無責任賛歌
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藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2002年01月24日(木) オタクのハマリ道/アニメ『七人のナナ』第3話/『山本弘のハマリもの』(山本弘)ほか

 今日もケツから血がジョビジョバ〜♪
 で、仕事はまた休み。全く、正月早々そんなに有給食いつぶしてどうすんだか。
 腹が落ちつくまで、昼はひたすら寝る。
 さすがに今日はちょっと医者に具合を診てもらわにゃなるまいと、午後から近所の内科に行って、薬を貰うことにする。
 しげと二人で診察してもらったのだが、診断は風邪。少なくともインフルエンザではなかったので、ホッと胸をなでおろす。
 もらった薬は全く同一。病原菌が同じなんだから当然と言えば当然なんだが、そんなんでもしげはうれしそうに「薬がおんなじ」とか言ってやがる。
 だから、風邪移したのはてめーだろうがよ。~凸(-~~- )

 積文館を回って、何冊か本を買ったあと、ガストで食事。
 私は腹のことを考えて雑炊と豆腐サラダを頼むが、しげは遠慮もなくハンバーグかなんかを頼んでいる。それでまた腹痛起こしても、わしゃ知らんぞ。


 アニメ『七人のナナ』第3話「七人みんなで一人のナナ?」。
 神社で行われるフリーマーケットに行きたいナナたちは、町内会長さんが持ち込んできた特撮ヒーロー・ナナレンジャーのコスチュームをちょっと拝借して(おいおい)、「これなら顔がバレない!」と、神社へ向かう。
 けれど何を間違ったか、ナナたちは、イベントショーに出演させられてしまった!
 ……まあ、予想出来た展開かな。
 ナナが七人に増えても、家の中に閉じこもってるだけじゃ話の広げようがない、そのための「ナナレンジャー」の設定なんだろうけれど、かといって日常、コスプレして街中をうろつくやつってのもあまりいないぞ(^_^;)。
 「同じ顔のやつが二人以上いる」というのはコメディの定番だけれど、実はそう汎用が効くネタではないのだ。結局、「入れ代わりギャグ」でしか使いようがないからねえ。
 チャップリンが『独裁者』で、床屋とヒンケルを一人二役で演じながら、入れ代わりネタをラストにしか使わなかったのは、そのネタでドタバタをやってもたかが知れてる、と判断したからだろう。けだし、慧眼である。
 結局、同じ顔なのに顔を隠すことでしかキャラを動かせないというのは、設定の生かし方を思いついてないからじゃないのかなあ。
 ちょっと今後の展開が心配になってきたぞ。


 DVD『名探偵ポワロ』1巻「コックを探せ/ミューズ街の殺人」。
 先に長編ものを見ていたので、ようやく第一巻、テレビシリーズの第1・2話を見る。
 言ってみれば番組が成功するか失敗するかという試金石的なエピソード、相当力が入ってるんじゃないかと思ったが、そうでもない。

 『コックを探せ』。
 アポも取らずにいきなりポワロの探偵事務所に飛びこんでくたクライアントは、なんだか日本のざーます婦人みたいに高慢ちきなオバサン。依頼は「宅の行方不明になったコックを探してほしいんざーますの(吹替えはぜひ「ざーます言葉」にしてほしかったなあ)」という平凡なもので、ポワロを落胆させる。
 それどころか、このオバサン、ポワロをためつすがめつ、「あなた本当に名探偵? 新聞社におカネ積んで記事書かせたの?」と失礼この上ないことったらない。ポワロが怒りを抑えつつも依頼を断ると、オバサン、「優秀なコックの失踪は、国家的重大事並の大事件なのよ!」とヒステリーを起こしてむりやりポワロに依頼を受けさせる。
 あとで、ポワロ、ヘイスティングスにこっそりと、「私がこんな事件を引きうけたなんて、ジャップ警部にだけは言わないでくださいよ!」と念を押す。
 でも当然のごとくジャップ警部は「なんでもポワロさんともあろうものが、コックをお探しとか……ま、根も葉もない噂でしょうがね」とどこからか情報を手に入れているのである。
 まあ、ニュースソースはそのオバサンだろうけど。ヘイスティングスだったらヤだな(^^)。
 ……でも、えーっと、ポワロってコメディだったっけ……(^_^;)。
 トリックはチャチだ……というより、ある有名なミステリー短編のトリックの流用で、特に濃いミステリファンでなくても、犯人やトリックは一発でわかるだろうって程度。
 ということはだ。このシリーズ、ミステリーとしてどうのこうのってことじゃなく、やっぱりキャラクターの掛け合いでドラマを作っていこうって趣向なんだな。本格ミステリって、地味で映像化には向かないから、こういったアレンジについては、あまり文句はつけられまい。……そう言えば、ピーター・ユスティノフの映画版ポアロシリーズも、後半、どんどんコメディ化して行ったな。
 
 『ミューズ街の殺人』
 「ミューズ」って、てっきり“Muse”(ギリシャ神話の学芸の女神たち。『ガンダム』に「ムサイ」って巡洋艦が出てきたけど、あれはこれのこと)のことかと思ってたけど、“mews”(厩舎)のことだそうな。……そんな単語、そのへんの英和辞典にゃ全然載ってないぞ。 
 この話のポイントは何と言っても「ポワロのゴルフ」だろうな。
 「大陸ではならしたものです」って、そんなすぐバレるウソをポワロがつくとも思えないけれど。見事にポワロの打ったボールはスライスしてどこかに行っちゃったのであった。
 今回のトリックはもう、ミステリーでは使い古された「左利き」もの。
 被害者が右利きだったか左利きだったかってのが推理のポイントになるのだけれど、今やそういうトリックが提出された時点で、ネタはバレてしまうので、やはり往年の古典を現在映像化することは、なかなか難しい。
 ネットを検索してみると、このテレビシリーズ、必ずしも好評を博してばかりじゃないようだが、もはやクリスティーだって充分「古い」んである。多少、ハメを外したようなコメディ演出があっても仕方ないんじゃないか……という気になってきちゃったよ、私も。


 山本弘『山本弘のハマリもの』(洋泉社・1365円)。
 ご一緒に同人誌まで作ったと言うのに、まだ山本センセイとは面識がない(夏コミ行きたかったな)。
 もっとも中年オヤジがわざわざ会いに行ったところで喜ばれるわけでもなし、ネット上だけでの知り合い、というのはよくあることである。AIQのみなさんとお知り合いになれたのも、エロの冒険者さんからお誘いがあったからなわけで、そうでなければ、今でも私はぼうっとネットサーフィンしてるだけで、そのうち飽きてこうして日記を書き続けることもなくなっていたかもしれない。
 まさしく、縁は異なものである(例えがちと違うな)。生きる活力というものは人から与えられるものである。

 「ハマりもの」というものも人から与えられた活力なんだろう。
 子供のころはみんな娯楽が少なかったから、友だちも含めてみんな同じものにハマっていた。マンガ、アニメ、特撮、怪獣、etc、etc……。
 逆に言えば、みんなが同じものにハマっていたから、わざわざ自分たちの知識を確認するための作業をする必要もなかったと言える。
 バイブルは大伴昌司の本だけで充分だった。
 けれど、今やわれわれの世界はたくさんの「オタク」たちで占められるようになった。今でも覚えているが、初めてAIQの会合に参加した日のこと、「あなたはどちらの方面に詳しいんですか?」と聞かれて返事に窮したことがある。
 自分が何かに詳しい、あるいはどちらの方面の趣味がある、ということについて、深く考えたことなどなかったからだ。大学のゼミで児童文学を専攻してはいたが、これとて、専門家というほどではない。……自分に得意な分野などあるのか? AIQのみなさんの濃い濃いオタク話を聞くにつけ、「自分はオタクじゃないなあ」という気がしたのも事実である。
 この日記の中で自ら「オタク」と名乗っているのは、もっぱら「私はオタクでない」という言葉が一般においては差別的に使われる場合が多いので、肩書きを背負うのに吝かではない姿勢を示すためのものである。
 濃い薄いで言えば、私はまだまだ薄いヤツで、原稿が書き溜まらず、未だに自分のホームページを立ち上げられないでいる。
 もっとも、こういうことを言うと、たいてい人から慰められたり叱られたりするんだよなあ。「充分スゴイですよ」とか、「謙遜したフリだけしやがって」とか。前者はよしひと嬢で、後者はしげだったりする(^_^;)。

 オタクは基本的に「知識」ではない。
 要はものを見る目、つまりは自らの「判断」に従って生きるかどうかだ。
 そうわかっていても、自分の「知識」や「判断」を人に披露するというのはかなり勇気が要る。どんな批判・ツッコミがあるかどうか分らないからだ。
 「知ったかぶりやがって、こんなところがオマエにはわかってないじゃないか」とか。
 でも、もちろん、そういうことを恐れていて、「語る」という行為、引いてはコミュニケーションが成り立つはずもない。勇気を奮い起こしてオタクは自らを語って行かねばならない。

 なんでこんなこといちいち書いてったかというと、この本、随所に「間違い」「勘違い」じゃないかと思われる表現が散見しているからだ。
 日頃、山本会長のトンデモ本批判を憎らしげに思ってる連中にしてみたら、ツッコミどころ満載のこれは、格好のターゲットになるのではないか。
 それをここで指摘するのは簡単だ。けれど、その場合、単なる揚げ足取りではないことを示さねば、個人が「語る」ことを封殺しようというファシスティックな行為と何ら変わりはあるまい。

 一例を挙げると、『悪魔の人形/THE DEVIL DOLL』の項目で、「二体の人形がテーブルの上でダンスを踊るシーン。踊る役者の姿をテーブルの上に合成してあるんだけど、何がすごいって、テーブルの表面がつるつるで、人形の姿がちゃんと反射して映ってるんである。どうやって合成したの、これ!? 分からん!」と書いてあるのだが、「あれ?」と思った方も読者の中にいるのではないか。
 私はこの映画見てないんだが、同じトッド・ブラウニング監督の『魔人ドラキュラ』や『フリークス』を見る限り、合成のような特撮技術は当時ほとんど使われていない。
 これ、単に巨大なテーブルをセットで作っただけじゃないのか。だったら姿が反射してても全然不思議じゃない。
 それとも「合成」だとわかる明確な要因でもあったのだろうか。
 その実体と反射の姿がズレてるとか。でもだとしたらそれは技術的にはたいしたことないってことにならんか。
 説明が不足しているせいで、山本さんの言いたい「すごさ」がこちらに伝わってきていない。

 つまり、ネタが多すぎて、一つ一つの印象がかえって薄まってしまっているのである。
 「戦隊サブタイトル文字数の法則」などはまあまあうデータが多めに紹介されているために「なるほど」と思わせるものがあるが、「NHK教育番組ウォッチング」などは、タイトルとあらすじだけの紹介で物足りない。スチール一つ載ってないし(転載許可が降りなかったのかもしれないけれど)。
 山本さんもそれを自覚しているのか、コラムの最後で、教育テレビの内容紹介をしているサイトのアドレスを参考に挙げている。でも、そういう他力本願な行為って、「ああ、そんなにおもしろい番組があるなら、私も見てみたいぞ!」という読者の気持ちをかえって萎えさせはしないか。

 私自身、ダラダラと下手な文章を書き散らして、「こんなモノがあるよ!」と紹介しながら気づいたことなのだが、「あたり障りのない文章」というのは、人に訴えかける力がないのである。
 「この本(あるいは映画など)、いいとこもあるけど悪いとこもあるしまあまあかな」と思ったとしても、そのことをそのまま書いたって、人は「まあまあの本か」としか思わないし、手には絶対取らない。
 ある意味、誉める作品は徹底的に誉める。
 貶すものはとことんまで叩きのめす。
 他人と意見が全く違っていてもかまわない。そのバトル自体が、作品自体の「強さ」の証明なのだ。……オタクの本とはそうでなければなるまい。


 マンガ、椎名高志『MISTERジパング』8巻(完結/小学館・410円)。
 途中をぽーんとすっ飛ばしていきなり本能寺。
 もちろんその前に本筋は一応終わっているわけで、破綻のないところに着地して、一応のまとまりはついたと言えなくもない。
 まあ、このマンガの秀吉が、朝鮮出兵したりするような秀吉になるはずもないとは思ったけれど、正直なところ、パラレルワールドネタを余り安易に使ってほしくなかった。
 何人も天回が出てくるのはちょっとシバリがなさ過ぎる。SFは何でも自由に書いていいってんじゃなくて、やはりある一定のセオリーを作っとかないと、物語自体がどんどん御都合主義的でフヤケた方に行っちゃうんである。
 最後はみんなして時空を越えて大陸に渡るらしいが、これはつまりジンギスカンネタってことか? ちょっと今時それをオチに持ってくるのはセンス的にどうもねえ……。


 夜、CSファミリー劇場をダラダラ見る。
 丁度『仮面ライダー(スカイライダー)』の最終回、第54話『さらば筑波洋! 8人の勇士よ永遠に…』をやっていたので、見てみたが……。
 いやね、この『スカイライダー』、本放映時は「ライダーの原典に回帰!」とか言っときながらどんどん脚本がスカスカになってったんで、最終回なんて見ちゃいなかったのだ(『ストロンガー』までは追っかけてたのになあ)。
 というわけでこれが実は初見だったりするのだが、本放映時に見てたら、腹立てて、テレビを投げ捨ててたかもしれん(しないって)。
 8人ライダーが集結ったって、一文字隼人(佐々木剛)と城茂(荒木しげる)以外の先輩ライダー、全部、声アテだけじゃん。しかもいきなり脈絡もなく登場するし。『ストロンガー』の最終回で全員が集まったのとは雲泥の差だ。
 ……予算のないテレビ番組の哀しさが見えてて、淋しいったらない。
 しかも敵首領の正体、巨大なドラゴンタイプの宇宙怪獣。……センスねー。ストロンガーの時の岩石大首領もセンスなかったけどさあ、一番強い敵だから巨大なんだって安直な発想、スタッフの誰か、イシモリを止めるやつはいなかったのか。まだ最初の『仮面ライダー』に出て来た、ゴーゴンみたいな一つ目のような、謎の存在であった方がずっと納得が行ったなあ。
 しかもこいつ、「足の裏が弱点」で、スカイライダーを踏み潰そうとわざわざその弱点をライダーの目の前に晒しちゃったもんだから、撃たれて瀕死になってやんの。……バカ? いや、もちろんこの場合バカなのは脚本家なんだろうけど。
 あまりに頭がぽかーんとしちゃったんで、夜はぐっすり眠れました。はい。

2001年01月24日(水) せがた三四郎、落つ。/映画『疾風! 鞍馬天狗』


2002年01月23日(水) 風邪まで引いちゃったよ、どうすりゃいいんだ/『西洋骨董洋菓子店』1〜3巻(よしながふみ)ほか

 風邪引いて仕事を休む。
 感染経路は間違いなくしげなんだけど、全然悪びれてないのな。
 「昼一緒にいられるねえ」なんて喜んでやがるし。
 でも別に何かやれるってわけじゃなくて、ただひたすら寝てるだけだ。変に期待するなよ、病気なんだぞ病気……(ーー;)。

 午前中はただひたすら寝て汗を流す。
 ともかく丹念に薬を飲む。常備薬が結構余ってて助かった。
 昼飯は外まで出る元気がないので、仕方なくお好み焼きを宅配。そんな濃いもの、と言われそうだが、二人してダウンしてるんだから、片方が調理というわけにはいかない。うどんの配達なんて、この近くじゃやってないし。ともかく食い物は食っとかないとカラダが回復しない。
 ピザよりゃマシだろ、と思ってたら、しげは「私はピザ」とか言い出した。「バカ、やめろ」という元気もないので、そのまま頼む。まあ、お好み焼きだって五十歩百歩だしな。
 食いはしたが、やっぱりあとでゲエゲエ吐く。
 胃が受けつけてないんだなあ。体力を消耗し、再び寝る。その繰り返しだ。

 しげはしげで、仕事を早退してきてるってのに、睡眠もろくに取ってない。
 「寝つけないんだよう。だって、平日なのに、昼なのに、アンタがいるんだもの、ドキドキしちゃって」
 なんだなんだ、結婚して十年も経つってのにまだオレにときめきラブ? と思わず赤面しそうになったが、すぐに後を継いで一言。
 「誰といてもドキドキするけどね」。
 ……ただの「動悸」っつーんだよ、それは! 対人恐怖症の後遺症じゃんか。

 寝たり起きたりトイレで血便流したり、合間に本読んだりDVD見たり。寝ても寝ても寝たりないのはやっぱり糖尿が悪化してんだろうなあ。

 DVD『名探偵ポワロ/砂に書かれた三角形』。
 DVDシリーズでいくと3巻目だ。1,2巻目は未見だが、しげはもう見ているので、仕方なく途中から。まあ、順序よく見なきゃならん番組でもないけど、(シリーズ自体が原作をアトランダムにピックアップして映像化してるんだから。原作発表の順序通りに見ようと思ったら、第一作の『スタイルズ荘の怪事件』のあと、『ゴルフ場殺人事件』が発売される夏まで待たなきゃならなくなる)飛ばして見ると、どれを見たかわからなくなりそうで怖くはある。
 原題は“TRIANGLE AT RHODES”で、直訳すれば『ロードス島の三角関係』。これも原作は未読だったので、マジメに事件を推理するつもりで見る。
 冒頭、探偵事務所に誰もいなくて、マンションのパーサーと郵便配達夫が会話をしている。ヘイスティングスは猟に出かけ、ミス・レモンは実家に帰省中、ポワロは地中海のイタリア領ロードスで休暇中、という設定を聞いて、「おお、テレビシリーズなのに海外ロケ! ……金かけてやがるなあ」と日本のテレビ事情に比べて羨ましく思った。
 でも問題だったのはここからで、のんびりするはずだった休暇中、ポワロは三角関係に陥った二組の夫婦・チャントリー夫妻とゴールド夫妻と知り合う。……事件の匂いを嗅ぎ取ったポワロは、それとなく彼らに「忠告」をするのだが……。
 うーん、ミステリの都合で、これ以上はストーリーを明かせないんだよなあ。というのも、この設定でビックリしたのは、「なんだ、これって、『○○○○○○』と全く同じじゃん!」ってことだったのだ。
 もしかしてトリックも……と思ったらまさにその通り。これ、原作は中編なんだけど、クリスティーはこれを元にして長編版の『○○○○○○』を書いたらしいんだな。調べてみると、この『三角形』とその某長編は、全く同じ年、1937年に発表されている。どうやらクリスティーは、同じトリックを使って、中編と長編とでは書き方がどう変わるかを試してみたもののようだ。それとも、前作で使ったばかりのトリックをまた使うとは誰も思うまい、と、読者の意表を突くことが目的だったのか?(まさかそりゃなかろうが)
 確かに短編を長編化したものに傑作が生まれることもあるけれど、せめて探偵役は変えてほしかったよなあ。だってそうでないと、「同じ年に全く同じ犯罪を思いついたヤツがいて、それを同じ探偵が解明する」というスゲー偶然な設定になってしまうもの。
 実のところ、一応礼儀として隠しちゃいるが、トリック自体はかなりチャチなんだよね。どうしてこの長編版も傑作扱いされてるかわからないんだけれど、多分、10人中9人が犯人もトリックも当ててしまうだろう。これじゃ「犯人あて」の楽しみがない。せめて語り口やストーリー展開くらいは変えようよう。殺害方法をちょっと変えただけじゃあ意味がないよう。……それともやっぱりクリスティーはもう「古く」なっちゃったのかなあ。

 買い物くらいはしないと、食料がないので、あふあふ言いながらしげと近くのコンビニへ。
 外はちょっと雪降りである。
 寒い。とことん寒い。
 こりゃ明日はまた病状が悪化しそうだ。


 アニメ『ヒカルの碁』第十五局「ネットに潜む棋士」。
 おお、今回の作画レベル、今までで最高じゃないか?
 インターネット碁を始めようとするヒカルに、三谷の姉さんが説明するシーン、この姉さん、名前も判ってないチョイ役キャラなんだけど、実に丹念に描きこんである。……しかも原作よりセリフ増えてないか?
 「ネット碁」というものを説明するために必要、という理由もあるかもしれないけれど、もしかしてスタッフがこの姉さんのファンで、出番を増やそうとしたとか、そんなんじゃないだろうな(^o^)。
 単純だけど、椅子に座ってるヒカルに、脇からかがみこむようにして、マウスの使い方を教えていくカット、実に大胆な構図が多くてドキドキさせられる(^^*) 。姉さんとヒカルの頬が近づいたり離れたり、あるいは胸越しにヒカルの表情をとらえたり。うーん、ほのかなエロスが。
 心なしかヒカルも「きれいなお姉さん」のそばで照れてるように見える。そうだよなあ、中学生になったばかりだもんなあ、年上の人に憧れる気持ちってあるよなあ。
 単調な印象に陥りやすいシーンを、堅実なカットの積み重ねで見せていく様子が実にうまい。何回か前のザツな作画がウソのようだ。
 ……と思ってスタッフ表を見てみたら、キャラデザインの本橋秀之さん本人。
 こりゃリキ入るはずだわ(^^)。
 それにしても、CMだと『テニスの王子様』のDVDはもう発売だというのに、『ヒカ碁』はまだ全然告知がない。
 ……まさかまたいきなりBOXで発売……?


 『ウンナンのホントコ』を漫然と見ていると、「24時間恋愛」という企画が立ちあがってて、これが結構おもしろい。
 『未来日記』の応用編みたいな感じなのだが、見知らぬ相手と1日に1時間だけ24日間、会い続けることができたら100万円、というなんだか冗談みたいな企画なのである。
 相手と会うのがイヤになり、約束をすっぽかしてしまえば、100万円は手に入らない。だから二人とも時間厳守で指定された待ち合わせ場所に向かう。
 しかし、果たして人は金のために見知らぬ他人と会い続けていられるものだろうか。ごく普通の道徳心を持ち合わせている者にとっては、それはかなり気持ちに負担をかけてしまう行為ではないのか。
 そこで、そのフラストレーションから脱却するために、人は自分に「ウソ」をつき始める。自分の「悪行」を正当化するために、無意識のうちに「言い訳」を考え始めてしまうのだ。わかりやすく言うと、事実を補強するための理屈をあとから作り出して行ってしまうってことなんだね。
 ……特に女のほうが。
 どういうことかと言うと、この企画に金のために乗ったはずの女性、本気で相手を「愛している」と思い始めてしまったのである。
 もちろん、それがこの企画のプロデューサーのまさに「狙い」であろう。つまり故意に「ウソから出たマコト」を狙って演出しているわけなんだね。
 なんだか他人をマインドコントロールしてるみたいでイヤだ、と思われる方もあろうが、それだったら「見合い」だって似たようなものだ。日常でもそれと知らせず誰かが誰かを演出するということは頻繁に行われている。「躾」や「教育」だって所詮はマインドコントロールだ。
 この企画のおもしろさは、「24時間」という限定性の中でも恋を演出することができるのか、という「実験性」にある。言い方は悪いが、「罪にならない人体実験」なのだ。さあ、来週はどんな展開になってくれるか、楽しみである。


 マンガ、よしながふみ『西洋骨董洋菓子店』1〜3巻(新書館・各546円)。
 よしひと嬢が熱烈なファンらしく、テレビ化された『Antique』を見て激怒しておられた(^o^)。
 テレビの方は見てないので、批評は控えるが、監督が『踊る大捜査線』や『サトラレ』の本広克行だから、あまり積極的に見る気が起きない。どーせ意味もなくタメて、かえって間延びしたシーンやカットの連続なんじゃねーのか(←偏見)。見てる人がいたら、ご感想を聞かせてほしいものだ。

 けれど、マンガのほうはスゴかった。
 なんかもー、ムズムズするおもしろさとでも言ったらいいだろうか(なんじゃそりゃ)。
 だいたい、よしひと嬢が好きなマンガや小説は、ある種の「偏り」があって、視点そのものはおもしろいのだが、場合によってはこちらが「引く」ことも多々ある(一生懸命遠回しな表現してるなあ)。
 だもんで、第一巻の1ページ目から、学ラン姿の二人が向かいあって、「なんだよ話って」「君の事が好きなんだ」で始まってるのを見た途端、正直な話、私は本を投げ捨てたくなった(^_^;)。

 だから私、ダメなんだってば、ホ○は。
 その方々の権利を侵害する気はないが、やっぱり耳元に吐息をかけてくれるのは女に限るのよ。
 アンタこれで、男同士の濡れ場(死語)が随所で展開されてた日にはよ、多分、夢でもうなされることになってたと思うよ。
 でも、展開が違ってたねえ。
 次のシーンで、「ゲロしそうに気持ちわりーよ!! 早く死ね このホ○!!」だよ。
 そしていきなりシーンが切り替わる。
 「ぶーす!!」
 おそらくさっきとは別のどこかの中学校、制服を着ないで歩いている女生徒がいて、男子から、からかわれている。そして「ぶす」の声につい反応してしまった別の女生徒のモノローグ。
 「なんで中学校ってこんなにびくっとしちゃうんだろう」
 さらにまたシーンが飛んで。
 若い少年ボクサーに、ジムの会長が「やっぱり網膜剥離だったってよ」と告げる。
 「俺やめんのやだよう」と泣く少年。
 またまたシーン変わって、ここからが現在の話(今までのは全て回想シーンだったのである)。
 いかにも堅物そうな父親が、居間でテレビを見ている長男を追い出して、冷蔵庫からおもむろにケーキの箱を取り出す。
 そして、にんまりと笑い、その中からイチゴのショートケーキを、崩さないようにそおっとつまみ出すのだ。

 ……いったい、これらの全く連続していないように見えるシーンに、どのような意味が、繋がりがあるのか。
 ここで、私はこのマンガ家さんの「語り口」に見事にハメられたのだ。
 実際、「繋がり」はあったのである。
 うーん、その辺の紹介については今回はやめとこう。ミステリと同じで、「謎」が解かれる楽しみは未読の人のために取っておくものである。

 でも一つだけ書いとけば、これはもうただのホ○マンガではなかったのだ。
 冒頭に出てきたホ○、ただのホ○ではない。
 「魔性のホ○、恐ろしいホ○伝説のホ○、好みの男はオールゲッチュ、厨房は一瞬にして情事の舞台になるという」究極のホ○だったのである。
 あああ、こんなにホ○ホ○ホ○と書いてしまった(-_-;)。夢に出るぞ夢に出るぞ。
 でも、これは確かに、いい脚本家と演出家に当たれば、上質のシチュエーションコメディとして成立するだろう。
 キャラクターの一人一人の個性がこれだけ綺羅星のごとく輝いていながら、その個性にストーリーが引きずられてもいない。過去の謎が一つ解かれるたびに、また新たな謎も生まれる。現在の時間そのものはただゆったりと流れているだけなのに、ドラマは大きなうねりを見せていく。
 何という構成力の妙であろうか。
 気になることを一つだけ挙げると、絵柄が明智抄さんに似てる気がするんだけど、ただの偶然なのだろうか。それともアシストかなんかやってたのかなあ。

2001年01月23日(火) ハードな日/『時の果てのフェブラリー』(山本弘)


2002年01月22日(火) 探偵小説の終焉/渡辺啓助『亡霊の情熱』/『サトラレ』1巻(佐藤マコト)

 朝刊に探偵作家・渡辺啓助(わたなべけいすけ)死去の報。
 19日午前0時35分、死因は肺炎、享年101歳。
 ……誤記ではない。本当に101歳で死んだのである。
 そして、ついに、日本で最後の探偵作家が消えた。
 森下雨村、小酒井不木、江戸川乱歩、甲賀三郎、横溝正史、木々高太郎、浜尾四郎、夢野久作、小栗虫太郎、大下宇陀児、水谷準、城昌幸、海野十三、綺羅星のごとく輝いていた戦前の探偵作家のたちの最後の一人が、まさしく天寿をまっとうしてこの世を去ったのだ。
 この高齢にもかかわらず、渡辺啓助は、決して忘れられた作家ではなかった。 時折、新作の短編、エッセイすら発表していたのである。
 100歳を迎えた昨年、『ネメクモア』という短編集が編まれ、新装版『創元推理21』はその創刊号を渡辺啓助・温の兄弟作家の特集に充てた。
 探偵小説ファンはみな思っていたのだ。
 ロマンの時代はまだ終わっていない。
 明治は、大正は、昭和初期のモダニズムは消えてはいない。
 まだ、われわれには渡辺啓助がいる。
 上記の作家たちの作品群をむさぼるように読んでいた中学・高校生時代を送ってきた私にとっても、渡辺啓助の存在は、まさしく「希望」であったのだ。

 追悼の意味を込めて、前記の『創元推理21』に再録された渡辺氏の『亡霊の情熱』の筋を紹介する。

 野瀬は女学校の新任教師。
 美少女、門馬ユリの相談に乗るうちに、教師と生徒の壁を越えて、お互いに恋心を抱くようになった。
 しかし、あくまで自分の立場に固執する野瀬は、その態度をなかなか決めかねていた。門馬もまた、自分の本心を野瀬に打ち明けられずに人知れず悩む。

 そこへ、門馬に恋する年下の少年、氷室が現れた。
 門馬は、ついに野瀬に自分の気持ちを告白し、氷室の誘いを断ると言う。
 動揺する野瀬。
 「僕は貴女の組主任ですから、貴女に代わって先方の少年に断ってやりましょう」
 しかし、それが恐ろしい悲劇の発端となろうとは、そのときの二人には知る由もなかった。

 氷室に会い、その情熱と真摯さに触れて、思わず知らずライバル心にとらわれてしまう野瀬。
 勢いで自分は門馬の婚約者だと告げてしまう。
 衝撃を受ける氷室。
 絶望の色が少年の顔を覆い、彼は通りがかった列車に身を投げた。

 やがて、野瀬と門馬は結婚する。
 初めは逡巡していた野瀬であったが、門馬の言葉が野瀬の決心を固めさせた。
 「嘘を吐いて、出鱈目を云って、あの人を自殺させたんですか、先生は――」
 野瀬は門馬の肩を掴んで言う。
 「僕は教師の臆病を捨てて結婚しよう。そうしてあの少年の亡霊と潔く戦おう」

 しかし二人の結婚生活はうまくいかなかった。
 ほんの少しの野瀬の冷淡。
 それが門馬に言ってはならない言葉を吐かせた。
 「あんな犠牲――あんな酷い犠牲を払ったくせに」
 野瀬は自分たちが氷室の亡霊にとらわれていることを知った。

 ある夜、門馬は何かに憑かれたように、氷室が自殺した鉄道のそばに佇んでいた。
 必死に取りすがる野瀬。
 振り切って飛びこもうとする門馬。
 列車が寸前に近づいてきた時、ほんの一瞬、野瀬の脳は混乱した。
 そして、野瀬は門馬を掴んでいた腕を放した……。 
  
 渡辺啓助の非凡さは、このときの野瀬の心理に、後悔も恐怖も一切なかったことを淡々と描写している点にある。
 恋する者同士、情熱的に結ばれた二人、そうであっても、その愛が永遠に間断なく続くものではない。
 ほんの一瞬、それこそ一刹那で通りすぎるごくわずかな時間、二人の間に底の見えない裂け目が生まれることがある。
 意識する間もないほどの時間であるので、多くの恋人たちにとって、そのような裂け目はなかったものとして忘れ去ることが出来るものである。
 しかし、まさしく悪魔のごときタイミングで、その一瞬が現実に二人の仲を引き裂いたとしたらどうだろう。われわれはそこで後悔に打ちひしがれるであろうか。
 ……いや、かえってわれわれは気づいてしまうのではないか。
 自分の情熱、愛情、嫉妬や憎悪、われわれの心そのものが我々を苦しめる元凶であることに。
 そして、それらから解放された瞬間こそが、われわれに真の自由と安心を与えてくれることに。
 渡辺啓助の目は、その一瞬を一も見逃していなかったのである。
  
 新聞記事には「1929(昭和4)年に雑誌『新青年』に『偽眼のマドンナ』を発表しデビュー」とあるが、補足説明が要るであろう。
 一つはこのデビュー作が、女優岡田茉莉子の父でやはり美男俳優として知られた岡田時彦の名義で書かれたこと(つまりゴーストライターだったわけね)、タイトルの読み方が「いれめのまどんな」であることだ。
 作品リストをあいうえお順で並べる時、間違えて「き」の項に入れちゃう人、多いんだよね。
 作家・故渡辺温は弟(もうすぐ創元で文庫全集が出る予定)、画家・渡辺東は娘。

 
 仕事が長引いて帰りが遅くなる。
 その旨、しげに連絡を入れるが、しげ、風邪が本格的に悪化してきたらしく、電話口でぜいぜい言っている。
 「……ごめん……げほげほ!……一人で……タクシーで……がほげへごほ!……帰ってきて……ぐへげひぶぺ!」
 なんか聞いてるだけでアワレになってくるな。
 あんまりかわいそうなので、せめてほか弁でも買っていってやろうかと、近所の「ほっかほっか亭」に寄ってみるが、こういう時に限って「改装中につき閉店」である。
 お約束な展開だなあ。
 仕方なく、コンビニ弁当をいくつか買って、それですますことにする。
 しげはコンビニのよりほか弁の方が圧倒的に好きなのだが、この場合、諦めてもらうしかない。
 私も家事をする元気はないので、夕食は「Coco一番屋」でカレーを食ってすます。
 そこで読んだスポーツ新聞で、映画監督倉田準二氏の訃報を知り、茫然。なんでこう、連続して好きな人が死ぬのだ。

 倉田準二(くらた・じゅんじ)21日午後7時15分、肺炎のため死去、72歳。
 先日CSで見た、人によっては時代劇の最高傑作とまで評する『十兵衛暗殺剣』はこの人の監督。
 けれど私たちの世代が一番親しんでいたのは、なんといってもテレビシリーズ『仮面の忍者赤影』であろう。……ちゃんとDVD買ってるよう。
 敵忍者の奇抜な設定や、破天荒なストーリー、独特の映像センスなど、様々な魅力が語られているが、私はなんといっても役者さんたちの演技を見るのが大好きだった。
 まだ映画が本編と呼ばれ、テレビシリーズに出る役者は軽蔑されていた時代、それでも新人や大部屋の役者さんたちが手を抜かずにエンタテインメントに徹して演じていた忍者たち。
 ……甲賀幻妖斎の天津敏さんも、暗闇鬼堂の原健策さん(松原千明の父ちゃんと言ったほうが今は通りがいいか)も、魔風雷丸の汐路章さんも、雲間犬彦・猿彦の二見忠男さんも、もう鬼籍に入ってしまった。
 もちろん、白影の牧冬吉さんも。
 有名スターの死に涙する人は多かろう。
 けれど、脇役一筋の人たちの死に対して、世間はどうしてこうも冷淡なのか。
 よく知らない、というだけならまだマシで、ないがしろにし、蔑みの目で見ている人間がどれだけ多いことか。
 牧冬吉の出演映画はたった12本である。
 倉田準二の監督作品もわずか12本。
 あれだけテレビでたくさんの時代劇を撮ってきた人が、映画の監督としては「つなぎ」にしか使われなかった。日本映画衰退の原因はそんなところにもあったんじゃなかろうか。

 それにしても新聞記事に「東映京都撮影所に所属し、『十兵衛暗殺剣』『飛び出す冒険映画』『恐竜・怪鳥の伝説』などの映画を監督」とあったが、『飛び出す冒険映画』ってサブタイトルだけじゃん。肝心のメインタイトル『赤影』が抜けてるぞ。配信元のミスがそのまま各紙に載っちゃったんだろうけど、誰も気づかないんだろうなあ、こういうミスは。
 淋しいなあ。


 マンガ、佐藤マコト『サトラレ』1巻(講談社・530円)。
 出来のよくない映画版を見ていると、絵が必ずしもうまいとは言えない原作マンガがえらく傑作に見える。
 ……と比較して誉めちゃかえって失礼だね。
 設定に難はあるものの、これは立派な佳作である。
 やはり「思念波が他人に漏れてしまう」という「サトラレ」のアイデアを考えついたことが何よりもスバラシイことだ。
 何しろ「サトラレ」は究極の正直者なんだから、必然的に周囲は「悪人」たることを運命付けられているようなものである。自分が「悪人」であることを押しつけられて落ちついていられる人間などいるわけはない。そこにドラマを作り出す余地はいくらでも生れてくる。
 ……美味しい設定だよなあ。
 もっとも作者は1話ごとに途端の苦しみを味わってるみたいだけれども。
 様々な環境で、たくさんの「サトラレ」たちが自分が「サトラレ」であることを気づかされずに活躍している。
 映画がほぼ一人のサトラレのみをフィーチャーしてドラマを作って行ったのは、2時間の映画として完結性を持たせるためにはごく自然なことだったろう。けれど、ドラマ的には多種多様なサトラレがどのように生きているのかを1話完結式で描いていく原作マンガの形式の方が、圧倒的におもしろい。
 映画のベースになった、西山幸夫・里見健一のエピソード以外にも、サトラレゆえに子供たちの間で孤立していく少年・野口浩くんや、思考を読まれながらも棋士の道を進もうとする少女・片桐りんの話を映像で見たかった読者も多かったのではないか。
 難しいかもしれないけれど、映画の続編を見たくなっちゃったぞ。
 監督、モトヒロから別のやつに変えて。

2001年01月22日(月) 月曜の朝は仕事に行きたくないのよ/『キノの旅3』(時雨沢恵一)



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