砂漠の図書室
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2001年05月30日(水) |
祈りについて ・ 覚え書き |
「沈黙の祈り」をしていると、かならず雑念がやって来て、 意識がすっかりからめ取られてしまうこともしばしば。 そんな時はどうしたらよいか。
これまで、祈りについての本を読んだり、 どなたかのお話を聞いたりして、 自分にとって効果があるように思えてきた方法がこれ。
1. 祈りに誘う音楽を聴く
たとえば、テゼの Veni Sancte Spiritus を1回だけ聴く。 何回も聴くと、今度は音楽の方に意識と心が行ってしまうので。
2. 祈りに誘う言葉を読む
たとえば、最近ここでご紹介しているような、三位一体のエリザベットの言葉など。 これも1フレーズだけ読む。 長く読みすぎると、読書の喜びに浸ってしまうことになるので。 1つの文、1つの言い回しだけで十分なことさえある。
3. 沈黙を意識する
いま、自分を取り巻く沈黙を意識する。 この沈黙は与えられたもの。 たとえ自分で時間をつくって、自ら神のまえに身を置いたのだとしても、 人は与えられなければ、受けることはできない。 そのうち、外的な要因でこの沈黙を明け渡さねばならないかもしれない。 そのことを意識し、味わう。 一瞬一瞬を意識して、味わう。
それだけで、自分の中に満ち満ちてくる。 御言葉が。 あるいは沈黙そのものが。 あるいは・・・
4. 定型の祈りを唱える
たとえば、「天使祝詞」や「イエスの御名の祈り」など。 こうした定型の祈りというのは、エンジンやアクセルのような役割を果たす。 口に出して唱えなくても。
それでも、どうしても意識が集中しないようだったら、 思いきって「とりなしの祈り」、すなわち「誰か1人のために祈る」という祈りに切り替える。 「沈黙の祈り」を終えて「とりなしの祈り」をする時間になったのだ、ということを覚えつつ。
「とりなしの祈り」は、たとえば「天使祝詞」を10回(=1連)唱えて、 必要だったら2連くらい行なう。 1連でだいたい、意識は落ちついてくる。 この種の祈りでも雑念はやって来るけれども、 なにしろエンジンでありアクセルであるから、 強行突破することが可能。
以上、1〜4のどれを試すかはそのとき次第だったけれど、 最近は全部やっているので、 なんだかこれが私の祈りのフルコースとなっている。
ところで、三位一体のエリザベットの言葉に
「騒音は心の表面をよぎるだけで、 奥深くには主のみおいでになります」
というものがある。
この「騒音は心の表面をよぎるだけ」という状態、 近頃ロザリオの祈りに開眼して、この事が少しわかってきたような気がする。
あの感覚を「沈黙の祈り」でも再現できればいい・・・
2003.2.8 記
木々が裸になって、本来のフォルムの美しさに気づかされる季節となった。 この本はアニメーション化されたものを書店で見かけたことがあったけれど、原作をきちんと読むのはこれが初めて。 先日、友人のサイトで書評を見てからとても読みたくなって、図書館で借りてきたのだった。
物語は、主人公の「わたし」が、ある荒れた不毛の土地を訪れるところから始まる。 そこは「冬も夏も気候はきびしく、家々はきゅうくつそうに軒を接して、人びとはいがみあい、角つきあわせて暮らしていた。かれらの願いはただ一つ、なんとかしてその地をぬけだすことだった」。
そして、一人の羊飼いと出会う。 「三年まえからこの荒れ地に、かれは木を植えつづけているのだという」 「名をエルゼアール・ブフィエといって、かつては平地に農場を持って、家族といっしょに暮らしていた。ところがとつぜん、一人息子を失い、まもなく奥さんもあとを追った。そこで世間から身をひいて、まったくの孤独な世界にこもり、羊と犬とを伴侶にしながら、ゆっくり歩む人生にささやかな喜びを見いだした。でも、ただのんびりとすごすより、なにかためになる仕事をしたい。木のない土地は死んだも同然。せめてよき伴侶を持たせなければ、と思いたったのが、不毛の土地に生命の息吹をよみがえらせること」
翌日「わたし」はこの地を去り、やがて第一次世界大戦が始まって戦場に行く。 一方、羊飼いは世の中が戦争のさなかにあっても、この地でただ黙々と木を植えつづける。 二度の世界大戦が終わって、「わたし」が再びこの地を訪れて目にしたのは、広大な森と、とうとうと流れる小川、牧草の緑、だれもが住みたくなるような美しい村の風景だった・・・。
この本を読んで思い出した言葉がひとつ。 「世界が今日も滅びないのは、砂漠で一人の修道者が祈っているから」というもの。
木を植えるということと、砂漠で祈るということ、このふたつはよく似ていると思う。 どちらも世間から身をひいて、孤独のうちに、淡々と自分のすべきことをしつづける・・・。それは一見、あまりにも非力で、世界と何のかかわりも持たない思い込みだけの行為のように映る。 けれどもほんとうの目で見てみれば、きっとどちらも深い深いレベルで世界とかかわり、辛抱づよくはたらきかけ、変革していく行為。
木を植えるとは、言ってみれば、祈ることと言えるかもしれない。 祈りとは、木を植えることなのかもしれない−−目には見えない木を。
どちらも、荒れはてた世界にいのちの水をそそぎ、うるおしていく行為であり、 それは、人間がこの地上でなしえることの中で、もっとも美しいものであるにちがいない。 「行為」であるとともにひとつの「姿勢」でもある。 すなわち、「to do」でもあり、「to be」でもある。
木を植える人になりたいと思う。
私はこの世界に対して、直接的にできる事があまりにも少ない人間で、時々そのことに気落ちしてしまうけれども、そんな自分にも残されているつながり方がそこにあるようだから。
いつか、目に見えない祈りの樹が広大な森となって、世界中を覆いつくす・・・そんな光景を目の当たりにする日を私は夢見る。
木を植えた男 / ジャン・ジオノ作 ; フレデリック・バック画 ; 寺岡襄訳 あすなろ書房 1992.11
2002.5.10 記
2001年05月15日(火) |
R.G. ニコルの言葉 |
沈黙は、貧しい人のことばです。
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孤独というふるいにかけると、 ほんとうに必要なものだけが残る。
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少しのあいだ 立ち止まってください。
毎日、神のまなざしのもとに、 つつましく とどまって。
『いのちのきらめき』より R.G.ニコル文 女子パウロ会 1994年刊
2001年05月05日(土) |
三位一体のエリザベットの言葉 |
あなたの心の奥底に沈黙が深まり、 やがてはそれが 聖三位のうちに広がるしじまのこだまとなりますように。
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いつも祈ってください。
私が祈りと言うのは 義務のように唱える祈りのことではありません。
祈りは神に向かって心をあげること、 この飛翔そのものです。
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「あなたの力は沈黙のうちにこそある」(イザヤ 30-15)
主のためにその力を保つとは 内的沈黙によって自分のうちなるものを単一に保つことであり、 そのすべての能力をただ一つ、 愛の修行にのみ集中することです。
------------------------------------------------------------- 『いのちの泉へ』 三位一体のエリザベット 伊従信子編・訳 ドン・ボスコ社 1984.11
2001年05月02日(水) |
『いのちの泉へ』 三位一体のエリザベット |
いのちの泉へ / 三位一体のエリザベット[著] ; 伊従信子編訳 東京 : ドン・ボスコ社 , 1984.11
この小さな本は、1年以上にわたって私の「通勤の友」でした。 朝の通勤電車の中で、また駅のホームで電車を待っている間に、短い1パラグラフを読んでは、現実のあれこれを超えた、魂の慰めを得ていました。
初めて三位一体のエリザベットのことを知ったのは、やはり高橋たか子さんの本によってでした。 その後、カルメル会のある神父様から「あなたには三位一体のエリザベットの本が合うかもしれない」と言われて、いつか読んでみようと思いつつ、時がたっていきました。 キリスト教書店で、ときおりこの本を目にはしていても、いつもほかに優先して買いたい本があって、なかなか手にすることはありませんでした。
そうしたある日、とある祈りの集いで、この本にも載っている、エリザベットの次の言葉が朗読されました。
「私は地上に天国を見つけました。天国とは神のことで、神は私のうちに住んでおられます。このことを悟ってから、私にはすべてがはっきりしました。それで、私の愛する人々にこの秘密を知らせたいと思います。 すでに神とともにあるのですから、天国はこの地上ではじまっているのです」
天国はこの地上ではじまっている・・・その言葉が魂の底に、光のように射し込んできました。
その集いの会場でエリザベットの本を求めることができ、私は「今日がこの本を買う日だったのだ」と深く深く思い至ったものです。
2001年05月01日(火) |
***** ここからは、「祈り」「沈黙」「孤独」について ***** |
ここからは、「祈り」「沈黙」「孤独」について書かれてある本をご紹介したいと思います。 (前月の「プスティニア」「砂漠」についても、もっと書きたいことはあるのですが・・まあそちらもぼちぼちと(笑))
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