そうとするから、どこかにムリが生じてるのではないか。 思い切って、いっぺん、学校全部廃止して、入試や入社試験も全部抽選にしてみたらどう? 学力ないやつばかりの世の中になっても、案外、世の中は回っちゃうものなんじゃないかな。 なんか、世の中みんなで寄ってたかってキュウクツにしたがってるよなあ。 疲れませんか? そういうのって。(´。`;)ふう。
2001年04月17日(火) どこまで続く死のロード/ドラマ『陰陽師』第三回『迷神』ほか
| 2002年04月16日(火) |
タコを求めて三千里/ドラマ『盤嶽の一生』第3回/アニメ『あずまんが大王』第2話 |
唐沢俊一さん、眠田直さんたちは、試写会でいち早く『映画クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶアッパレ! 戦国大合戦』をご覧になった模様。 いいなあ、ギョーカイの人はツテがあって。 Niftyの「オタアミ会議室」にもネタバレしない程度の感想が述べられてるけれど、どうも『オトナ帝国』以上にショッキングな内容の作品であることは間違いないらしい。 唐沢さんは日記にもそのあたり、チラチラと書かれているようなのだが、映画を見る時にはできるだけ先入観を入れずに見ることにしているので、読みたいのをひたすらガマンする。公開まで感想書くの待っててくれてもいいのになあ。でも、まず真っ先に会議室に感想書きたくなる気持ちもわかるしなあ(『ゴジラ』と『しんちゃん』に関しては、私は毎年劇場に一番乗りしたい衝動を抑えきれないし)。 ふうふう、あと三日の辛抱だ。なんか胸がドキドキしちゃって、これじゃ遠足前の日の小学生か、デートの前の童貞男のようじゃないか(^_^;)。 ……心臓に悪いなあ。
昨日の某新聞で、石原慎太郎都知事が「学校五日制」についていつもの石原節で「このままでは公立が潰れるぞ」と吼えている。 確かに客が来なくなれば官営といえども縮小化は避けられまいからなあ。全国の公立小・中・高が統廃合を繰り返して行くことは必然だろう。 ただ、それはそれとして、石原知事の言説、殆ど支離滅裂である。 「社会の常識や知識は公教育の責任」と語った直後に「学校よりも親の責任」と全く逆のことを言う。「ゆとり教育がかえって生徒の個性を奪う」と文句つけたと思ったら、「学校行かなくったって個性は伸ばせる」と言う。 だからアンタは「五日制」に反対なのか賛成なのか、どっちなんだよ(-_-;)。 こと教育の問題に関する限り、政治と違って自分の子供とか、ごく身近なところで関わってくることなので、誰でも好き勝手ものが言える、と錯覚してるところがあるように思えてならんなあ。 石原さんなんて、ち○ち○で障子破って、霧隠才蔵になって、憂国して、NOと言って、引退したかと思ったらカムバックしてたことしか記憶にないから、「教育」なんて問題からは最も縁遠いところにいる人にしか見えなかったんだけど、何を考えてインタビューなんかしたんだろうね、朝○新聞。イロモノのつもりか? 少なくとも、この人と黒柳徹子の教育論を聞くくらいなら、「私がなおす!」のオッサンの方がよっぽど説得力があるってもんだ。なおせないときゃ自然淘汰されるから(^o^)。
今日もまた雨。 仕事はそうキツクないんだけど、どうも関節に負担が来てる気がするなあ。 迎えに来てくれたしげの車に乗りこもうとすると、なんと穂稀嬢ともう一人、新顔の男の子が。 今度の芝居で、いきなり主役を務めることになったつぶらやきざし君である。一応、名義上は私が劇団の代表ってことになってるのに、彼と会うのは今日が初めてなんだよな(^_^;)。 しげの話によると、よしひと嬢とのラブシーン(ってほどでもなかろうが)で、つぶらや君、テレまくって芝居にならないらしい。おかげでよしひと嬢はキレまくってるそうだが、「テレまくり」と「キレまくり」、この勝負、どっちが勝つだろうか(勝負じゃないって)。 確かに、見た目、気弱そうだしなあ。印象はややハキハキした「つぶやきシロー」って感じだし。もっとも劇団内では「野口五郎に似ている」ということで「ゴロー」と仇名がついてしまってるようである。
今日はしげの仕事がない日なので、昼間ずっと、ウチのマンションのエントランスで、芝居の練習をしてたのだそうな。 エントランスって……玄関じゃん(・・;)。 昼間はたいていマンションのガキどもの遊び場と化してるとこである。 「よく、練習できたなあ」と言ったら、つぶらや君、「痴話ゲンカのシーンなんか、子供は避けて行きますから」。 それって、子供追い出してるのと変わんないんじゃ……(-_-;)。 お子さんはともかく、大人も通りにくかろう。以前はドレス着てた変人もなんかやってたしな(^o^)。 ……苦情が来なきゃいいがなあ。
時間に余裕があるというので、雨の中を箱崎の「楽市街道」に向かう。 「いったい何しに行くんだよ?」と聞くと、しげ、「『銀だこ』って店でタコ焼き買うの」と言う。 「わざわざ箱崎までタコ焼き買いに?」 「うん、行くって言っといたでしょ?」 確かに、先週、「火曜日、仕事が休みになったから、タコ焼き買いに行かん?」とか聞かれたような気がする。けどいちいちそんなこと覚えてないもんなあ。わしゃ、あの店のタコ焼きと、この店のとでは、どっちが美味いかとか、比べたりしないし。 しげのこの「タコ焼き」にかける執念はなんなのだ。 で、店に着いてみると、確かにスタンダードなタコ焼きのほかに、「梅マヨネーズ味」とか「ごまマヨネーズ味」とか、ちょっと変わった味のタコ焼きがメニューにある。変わりものに手が出るのは私のクセなので、とりあえず、「梅」を頼んでみる。 青ノリとカツブシがトッピングに付いてくるが、カツブシは断る。 あれって、風味を出すことよりも、焼き加減の失敗をカツブシの舌触りで誤魔化してるようにしか思えないんで好みじゃないのだ。そこの店のタコ焼きの腕を純粋に確かめようと思ったら、カツブシを乗せるのを断るのが妥当なのだ。 で、食べてみたけど。 ……梅とマヨネーズの味。当然か。 まあねー、コロモも適度に焼けててパリっとした触感もあって、美味しいことは美味しいんだけどねー、ベースは普通のタコ焼きじゃん。 しげがここまでハマる理由はちょっと見当がつかなかったなあ。
車中で、穂稀嬢をさんざんみんなでいたぶる。 私的なことではあるけれど、ちょっとマジで腹立つことを穂稀嬢が言ってのけたので、しげ以外に怒ることは滅多にない私が、ちょっとばかしキツイ言葉を穂稀嬢に投げかけたのだ。 途端に、しげもつぶらや君も、あれやこれやと穂稀嬢をいたぶりだした。 口火を切ったのが自分だとは言え、誰も穂稀嬢の弁護に回らなかったのには、正直、私も驚いた。……日頃、何やってるんだ、穂稀。 しげが「オレが男だったら、マジでハカセ(穂稀嬢のこと)と付き合うの、めんどくさいよ」と言ったあと、私に、「アンタはハカセと付き合いたいって思う?」と聞いてくる。 亭主にそう聞かれてもなあ、とちょっと口ごもったが、「浮気とかそういうの考えないで、純粋に男としてハカセと付き合いたいかってことだね?」と確認した上で、答える。 「まあ、男から見たら、いくら弄んで、ぼろキレのように捨てたって、罪悪感、感じないでいられるタイプだね。なんでかわかる?」 穂稀嬢、そこまで言われるとは思ってなかったのか、気弱げに「さあ……」としか答えない。 「自立してないからだよ。結婚願望あるみたいだけど、それって『男に養ってもらう』ことを前提としてるでしょ?」 「だって、一人じゃ淋しいし……」 「だから、男はそういう甘えた女は、遊んで捨ててもいいって判断するの」 穂希嬢、不満げな様子だったが、なんつ〜かね、彼女はここにはちょっと書けないよーな言動をこれまでに繰り返してきてるんである。 私のこの言い方でもまだ、ヤワラカク、優しく言ってるんで、多分それほどこたえちゃいまい。そんな甘いタマではないのである。 そのうちキレた誰かさんにもっとキツイ一発カマされなきゃいいがな。
二人を家まで送って帰宅。ホントにタコ焼き買って帰ってきただけなので、7時にウチに着いてしまった。
ドラマ『火曜時代劇 盤嶽の一生』第3回「津軽の男」。 巨人戦が雨で中止のため、急遽放映。 う〜くそっ、おかげで気がつかずに録画し損ねちまった。 でもこれって、絶対DVDになるよな。 ……ってまた買う気かい。でも全部で11話だそうだから、そんなに高額にはならないだろう。なるなよお(-_-;)。 監督は前話までの市川崑に代わって、三村晴彦。なるほど、市川演出独特のコマ切れのカット割りなんかはなくなっていて、よりしっとりとした撮り方に変化してる(とは言っても、私、三村さんの映画って、松本清張原作の『天城越え』くらいしか見てないんだけどね。あれは田中裕子の好演は光るけれど、ちょっと演出がクドイなという印象があったな)。
ああっ! いきなり宿屋の親爺役で江戸家猫八が! 黄泉の国から化けて出たか!(←ベタなギャグ) うーん、となるとこのシリーズ、結構、昔に撮影されてたのかな。確かに、一週間に一本のペースで撮影したとは思えないハイレベルだ。恐らくは長期間に渡って撮りだめしてたと思しい。なるほど、ドラマの密度が濃くなるはずだ(調べてみたら2年前に撮影終了していたらしい)。 録画してないので細かい役名については書けないが、タイトルの「津軽の男」に扮するのは宇崎竜童。役の幅は余り広くない人だけれど、田舎から出てきた出稼ぎ浪人(つーかただのムサイおっさん)みたいな役は結構似合ってる。いつもは役所広司の盤嶽だけが騙されるのだけれど、今回は宇崎竜童と二人揃って、津村鷹志扮する豪商に騙される。騙され者同士の友情、というのも面白い。 ひょんなことから愛刀・日置光平(へきみつひら)を賭けて鶏小屋の番人をすることになった盤嶽。ところが、ほんのちょっと目を離したスキに、98羽の鶏は全て盗まれてしまう。借金のカタに愛刀を手放すことになった盤嶽。ところがそれは全て、商人たちの陰謀だった。 愛刀を取り返した盤嶽は、事情を知らないまま商人たちの用心棒に雇われた津軽の男と対峙することになるが……。
善人そうに見えた旅篭屋の主人の笹野高史が、盤嶽たちに渡るはずだった金子の上前をハネて、ちゃっかり最後にオイシイところを攫っていったり、それを見ていた今回のヒロインの渡辺典子が、これも「仕方ないわね」みたいな顔で見逃すあたり、毎回よくもこれだけ「盤嶽以外はみな悪人」パターンを徹底して繰り返してくれるものだ。こうなると、初めからこのシリーズに「盤嶽以外の善人は出て来ない」と判断して見ていったほうがいいんじゃないだろうか。 盤嶽も、こう毎回騙されっぱなしなら、そろそろ「世間知」ってものを「学習」したってよさそうなものだ。なのに、やっぱり盤嶽は今度もまた騙される。 「そうそう騙されてばかりはおらん!」という彼のセリフくらい虚しく聞こえるものはない。 視聴者によっては、余りに騙されやすい彼の実直さを見ていると、かえって腹立たしいようなじれったいような気持ちになる人もいるだろう。「いい加減に気づけよ」と突っ込み入れたくなったり、「結局、騙されるほうが悪いんだよな」と溜息ついてみたり。 それは確かにそうだろう。けれど、仮に騙されない盤嶽が描かれたとして、その姿が我々の胸を打つことができるだろうか。 「こいつは俺を騙そうとしているのではないか」、そう疑っても盤嶽はやっぱり相手を信用してしまう。こんなふうに愚直なまでに騙されやすい素直さ、我々はそこにどこか「羨ましいもの」を感じてはいないだろうか。騙されて、盤嶽は怒る。そして吼える。しかし、彼は決して誰も恨もうとはしないのだ。 だから明るい。盤嶽も、そしてこのドラマ自体も。 日本映画が描いてきた理想の人物像は、まさに盤嶽をそのルーツとし、「寅さん」に至るものだったと言えるのではないだろうか。 監督が代わっても、最後のテロップ、「騙されて、騙されて、盤嶽よどこへ行く」、これは変わらない。しかし、その道は多分、空に続いているのだ。
アニメ『あずまんが大王』第2話「今日も大坂」ほか。 たまたま深夜2時過ぎまで起きていたので、やっと見ることができた。東京より1日遅れでしかも更に1時間繰り下がり。普通は起きてられねえって。 映画版は演出のテンポが外れまくってて、笑うに笑えないつまんない出来だったけど、テレビ版はごっつええわあ♪ おーさかが主役の回だったせいもあるかもしれないけど、ゆったりとした間が心地よくってねえ。横になって見てたらついついウツラウツラしちゃいそうな。アレだね、このマヌケな間は、『究極超人あ〜る』再びって感じだね。止め絵が多から、一見手抜きにも見えるんだけど、それはちゃんとした演出なんだよね。動かすところは動かしてるし。制服なんかなあ、素直に立ってるとそんなにムネは強調されてないんだけど、背筋伸ばしたり歩くと裾が後ろになびいてムネのラインが出るように作画してるんだね。えっちだけどリアルだ(^_^;)。もっとも厳密な意味での「リアル」じゃない。現実の制服はもっと厚ぼったくて、ムネのラインが殆ど出ないものが多いと思う。あくまで「アニメ」としてのリアルさをスタッフがちゃんとわかってんだね。さすが『少女革命ウテナ』や『エクセル・サーガ』のJ.C.STAFF。 ……そう言えば「春日歩」って名前だったな、おーさかは。本人がそんな仇名つけられても平然としてるもんだから(教師にまで言われてるものなあ)、すっかり忘れてたよ。 ああ、でも『アベノ橋』と『あずまんが』と、またDVDでほしいアニメが増えちまったぞ。この春はほしいDVDが増えないようにと余り新番アニメに拘らなかったのにぃ。
2001年04月16日(月) オー・ド・トワレ/『夜刀の神つかい』3巻(奥瀬サキ・志水サキ)
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藤原敬之(ふじわら・けいし)
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