地上懐想
INDEXbefore


2002年06月01日(土) 祈りを探しつづけた日々



私は洗礼を受ける前の、カトリック要理を学んでいた頃から、修道院という場所にとてもとても惹かれていた。
最初は単に興味深くて。
なにしろ、それまで修道院とかシスターとかブラザーというのは、外国の映画や小説の中に登場するものにすぎず、自分の行動範囲内ではまったく接点のない遠い存在だったから。

それが思いがけずカトリック教会に通うようになって、にわかに身近な存在となった。


そうして出会った修道院というところは、私にとってどこもとても居心地のいい場所だった。
簡素で、余計な物がごちゃごちゃと置いてなくて、掃除がていねいに行き届いていて、静かさに充ちていた。


「黙想会」というものが修道院でよく行われることを知って、出かけていくようになったのも、黙想会と共に(もっと)修道院に惹かれていたからだった。


また、修道院の中には個人的に黙想をするために宿泊できるところもあると知って、機会を見つけてはいくつかの修道院に泊まりに行った。


そうして黙想会や修道院へ行くと、終わりに「よく祈れましたか」と聞かれることがあった。
この質問は、当時の私には不意をつかれるようなものだった。
黙想会も修道院も、私は祈りに行くというよりも、興味の赴くままに出かけて行っていたので。


「よく祈る」とはどういうことなのか?
洗礼を受けたあとも、そのことが折りにふれ気になっていた。


主の祈りを何十回も唱えたらよく祈ったことになるのか。
(心をこめて祈れば、たぶんよく祈ったことになると思うけれど、根気のない私にはできそうになかった)


何十回どころか、『無名の順礼者』という本に出てくるように、「主よ、憐れみたまえ」という言葉を一日に何千回も唱えることがよく祈るということなのか。
(この祈りは好きだけれど、何千回というのが私には無理だと目にみえていた)


最初に通ったプロテスタントの或る教会でのように、礼拝の祈祷の5分ほどの間、口から絶えまなく言葉が出てくる状態、それがよく祈るということなのか。
(きっとよく祈ることだと思うけれど、私は自分の言葉で祈るというのが苦手なので、これもまた無理そうだった)


ヨガ行者のように、深い瞑想状態に入ることがよく祈るということなのか。
(黙想会の時などの、沈黙の時間にいったいどんなふうにしていたらいいのかということもよくわからずにいた。瞑想と黙想のちがいも。)


そんな時、あるシスターにそうした疑問について聞く機会があった。


そのシスターと「祈りとは」ということを話していくうちに、くわしい経緯は省くけれども、「日々の霊操」を共にしていただくことになった。


霊操というのは、聖イグナチオがまとめあげた霊的訓練の一連のメソッド(というふうに今の私は理解している)。
英語では spiritual exercise。まさに「霊的訓練」なのだが、人生の何か重大事を決めるときの有効な識別手段でもあるらしい。
基本的には1ヶ月をかけて泊まり込みで行われる。


「日々の霊操」は、泊まり込みではなく、日常生活の中で一定の時間をさいて、与えられたテキストにそって祈っていくというもの。
定期的に(私は2週間に1回ほど)「同行者」(私の場合はそのシスター)の指導を受けていく。まさにお稽古事のレッスンのように。


3年前の春から夏の終わりにかけてのことだし、その時に使ったテキストやノートなどを手元に置いていないので、あまりよく思い出せないのだけれど、「日々の霊操」については

http://www.seseragi.gr.jp/spirituality/spirituality_a.html

ここに詳しく載っていて、いま改めて読みかえしてみると、とても影響を受けていたことに気づく。(上記のサイトでは「生活の霊性」という言葉を使っている)


たとえば、祈りを始める前に、みことばを2〜3回くりかえして読むとか、前の晩に祈りの準備として当日の聖書の箇所をあらかじめ読んでおくとか。
(今は朝、祈ることができないのだけれども、寝る前に翌日の聖書の箇所を読むことだけは続けていて、すっかり習慣となってしまった)


祈りの時間ということでも、得がたい経験をした。
1日に15分すわって祈るというところから始めて、2週間後シスターと会った時に、それがどうであったかということを話し合い、次の2週間は20分、その次は30分・・という風にだんだん祈る時間を長くしていった。
スポーツか何かのトレーニングのような、そんな具体的な習得の方法が祈りにも適用できるというのがとても新鮮だった。
当時はフルタイムの仕事ではなかったので、最終的には毎朝50分くらい座っているようになった。
祈りは長ければいいというものではないけれども、祈りを深めるにはある程度の時間は必要である。
それに、祈りの時間がだんだんと甘美なものになっていったので、とにかく長く座っていたくてしょうがなくなったのであった。


しかしながら、結局のところ、私はどうも霊操には向いていなかったようである。
何といっても「祈りが終わったあと、ふりかえってどんなだったかをノートに書く」ということがうまくできなかった。


祈りをふりかえって書きとめる・・それはまるで、ひとつの曲を楽譜でなく言葉で書きとめるようなものではないだろうか。まったく別次元のものを結び合わせる、離れ技のような。


そして、何かテーマを与えられてそれについて祈る、ということもうまくできなかった。
祈るというよりも、レポートの内容を考えているような頭の状態になってしまうのだ。つまり、心よりも頭の方が活発になってしまう状態に。


「霊操って祈りなんですか?」と、時々シスターに聞かずにはいられなかった。


たぶん霊操というのは、合う人には合う、とても深みのある祈り方なのだろうと思う。
ただ、私は前の年の12月に高橋たか子さんの『霊的な出発』という本で念祷に出会っていて、その祈り方にたぶんとても惹かれていた。霊操は自分の求めている祈りと一見似ているけれども何かがちがうと感じていたのだろう。
けれども、自分の状態が念祷を始めるようにはできあがっていなかったように思う。
どうやって始めたらいいのかもわからなかったという気がする。


日々の霊操は、結果的にはテキストの途中で挫折したけれど、祈りの習慣をつけるということを学んだし、祈りとは何かということが多少なりともわかった。
たぶんこれが念祷の準備となっていったのだと、今ふりかえるとそう思える。


*ところで、念祷念祷と書いているけれども、どうもこの言葉には、その道の達人がするものというイメージがあって、私などとてもとても・・とおそれ多くてしかたない。
自分としては「沈黙の祈り」という言い方がいちばんしっくりきている。


2002.秋 記


c-polano |MAIL