砂漠の図書室
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ブランク
今日、3月10日は矢沢宰君が天に召された日。 彼の絶筆となった詩をここに・・
『小道がみえる・・・・・・』
小道がみえる 白い橋もみえる みんな 思い出の風景だ 然し私がいない 私は何処へ行ったのだ? そして私の愛は
------------------------------------------------ 矢沢宰君について -- 『光る砂漠』の解説から
「矢沢宰君が十四歳の十月から詩を書きはじめて、二十一歳の三月十日の未明に、たとえようもなく清らかに強烈に燃えたその生命が最後の息を引きとるまでの七年間に書いた詩は、ゆうに五百編をこえている。
この若さで、これだけの質の高まりをみせた詩を五百編も書き残して死んでいった例は、おそらくこれまでになかった」
「ここに収めた五十四編の詩の半数以上が、矢沢宰十六歳の詩作である。 十七歳、矢沢は、ふつうより三年おくれて、病院附設の養護中学校へ通うところまで奇跡的に健康をもち直す」
「十八歳で、三年間のところを特別進級で二年間で養護中学校を卒えて、県立栃尾高校を受験、合格、五年間の病床生活に別れをつげて、自宅から通学するようになる」
「二十一歳の三月一日、心配された腎結核の再発で、少年時代を送った、もとの三条結核病院に再入院という最悪の結末を迎える」
「人間という動物は恐ろしい動物である、ということが現実になりかけているとき、彼の詩は、その詩の独特な『うつくしさ』(透明さ)『かなしさ』を通して『なつかしい』存在であることを教えてくれる」
矢沢宰 詩集『光る砂漠』 周郷博 編 ; 薗部澄 写真 童心社 1969.12 初版
2003.3.10 記
矢沢宰君・・・などと、ほんとうは君づけで呼んだりしてはいけないのだろう。 私よりもずっとずっと年上の方(1946年生まれ)であるし、 それよりまず、一面識もない方なのだから。
けれども「矢沢宰君」という言い方が、いまの私にはいちばんしっくりする。 なぜなら、彼は21歳の若さで亡くなってしまったから。 高校生のときに彼の詩と出会って、 いつしか彼の亡くなった歳を追い越して、 今はもう永遠に、ひとまわり以上も年下の青年になってしまったから。
『光る砂漠』という彼の詩集は、 たぶん、生まれて初めて書店に注文をして取り寄せてもらった本だと思う。 けれど、どうしてその詩集を買おうと思ったのかは覚えていない。 どこで出会ったのだろう。 彼のあの、うつくしい世界と。
たとえば、こんな詩が好きだった。
------------------------------------------------ 「再会」
誰もいない 校庭をめぐって 松の下にきたら 秋がひっそりと立っていた
私は黙って手をのばし 秋も黙って手をのばし まばたきもせずに見つめ合った
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先日、数年ぶりにこの詩集を手にとった。 あの頃好きだった詩は、今も好きだということに気づいた。
なぜ今も好きなのかを考えてみる。
彼のことばの使いかたに私がとても影響を受けたから・・? もともと私の中にあった世界が、彼の詩と出会うことによって 引き出されてきたから・・? 同じものに対して、同じようにひかれる心を 生まれる前から持っていたから・・?
そのどれかであるような気もするし、 そのすべてであるようにも思える。
今日、この本を再読するまですっかり忘れていたことだけれど、 矢沢宰君についての紹介文に 「中原中也、八木重吉の詩の影響をもっとも受けた」 とある。 この二人は、私にとってもすごく大切な存在だった。 きっとこの解説の一文から興味をもって、これらの詩人の作品を読んでみたのだと思う。
今日まで忘れていたことをもうひとつ。 矢沢宰君の詩には時々、「かみさま」という言葉が登場していた。 「僕から」という詩には、「イエス様」という言葉もある。
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「僕から」
僕から イエス様を とり去れば 僕は灰になる 僕から 詩を とり去れば 僕は灰になる
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解説にはどこにも、彼がキリスト者であったとは書かれていない。 でもこの詩を読めば、一目瞭然。
小学生の頃、私は毎日曜日に教会に通う生活をしていた。 けれども矢沢宰君と出会った頃は、すっかり無神論者になっていた。 だからこの詩にも、また、ほかの詩にある「かみさま」という言葉に対しても、 当時は何も感じていなかったと思う。 少なくとも意識の上では。
でも、彼を通してふたたび出会っていたのだ。 神から遠く離れて、 「いい大学」へ入ることだけを圧倒的に求められた高校生活の 閉塞した日々のさなかでも。
今日、初めてそのことがわかった。
人が一生かかわっていくテーマには二十歳までに出会っている、 という言葉を聞いたことがある。
「かみさま」 「光」 「砂漠」
どの言葉も、30代に入ってから ひとつひとつ私の中でたいせつなテーマとなっていった。 すべて、すべて、 10代の頃に出会っていたのだった。
2003.3.9 記
2001年04月22日(日) |
「砂漠の夕べの祈り」 長田弘 |
空が透きとおってきた。 風が凪いで、遠くから 日の光が透きとおってきた。 砂の色が透きとおってきた。 ひとの影が透きとおってきた。 悲しみが透きとおってきた。 何もかもが透きとおってきた。
昨日も明日もなかった。 まぶしい今しかなかった。 もうすぐ砂漠の一日は終わるのだろう。
何も隠すことができないのだ。 どんな秘密もいらないのだ。 面白さがすべてだ。 砂漠では、何もかもが どこまでも透きとおってゆくだけだ。 世界とは、ひとがそこを横切ってゆく 透きとおったひろがりのことである。 ひとは結局、できることしかできない。 あなたはじぶんにできることをした。 あなたは祈った。
長田弘詩集 『死者の贈り物』みすず書房刊より
誰でも、神にたどりつくまでには砂漠を横ぎっていかねばならない。 砂漠を通過せずに神のところへ行くことはできない。 砂漠の只中で、ふいに砂漠を越え出て、神に出会う。 砂漠とは、まさに、神に出会う場所なのである。
『霊的な出発』高橋たか子著 女子パウロ会 1985.1
・一般的には「プスティニク」(プスティニアに住む人々)とは人里離れたところに住む人々を指しています。
・プスティニクは自分の罪、この世界の罪のために主なる神に祈ろうとして、荒れ野に入るよう神のはっきりとした召命を受けた人々なのです。
・プスティニクは苦行とつぐないの人でもあります。
・プスティニクはどんな場合にも人の役に立とうとします。農夫が彼の力を借りたいと思う時、例えば、雨の降り出す前に干し草をとりこみたいと望むような場合、プスティニクに頼めば彼はすべてのものをおいて農夫に喜んで力を貸すでしょう。
・普通、プスティニクの食糧は自給です。野菜をつくれる畑を持ち、流れで小魚を手に入れ、冬の寒さに対してはストーブ用の薪を切り出し、生活の糧は自らの手で得ようとします。
・ロシアでは、プスティニアには風を防ぐためのおおいがありますが、鍵やかんぬきなどはありません。
したがって、多くの人がやって来て、日中であれ、深夜であれ、戸をたたく人は少なくないのです。ここで、この人たちがプスティニアにいるのは彼ら自身のためではなく、全く他の人のためであるという事実を想い起こしていただきたいのです。
・プスティニクは、誰がいつ来ようとも、手もとにある食べ物を人と分かち合います。
・プスティニクの不可思議とも思える生活の次の面は親切、他に対する行為としての親切であって、それはいついかなる場合でも、手もとにあるものを人と分かち合うということであって、それは何よりもまず、神が彼らの手に与えられるものを人に分かつ親切です。みことばであれ、仕事であれ、彼ら自身であれ、食べ物であれ、人に分かつ親切なのです。
『いほりの霊性 <プスティニア>』より キャサリン・ド・ヒュイック・ドハーティ著 中央出版社, 1988
2001年04月09日(月) |
プスティニアと宮沢賢治 |
(前略)
慾ハナク 決シテイカラズ イツモシヅカニワラッテイル
(中略)
野原ノ松ノ林ノ蔭ノ 小サナ萱ブキノ小屋ニイテ
(中略)
ヒデリノトキハナミダヲナガシ サムサノナツハオロオロアルキ ミンナニデクノボートヨバレ ホメラレモセズ クニモサレズ サウイフモノニ ワタシハナリタイ
「雨ニモマケズ」より
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宮沢賢治の魅力はその作品世界とともに、この詩に象徴されるような彼の生き方にもある。
「小サナ萱ブキノ小屋ニイテ」 というのは、まるでプスティニアのようである。
そしてプスティニク(=プスティニアに住む人)のように賢治は花巻農学校の教員を辞めて、農民とともに生きるため独居自炊の生活に入った。 そして大きな評価を得ることもなく世を去った。
「この世にまたとないほどの愚者であれ」 とは、アシジの聖フランシスコの言葉だったか、 それともロシアの聖ワシーリィの言葉だったか・・・
今年の9月21日で賢治没後100年とのこと。
2003.7 記
2001年04月06日(金) |
『亡命者』 高橋 たか子 |
亡命者 / 高橋 たか子著 東京 : 講談社 , 1995
いま現在、私にとってとても大切な本。 これほど共感を覚え、作品世界を愛した本はここしばらくなかったように思います。
どこに共感したかということも逐一書きたいのはやまやまだけれど、書き尽くそうと思うとちょっとたいへんな作業になってしまうので、ここではまず「プスティニア」に関することを書こうと思います。
この小説には、プスティニアに住む人というのが出てきます。 まず、主人公。 そして、主人公をそのように導いたマリ・エステル、マルセルといった人々。
本のなかで、「プスティニア」という言葉はまずこんなふうに登場します。 主人公が住むパリの部屋の描写として。 以下、引用。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− この部屋は、プスチニアと呼ばれる。 たった一室。縦三メートル・幅二メートルほどの小部屋で、五階建ての建物の最上階にある。(中略) 入った正面の木床に、壁に立てかけて、イコンがあり、わきに赤いコップ・ローソクがある。たったいま戻ってきて、ローソクをつけ、私の坐っているのはそこである。 二メートルの幅ぎりぎりに、私は対座していることになる。もうすこし距離を置こうものなら、背中はドアにぶつかってしまう、そんな狭さである。(中略) 部屋の左端にベージュ色のカーテンが垂れていて、それを開くと、とうていキッチンなどとはいえない、五十センチほどの流し兼洗面所と、一台のガス・コンロとの場所がある。その上の壁面に、ここへ来た時に使いだした、かろうじて顔の中心部が映るだけの小ささの、鏡が貼りつけられている。 鏡なんて、いらないのです。 と、その頃、マリ・エステルは言ったのだった。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
高橋 たか子さんご自身、パリでこのような生活をなさっていたと、エッセイ集などに書かれています。 エルサレム会という観想修道会に、隠住者(エルミット)という立場で属したおりに、実際に会の方から参考にと、キャサリン・ド・ヒュイック・ドハーティの『プスティニア』という本を手渡されたと・・・
エルサレム会の隠住者は、自分の生活にかかる費用は自分で捻出するために、半日、外で働くことになっているそうです。 半日の労働で生活をまかなっていくので、部屋は当然質素なものになります。 質素どころか、それはもうたいへんな部屋のようです。計算してみたところ、月に1万円弱という部屋になるわけですから・・・しかし、逆にいえばパリならそういう部屋もまだあるということです。(建て替えサイクルの激しい東京にはそんな家賃の部屋はもう無いのでは・・・)
なぜその貧しさなのか。 ひとつには、労働は半日とし、残りの半日はその「プスティニア」で祈るためでしょう。 もうひとつには、存在のぎりぎりのところで生きるためでしょうか。 すなわち、砂漠で生きるように。余計なものを持たずに。
プスティニアとは、大都市の中の砂漠であり、世間の只中の修室であるといえましょう。
2001年04月05日(木) |
『霊的な出発』 高橋 たか子 |
『霊的な出発』 / 高橋 たか子著 東京:女子パウロ会 , 1985
プスティニアという言葉を初めて知ったのが、この本でした。 本書は小説家の高橋 たか子さんが、パリで観想修道者に近い生活を始められてから書かれたエッセイ集です。 この中に「プスチニア」と題されたエッセイがあったのです。
私がつたない説明をするより、本文を読んでいただいた方がずっとわかりやすいので、以下に引用します。
[昔のロシアにあったプスティニアについて]
「誰かがふいにプスチニアに入るべき、神からの呼びかけを聞く。と、その人はすべてを捨てて、森のなかに丸太の小屋をたて、そこに入る。(中略)神の無限なる沈黙のうちに、神と一対一でいたいという燃える思いにとらえられた人なのだ。そういう意味で、砂漠であり、また、そこにおいて自分自身を全裸にし無にするという意味で、砂漠である。イコンと聖書があるだけの小屋に、パンと水だけをもって入るという意味でも、砂漠である。」
[カナダに作られたプスティニアについて]
「著者であるカトリーヌ・ド・ユエック・ドエール(原文のまま)は、昔のロシアにあったプスチニアなるものを、彼女がカナダで使徒職的に働いている「マドンナ・ハウス」において、同じ形で(森のなかの小屋によって)実現しようと試み、意外にも、そういうものに渇いていた現代の人々を惹きつけて、「プスチニアに入る」ことを欲する人々がどっと押しよせてきたことから、さらに次には、プスチニアをきわめて内面化した形で、現代大都市の只中に実現しようとする。」
[心のなかのプスティニアについて]
「現代のプスチニックは、心のなかに『プスチニア=砂漠』を持つ。(砂漠の意味は前述したとおり)。大都市の騒音の只中で、いつでも、何処ででも、「プスチニアに入る」ことができる。そして、外にも内にも雑多な音のみちみちている現代都会人にたいして、この内的沈黙のうちに神を聴く内的場所である『砂漠』をはこんでいく。自分がそこにおいてキリストと共にいるとともに、そのようにして、人々との出会いから出会いへと、自分のなかのキリストをはこんでいく。(中略) もはやプスチニアは地理的または物理的場所ではない。内面化された或る場所なのである。そしてそれは、誰もが持つことができる。プスチニックに、誰もがなることができる」
以上がプスティニアについて紹介された文章ですが、高橋たか子さんのいくつかの小説には、プスティニアに住む人(=プスチニック)が登場します。
2001年04月04日(水) |
『いほりの霊性<プスティニア>』 2 |
『いほりの霊性<プスティニア>』2
この本の内容をくわしく紹介しようとしたら、それこそこの本と同じくらいのページ数になってしまいそうです。
そこで、ざっと概要をご紹介させていただくと、この本にはこんなことが書かれています。
・ロシアでの伝統的なプスティニアがどんなものであったかということ。
・著者が新大陸で作ったプスティニア(「マドンナ・ハウス」と命名)がどんなものであるかということ。
・森の中のプスティニアに行かなくとも、心の中に「プスティニア」を持つことによって、都市の中でもプスティニクとして生きることができる、ということ。
*「プスティニク」とは、プスティニアの生活に「呼ばれた」人のことをいいます。
私は本を読んでいて、心にひびいた箇所などによく付箋を貼っていくのですが、この本は付箋が貼りつくされて(!)います。 そうしたところを引用してみる方法もあると思うのですが、その前に、この本のことを知るきっかけについて書いてみたいと思います。
『霊的な出発』へつづく。
<著者を紹介しているサイト> http://www.catherinedoherty.org/
<「マドンナ・ハウス」の公式サイト> http://www.madonnahouse.org/
2001年04月03日(火) |
『いほりの霊性<プスティニア>』 1 |
『いほりの霊性 <プスティニア> : 現代人のためのキリスト教の霊性』 キャサリン・ド・ヒュイック・ドハーティ 著 ; “心のいほり” メリノールプレイヤーセンター 訳 東京 : 中央出版社 , 1988
「プスティニア」について書かれた本の邦訳です。
著者のキャサリン・ド・ヒュイック・ドハーティは、ロシアからカナダへ亡命した女性です。
ロシアで男爵夫人だった彼女は、亡命によって無一文となり、慣れない土地で家政婦、ウェイトレス、女店員といろいろな職を経たのち、 ある講演事務局に職を得ます。
それによってようやく豊かな生活に恵まれたのですが、「はたして神は自分に豊かな生活をさせるために、ロシアでの死の恐怖からお救いになったのか?」と疑念をいだきます。思い悩んだすえに彼女は、子供の養育に必要なものを残した以外はすべて財産を売り払って、トロントの貧民街に移り住み、地域の人々に仕える生活を始めます。
ある日、かつてロシアにあった「プスティニア」を新大陸に作るという導きを得ます。そうして、それまでの活動で知り合った人々と共に、「北アメリカに何軒かの丸太小屋を建て、静かな森の中で、こうしたプスティニアと呼ばれる観想を実践する場とすることにしました」。
そのプスティニアの写真が何枚か、本書に掲載されています。 森の中の簡素な丸太小屋で、聖堂となる建物のほかに、個々人が住む小屋が何軒かあるようです。
日本にも以前はあったようです。ただし、森の中ではなく東京の中に・・・ 本書を訳したメリノール宣教会「心のいほり」プレイヤーセンターで、プスティニアの祈りの体験ができたようで、まえがきと奥付けにそこの連絡先が載っています。案内文を読むと、数日間の黙想プログラムとしてプスティニアが体験できたのでしょう。 ただし、指導司祭であったヘイシュベック神父様が亡くなられてから、ここは閉鎖されたようです。 (掲載されている電話番号に以前かけてみたところ、まったく関係のない会社の番号となっていました)
『いほりの霊性<プスティニア>』2につづく
2001年04月02日(月) |
***** ここから「プスティニア」と「砂漠」について書いていきます ***** |
自分でページを用意できればいいのですが、わたしにはまだちょっと難しいので、レンタル日記帳を利用しています。 INDEXのあるのが便利ですし。 ちなみにINDEXの日付と、実際に書いた日付は異なっております。
“2001年4月”の項では、「プスティニア」と「砂漠」について書いていきます
ようこそ、「砂漠の図書室」へ。
ここには、影響を受けた本やことばを集めました。 これらが あなたの砂漠の旅の 心の同伴者となればこのうえない喜びです。
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