心の家路 たったひとつの冴えないやりかた

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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
もくじ過去へ未来へ


2013年10月31日(木) 依存と乱用の分離と統合

「心の家路」のサイトも解説から十数年経ち、掲載してある情報も古くなってきました。他の分野に比べれば緩やかなものですが、アディクションの世界にも進歩や変化があります。常に学び、新しいものを取り入れていく必要があるのでしょう。

「家路」をリニューアルするために集めた情報は、こちらの雑記でざっくり紹介していこうと思っています。今回もそんな情報の一つです。

この雑記では「アルコホリズム」という言葉を使っています。この病気を示す言葉として alcoholism が最も一般的な言葉でしょうが、日本でカタカナの「アルコホリズム」という言葉を使っているのはおそらくAAだけです。

スウェーデンの医師マグヌス・フスが Alcoholismus Chronicus (慢性アルコーリスム)という本を書いて発表したのが1849年のことでした。これがアルコホリズムという言葉の起源だそうです。ただ、フスが記録したのはアルコールによる身体の合併症であって、今の依存症の概念とは違っていたようです。また、アルコホリズムという言葉は(少なくとも英語圏では)すぐに広まらず、dispomania や inebriety という言葉が使われ続けました。

アルコホリズムという言葉が広く使われ出すのは1930年代以降、つまりAAの誕生以降です。それまで単なる悪癖と思われていたアルコホリズムを疾患として医学に認めさせたのは、多くの研究者の努力によるものですが、その背景にAAが大量の回復者を生み出したからこそでもあります。

APA(アメリカ精神医学会)では、DSM(精神障害の診断と統計の手引き)という診断基準を定めていますが、1952年のDSM-Iにはアルコホリズムというカテゴリが含まれています。WHO(世界保健機構)のICDでは、1967年発表のICD-8にアルコホリズムが加えられました。ただし、どちらもパーソナリティ障害のサブカテゴリになっています。

その後、DSMもICDも改版されていき、現在使われている版にはアルコホリズムという項目はありません。なぜアルコホリズムが消えてしまったのか?

そもそも診断基準とは何でしょう。いったいそれは何が目的なのか?

精神疾患は(一部を除けば)原因やメカニズムがよく分かっていません。仕組みがよく分からなくても誰かが何とかしなくちゃならない分野はいろいろあります(気象予報とか農学とか)。精神医学もそのひとつなのでしょう。おかげで、病気の仕組みについて様々な概念や仮説が提唱され、それぞれに信奉者が生まれます。放っておくと、それぞれに診断システムが作られ、病気であるかないか、病気だとすればどの病気か、病状は改善しているのか悪化しているのか・・・バラバラの基準ができてしまいます。

そうなると、保険金の負担や支払いが不公平になったり、ある治療法と別の治療法のどちらが優れているか比較ができなくなったり、いろいろ困ったことになります。そこで、「症状を頼りに」精神疾患を診断し、分類する統一基準が作られてきたわけです。

そして、新しい知見が加わると、それにあわせて診断基準も改版されていく・・・診断基準とは常に変更され続けるものなのです。

さて、1950年代にWHOの専門家委員会で、「嗜癖(addiction)と習慣(habituation)をどう区別するか」という議論が行われました。それまで区別なく使われていたこの二つを、委員会はこう定義しました。すわなち・・・

「嗜癖」とは、ヘロインのように連用すれば「誰もが」ハマってしまい、強迫的欲求が生まれ、耐性が生じ、離脱症状があり、個人の生活にも社会全体にも重大な影響があるもの。

「習慣」とは、ニコチン(タバコ)のように、強迫的欲求や離脱症状がなく、その薬理作用を好ましいと思った一部の人だけが進んで摂取するもので、影響があったとしても個人的なものに限られるもの。

嗜癖と習慣の違いは、薬物の違いによるものであるから、嗜癖を生じる薬物は国際的に規制すべきだとしました。ところが、この区別はあまりうまくいきませんでした。理由の一つは、次々に新しい薬物が登場してきて、それを分類する手間が必要だったこと。もうひとつは、アルコールのように両者の中間タイプが存在して、厳密な区分けが難しくなったことです。

(アルコールには一部の人たちしかハマらないけれど、ハマった結果は「嗜癖」です)。

結局10年以上議論を続けた挙げ句、1964年に「これからは嗜癖や習慣という言葉を使うのは避け、区別せずに依存(dependence)と呼ぶのが良い」という声明を出して幕を引きました。これ以降、アディクションという言葉は、医学的には好んで使われなくなりました。

嗜癖(アディクション)と嗜癖でないもの、という区別に意味があるとすれば、依存という概念はその両者を包括していると考えられます。

アルコホリズムに話を戻すと、WHOのコンサルタントも勤めたE・M・ジェリネックは1960年に Disease Concept of Alcoholism という本を出版しますが、この中で彼はアルコホリズムを5種類に分類しました(α型〜ε型)。彼はこのうちのγ型とδ型の二つだけが嗜癖と呼べるとしました。

つまりジェリネックの分類によれば、アルコホリズムには嗜癖と嗜癖でないものの両方が含まれていることになります。

(ちなみに、ジェリネックはアルコホリズムの研究に生涯を捧げた人で、最後はスタンフォード大学の自分の机で絶命しているのが発見されたのだそうです)。

1970年代になると依存の研究が進み、依存の本質は強迫的欲求や耐性や離脱症状だと考えられるようになりました。これは嗜癖の概念とよく似ています。すると、それまでの診断基準(DSM-IIやICD-8)にあったアルコホリズムには、依存と依存でないもの両方が含まれる曖昧さが生じます。

そこで、1977年に発表されたICD-9、1980年のDSM-IIIでは、それまでのアルコホリズムが「アルコール依存」と「アルコール乱用」の二つに分割されました。(ICDでは乱用は「有害な使用」)。

(それまで日本では alcoholism を(慢性)アルコール中毒と訳し診断名にも使われていましたが、これを境に徐々にアルコール依存へと置き換えられていきました)。

これによってアルコホリズムには、「依存」と「依存ではない乱用(abuse)」の二つが含まれ、それを区別することが明確になりました。乱用は、依存の前段階(いずれ依存に発展する)かもしれないし、依存とは関係ない乱用もあり得るのかも知れず、そこら辺ははっきりしないのですが、「依存でないものも含めてアルコール問題全体を扱う」という意志は明確です。

依存症のことを知らない人たちは、大酒を飲んでいる人がいてもそれを病気だとは思わず、単なる悪癖だと信じています。知識がないからこその偏見です。

ところが、同じ人が依存症の知識を多少得ると、今度は大酒を飲んでいれば何でもかんでも「アルコール依存症」だと思ってしまいます。「依存ではない乱用」があり、それはひょっとしたらアディクションではないかもしれず、アディクションのケアが合わないという可能性を考えることが必要でしょう。

さて、AAはAA独自のアルコホリズムの疾病概念を持っています。それはDSMともICDとも違うものです。ビッグブックの「医師の意見」から第3章までを読むと、AAが「本物の」アルコホーリクと呼んで対象としているものは、DSMやICDのアルコール依存(症候群)に近いことが分かります。しかし、完全に一致しているわけではありません。

その一方で、AAはアルコールに問題を抱えた人なら誰にでも門戸を開いています。「依存ではない乱用」の人たちは、AAのメインターゲットではないけれど「いらっしゃりたければどうぞ」ということでしょう。

今年(2013年)に発表されたDSM-5では、アルコール依存と乱用が再び統合され「アルコール使用障害」という一つのカテゴリになりました。この中で一定数項目を満たすものを依存、それに満たないものを乱用と区分けしています。

これは些細な変更のように見えますが、「依存ではない乱用」があるという考え方から、両者を統合して扱う方向へ舵を切っています。おまけに今回は、物質関連だけでなくギャンブルもこのジャンルに含めています。

1964年のWHOの依存の概念は、嗜癖であるかどうかを問うていません。WHOが「アルコール関連問題」と呼ぶものには依存も乱用も含まれます。そもそもアルコホリズムという言葉は、主にアルコールの嗜癖を指しているものの、依存や嗜癖でないものも含んでいます。このように、問題全体を包括して扱おうとする動きがあります。

その逆に、嗜癖と習慣を分けたり、依存と乱用を分けたり、あるいは「本物の」アルコホーリクと大酒飲みを分けたり・・と、間に線引きをしようとする動きがあります。

これまでの動きを見ると、この二つの動きが押し合ってバランスを取り、時計の振り子が振れるように右へ左へと動いてきました。DSM-5を見る限り、今は包括概念のほうへと振り子が傾いているようです。ICD-11への改版作業は2015年まで続けられるそうですが、おそらくDSM-5から大きな影響を受けるでしょう。

これからは依存と乱用の区別が曖昧になり、物質依存(アルコールを含む薬物)とプロセス依存(ギャンブル)を統合して扱う時代に入る・・・というのが一つの予想です。


2013年10月22日(火) 自分は神ではない

ミネソタ多面的人格検査(MMPI)というのがあります。今はどれぐらい使われているのか知りませんが、僕が入院していた頃は、心理検査として使われることが多かったように思います。ただ、これは400個近い(フルセットだと550個の)質問に答えなくてはならないので、対象は限られていたかもしれません。

質問項目は「山林警備をする仕事をしてみたい」、「ときどきたまらなく家出したくなる」、「愛に失望している」、「出世するためなら誰でもウソをつくと思う」みたいな、ありがち?な質問から、「私の魂はときどき身体から抜け出している」とか、「ときどき悪霊に取り憑かれている」みたいな怪しい雰囲気の質問まで様々です。

その中に「私は神の使者である」とか「私は神である」という質問が数問混じっています。僕は検査する側ではなく、される側だったので、MMPIの詳しいことは知りませんが、MMPI経験者の共通の話題は「神関係の質問に全部<はい>と答えたらどんな結果になるんだろう?」というものでした。

自分のことを神だと思っている人は、かなり困ったちゃんです。ただ、アルコホーリクは、よく自分を神だと思っている困ったちゃんであるわけです。

赤ん坊は自分の欲求を自分で満たすことができません。そこでむずがったり、大声で泣きます。すると母親やその他の人がやってきて、ミルクをあげたり、おしめを替えたり、あやしたり、暑さ寒さを調整してあげたりして、赤ん坊のすべての必要を満たしてあげます。誰もが赤ん坊時代を経験しているにもかかわらず、その頃にどう感じていたか記憶している人はいません。だから、赤ん坊の心の中は想像するしかありませんが、自分の欲求を他者に満たしてもらうことが、赤ん坊にとって最大の関心事である事は疑いありません。

やがて成長するにつれ、自分で自分の欲求や必要を満たすように求められます。さらには、簡単には満たせない欲求があることや、どうやっても満たせないものもあること、他の人も自分と同じ欲求を抱えていて、調和して生きていく必要があることなどを次第に学んでいきます。それが成長であり、成熟です。ごく僅かですが、赤ん坊のような状態で生きざるをえない人たちがいて、重度の障害者施設に行けば世話を受けながら暮らしている彼らに会うことができます。彼らが幸せである事を願うばかりです。

他者は自分の欲求を満たすために存在していると考えるのは幼児的です。自分を不快や不愉快にさせる相手を悪だと考えるのも同様です。周りの人が自分の思い通りに動いてくれれば、自分が幸せになれると考えるのは、神の役を演じる生き方であり、自分は神だと考えていることなのです。

アルコホーリクには、幼児的に自分は神だと考えている人が多いわけです。それはひょっとしたら、ミルク代わりに酒ばっかり飲んできたからかも知れません。「周りの人を思い通りに動かしたがる」という表現を使うと、まるで酒を飲んで暴れるDV男のように、暴力や暴言や威圧的な態度で人に何かを強制するやり方を想定してしまうかもしれませんが、そればかりではないのです。

人間には様々な欲求があります。例えば、「人に良く思われたい(悪く思われたくない)」、他者から良い評価を得たいという欲求は誰にでもあります。Joe and Charlieの本能の表ではこれは共存本能の中の pride(プライド)という項目になっています。(一般的にプライドがどういう意味かではなく、彼らが承認欲求に対してプライドという名を与えたに過ぎません)。

例えば、相手に何かをプレゼントしたり、親切にするとき、あるいは忍耐強く、愛想良く接しているとき、「相手が幸せであるために」やっているのではなく、「そうしなかったら自分が悪く思われるから」という動機があるなら、それはこの欲に動かされているということでしょう。・・・これはきっとあなたにも経験があるでしょう。

人は欲を満たすために生きている。これは一つの真実であり、持っている欲を満たすのは悪いことではありません。この pride の欲があるからこそ、人間社会が円滑に動いている面もあります。承認の欲求は人間に欠かせません。

しかし、欲が強すぎるのも良くありません。今日は疲れているので早く帰って寝たいと思っている人が、「相手に悪く思われたくない」という理由で、相手の話につきあって帰宅が遅くなるのなら、それは暴走する承認欲求に振り回されていると言えます。そうして、その人は自分の必要を満たすことより、相手の欲求や必要を満たすことを優先してしまっています。度が過ぎれば辛い生き方にしかなりません。ずっと、その生き方を続けていれば、それが身に染みこんでしまい、「相手に悪く思われたくない」という動機からやっていることだとすら自覚できなくなるかも知れません。

共依存には4つのパターンがあると言いますが、服従のパターンはこうしてできあがるのです。支配的なパターンの人(人に何かを強制しようとする人)はエゴが強いとされます。では、服従のパターンの人はエゴが弱いのでしょうか? いや、そうではなく、支配的なパターンの人と同様に、強い欲望(強いエゴ)を持っているのです。

直接的に自分の欲求を他者に満たしてもらおうとするやり方に比べれば、他者の欲求を満たすことによって自分の欲求を満たそうとするのは、間接的で回りくどいやり方であるのですが、他者を利用して自分の欲望をかなえようとすることに変わりなく、どちらも同じようにエゴイスティックであると言えます。自己否認や自己評価の低さというパターンも同様です。

アルコホーリクだけでなく、ACや共依存の人たちも、同じように「他者は自分の欲求を満たすために存在している」という幼児的な生き方、自分を神と考える生き方に陥っているのです。アルコホーリクにも権勢的なタイプも入れば、追従的な人もいます。ACにも強迫的に自己実現しようとしている人もいれば、服従パターンの人もいます。

人は、支配タイプと服従タイプのどちらか一方ということはなく、たいてい両方の面を持っていて、場面ごとに使い分けています。外では服従的、家の中では支配的とか。AAの中では服従的な人が、ACのグループに行くと支配タイプに様変わりしたりして・・。家族のグループの中にも支配的な人はいっぱいいるし。限界まで我慢して爆発するタイプもいます。

服従タイプの人も、自らの強いエゴに支配され、神になっているのだ、という捉え方をすれば、生き方を変える突破口は見えてくるのじゃないでしょうか。

こうして見れば、12ステップというのは、人間に共通した問題(だけ)を扱っていることが見えてきます。だから僕は「○○向けの12ステップ」というバリエーションを作る必要は特に感じていないのです。

僕の考えでは、12ステップは必ずしも神を信じることを要求していません。ただ、自分が神でないということは認めなければならないし、神の役を演じる生き方は手放していかなければなりません。そうすれば、神という概念に対する拒否反応はなくなり、他者の持っている信仰にも寛容になれます。

12ステップが神という概念を使っていることがハードルを上げている、と考えている人もいるでしょうが、実際にステップに取り組む段になれば、そのことはなんら障害になりません。

ただ、どうしても神という概念を拒否する人たちもいます。でもなんと言うか、その人たちは宗教的概念を嫌っているのではなく、(それを口実に)自分が神の座に座り続けたいだけなんじゃないかという気がします。自分が生き方を変えるのではなく、周りの人が生き方を変えて自分の欲求をかなえてくれれば良いのだ、という考えなのではないかと。

その人たちでさえ、MMPIの「私は神である」という質問には「いいえ」と答えているのでしょうけど。


2013年10月15日(火) 12ステップの利点・欠点

「12ステップに欠点はないのか?」という質問を受けることがあります。自分のやっている手法の欠点を知ることはとても大切だと思います。

欠点の話をする前に、12ステップの優れた点にちょっと触れておきます。

12ステップの良いところは、手順が明確であることです。12ステップの手順は、AAのビッグブックという本に「正確に、詳しく、はっきりと」説明されています。だから、ビッグブックという手順書に従って行えば良いわけです。

ビッグブックは料理のレシピ本に例えられます。レシピに書かれたとおりの材料を集めて、手順通りに調理すれば、本に載っているのとだいたい同じ料理ができあがります。違った手順を踏めば、違ったものができあがります。例えば、沸騰したお湯で5分間煮ると書いてあるところを、その代わりに300℃に熱したサラダ油で15分間揚げたら違った料理ができあがります(たぶんそれは食べられないシロモノでしょう)。

12ステップをやっても良い結果が出ない場合には、たいていこれと同じ間違いを犯しています。ビッグブックという手順書を読みながらも、そこから外れたやり方をして、違った結果をもたらしてしまっているのです。

手順が明確に確立されている点が12ステップの良いところです。

ただ、このビッグブックという本が少々分かりづらい本なのです。今は世界的に出版不況と言われ、本を読む人が減っています。しかし、この本が書かれた1930年代には多くの人が本を読んでいました。ラジオ放送が始まってまだ10年あまり、テレビ放送はまだ始まっていない時代です。人々は娯楽のため、教養のため、情報を得るために良く本を読みました。ビッグブックでも引用されているウィリアム・ジェイムスの『宗教的体験の諸相』は、この時代のベストセラーなのだそうです。こんな小難しい本がベストセラーになるなんて! ですが、ビッグブックはそういう時代の本なのです。

洗練された文章を書くためには修辞が欠かせません。「修辞って何?」といういう人は
wikipedia.jp:修辞技法
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%AE%E8%BE%9E
三省堂:修辞法
http://www.sanseido.net/main/words/hyakka/rheto/03.aspx
あたりを読んでください。ビル・Wは大学で修辞学を学んだだけあって、彼の文章は修辞に満ちています。たとえば、p.38にある、

「足もとに並べられた簡単な霊的な道具一式を手に取るよりほかなかった」

という文章は、12ステップに取り組むほかなかったと言いたいだけなのですが、転義法(比喩)という手法が使われています。

修辞された文章を読み慣れた人ならともかく、そもそも本を読み慣れていない人がビッグブックを読むと「???」ということになってしまいます。比喩を読み解くのが苦手な人たちもいて、「12ステップを足下に並べるってどういう意味ですか?」なんて質問が出てきたりします。(まあ、そういう質問が出てくること時代は真面目に取り組んでいるからこそだと言えますが)。場合によっては1行、1行解題していく必要すらあります。現代文に訳さないと枕草子が読めないみたいなものでしょうか。

一般に、子供向けの絵本やジュブナイル小説では修辞を少なくし、大人向けの小説やエッセイでは修辞を多くして凝った文章になります。村上春樹が人気があるのも、彼の修辞がある種の人たちの心の琴線をかき鳴らすからでしょう?

AAを最初に作ったのは、禁酒法と大恐慌の時代に酒で身を持ち崩した白人男性たちでした。経済的にも社会的にも落ちぶれた彼らには自らが身につけた教養しか頼れるものがありませんでした。また当時は人種差別も、男女差別も激しい時代であり、彼らがターゲットにしたのは自分たちと同じような白人たちでした(だからビッグブックの初版には白人のストーリーしか掲載されていません)。やがて、彼らの見つけた12ステップという原理は、人種・性別・貧富・教養のあるなしに関係なく役に立つことが分かってきてAAが大きく発展するのですが、ともかくAAを始めた人たちは、その時点では「本を読み慣れていない人たちのために、平易な文章でビッグブックを書く必要がある」とは考えなかったようです。

ビッグブックの内容(あるいは12ステップ)を批判する人たちは、その内容よりも、ビル・Wの修辞に惑わされてしまっている場合が多いのです。そういう人たちでも、12ステップの本ではないけれど同じAAの本である『どうやって飲まないでいるか』ならば受け入れやすいと言います。こちらのほうが平易な文章で書かれているからでしょう。

じゃあ、ビッグブックがそんなに小難しいなら、易しい文章に書き直したらどうだ? と思うかも知れません。しかし、それは無理です。ビル・Wやドクター・ボブは特別な存在であり、彼らの代わりができるメンバーはAAにはいないからです。ビッグブックの読みづらさ、使いにくさはAAの中で意識されていますが、現実問題として当面それが解決される見込みはありません。

ビッグブックを教科書とするなら、参考書みたいな本はいくつもあります。ビル・W自身も十数年後に『12のステップと12の伝統』(12&12)を書きました。しかしこれは、ビッグブックを補う立場の本です(なので12&12だけでは12ステップは分からない)。

他にもAAメンバーが12ステップの参考書・解説書を書いてきました。古くは『リトル・レッド・ブック』、『スツールと酒ビン』、最近訳出されたジョー・マキューのものもそうです。これらに人気があるのは分かりやすいからです。しかし、これらの参考書は「ビッグブックを置き換えることを目的としない」としています。あくまでもビッグブックを補うもので、ビッグブックの代わりにはなりません。

そんなわけで、AAメンバーが12ステップに取り組むときは、どうしてもこの小難しいビッグブックを相手にせざるをえません。だからこそ、その人を一人でビッグブックを読んで陥る「???」という状態から救い、手順通りにことを進める手助けをしてくれる介助者が必要になります。それがスポンサーの役目ですね。

他にも、12ステップに取り組むには、少なくとも数週間から数ヶ月の期間は必要ですし、もっと長い時間が必要な人も確かにいます。労力も時間もかかります。

また相手をするスポンサーが必要です。12ステップの中には自己査定が含まれています。しかし、自分で自分を吟味するのは大甘な評価になりがちです。自分で吟味するより配偶者や親に吟味してもらった方が正しい評価がされるぐらいなんです。でも妻に棚卸しを聞いてもらおうという人はまずいませんから、「もう一人のアルコホーリク」が必要です。その人の労力や時間も必要になります。

こうしたように、12ステップに取り組むには、それなりの労力と時間がかかるのです。これが12ステップの欠点と言えると思います。

最近では断酒補助薬も発売されました。薬を飲むだけで断酒維持率が約10%向上したそうです。薬を飲むだけで、10%改善されるのです。素晴らしいことじゃありませんか。12ステップよりもずっと簡単で、労力も時間も少なくてすみます。だが、それでも100%ではない。いままでのどんなやり方でも100%のものはありません。

それを考えると「12ステップさえあれば良い」とは言えません。他のやり方も必要だし、時には組み合わせていく必要もあるでしょう。

12ステップは、手間も労力も必要ですが、奥深い変化をその人にもたらすことが可能です。それは12ステップの利点であり、断酒補助薬ではなかなかこうした変化は呼び起こせないと思います。また、ビッグブックに沿って12ステップを提供できるスポンサーが日本のAAにはまだ少ないことも問題です。

20世紀には、アメリカでも日本でも、AAがビッグブックから離れていきました。それはビッグブックの文章の小難しさと無関係ではありますまい。近年になってAAの原点に立ち返ろうとする運動が起きてきました。それらは例外なくビッグブックを重用しています。しかし、その運動が、ビッグブックを書いた人たちが求めた教養を皆に要求するような展開になっては良くありません。原点回帰運動のキモは、テキストの内容をいかに分かりやすく伝えるか、にかかっていると思います。

当然僕自身にとってもビッグブックは難しい本です。何年取り組んでも十分分かったとはまだ言えません。けれど、彼や最初のAAメンバーたちが今の僕らに伝えたかったことを読み解いていくのは心躍る冒険です。


2013年10月11日(金) AAはAA、断酒会は断酒会

AAは「言いっぱなし、聞きっぱなし」というやり方でミーティングをやっています。AAに馴染みのない人には聞き慣れない言葉かも知れません。AAでやっているのは「ミーティング」といっても会議ではなく、他の人の発言に意見したり、批判したり、質問を挟んだりしません。人の話は黙って聞き、自分の順番が来たら話をする。このやり方を日本では「言いっぱなし、聞きっぱなし」と名付けています。

海外のAAでも、おおむねこのやり方だそうです。僕の数少ない経験からもそうですし、海外でAAに出席した人たちに聞いても同じです。

「言いっぱなし、聞きっぱなし」を英語で何というのだ? と聞かれることもありますが、それに相当する言葉はないみたいですね。ポピュラーだからこそ名前が必要ないってことなのでしょう。ビル・ホワイトの『米国アディクション列伝』では、これを「crosstalkを排除した」やり方と呼んでいます。

あらかじめ話し手が決まっており、他の参加者はそれを聞くために参加するというミーティングを speaker meeting (スピーカー・ミーティング)と呼びます。そうではなく、参加者の中から適当に話し手が選ばれるのを discussion meeting と呼びます。ディスカッションと言っても議論(debate)ではなく、その中身は「言いっぱなし、聞きっぱなし」です。

いずれにせよ、AAのミーティングは対話を排したやり方が主流です。なぜそうなのか理由は分かりません。意外に思われるかも知れませんが、AAは特に「言いっぱなし、聞きっぱなし」のやり方をするとは決めていません。別のやり方をしても良いのだし、実際別のやり方をしているところもあります。

僕はアメリカに行ったときに、講師役のAAメンバーがホワイトボードに図を描きながら他のメンバーにステップを「教えて」いるミーティングに出ました。その会場はたくさんの参加者で溢れかえっていました。また、ビッグブックを少しずつ読み進めながら、1行1行の意味を読み解いていく形式もあるそうです。メンバーお手製のテキストを使っているところもあります。参加者が「その場で」ステップに取り組むワークショップもあります。共通しているのは、経験の深いメンバーに新しい人が導かれていくという形式になっていることです。「議論(ディベート)」を行うやり方をしているところは聞いたことがありません。

最近、断酒会の関係の人と話す機会がありました。(具体的に名前を挙げて良いのか分からないので伏せておきます)。近年断酒会はその人数を減らしています。なぜ減っているのかその理由はいろいろあるのでしょうが、(AAの影響を受けて)「言いっぱなし、聞きっぱなし」を望む声が増え、そのように運営される断酒例会が増えたことも一因だろうという話を聞きました。

本来、断酒例会は「言いっぱなし、聞きっぱなし」ではないわけです。会員が順番に話をするという点ではAAの discussion meeting と同じですが、話をした後に、進行役である会長さんから、話の内容を褒められたり、逆に一くさり小言を頂戴したりします。あまり莫迦なことを言えば、他の「先輩」や家族からも批判を受けます。このようにして褒められたり、批判をされたりしながら、断酒会的な考え方と行動を身につけていくのが断酒会のやり方なのだそうです。

断酒例会を「言いっぱなし、聞きっぱなし」にしてしまうと、考え方や行動を修正する機会が失われ、回復が難しくなってしまう。それが会員の減らす原因(少なくともその一つ)になっているのだと。

では、AAはなぜ「言いっぱなし、聞きっぱなし」なのか。それは、AAにはミーティングの他にスポンサーシップという一対一の関係があるからです。メンバーシップ・サーヴェイという調査によれば、「スポンサーシップが弱体化した」という日本でもAAメンバーの半数はスポンサーを持っており、アメリカでは実に8割のメンバーがスポンサーを持っています。

スポンサーという言葉は日本では経済的な援助をする意味で使われますが、AAのスポンサーは本来の英語の意味(引受人の意)で使われます。AAの回復の原理は「12ステップ」に表されていますが、12ステップに取り組むのにスポンサーは欠かせないものです。AAに真面目に取り組む多くの人たちが、指導役たるスポンサーを持ち、一対一の関係の中でアルコホリズムから回復していきます。ただし、その関係は個人的なものであるだけに、公けに目立つことはありません。

このように「言いっぱなし、聞きっぱなし」だけに着目するのは片手落ちです。AAにおいてはスポンサーシップが回復をリードする(lead = 導く)役割をしています。スポンサーというのはリードする者(指導者)です。どのようにリードするかはそれぞれのやり方があるでしょうが、導く者とそれについていく者という関係が確かにAAの中にあります。また、本来の断酒会の例会は「言いっぱなし、聞きっぱなし」ではないことによって、例会そのものが回復をリードする(導く)場になっています。

ところが「言いっぱなし、聞きっぱなし」さえあれば十分だという考えの人たちが、AAの中にも外にもいます。導かれたくない人もいるし、回復に導きは不要だと考える人もいます。「言いっぱなし、聞きっぱなし」だけの場を作りたい人もいるし、実際それを作る人もいます。それはその人の自由でしょう。しかし、AAは「言いっぱなし、聞きっぱなしだけではない」ところです。

松村春繁が、高地で断酒会を始めたのは、下司孝麿医師にAAの存在を教えられたからだそうです。その後、彼は全国を回って断酒会を組織し、全日本断酒連盟の初代会長となります。彼は断酒会をAAの日本支部として認めるようにNYのGSOと交渉をしますが、GSO側ではAAの12のステップや12の伝統をそのまま採用することを求めました。それが日本人の気性に合わないと考え、断酒会はAAに合流することを諦めました。これが1960年代のことです。それ以降、断酒会とAAは別の道を歩むことになりました。日本で現在のAAが成立するのは1970年代になってからです。

断酒会がAAを参考にして作られたのは間違いありません。後に作られた「指針」と「規範」が、AAの12のステップと12の伝統の影響を受けているのも、その類似性からして明らかです。しかし、文化の移入がAA→断酒会の方向にだけ行われたと考えるのは誤りです。

断酒例会は「酒害」を語るところとされます。また「例会は体験発表に始まり体験発表に終わる」と松村語録にあります。「酒を飲んで酷いことをしてきた過去の自分」を語ることが推奨されます。しかし、本来AAではこの類の話はドランカローグとして避けられる傾向があります。AAのミーティングは「経験と力と希望」すわなち12ステップを伝える場であり、ステップの経験が望まれるところです。ところが、日本のAAではドランカローグ(飲酒譚)が好まれる傾向があります。これは、酒害や体験発表を軸とした断酒例会の影響を日本のAAが受けているため、と考えられます。

日本においてはAAは断酒会よりずっと後になって成立しました。AAグループが誕生するところでは、すでに断酒会が活動していることも珍しくありませんでした。AAのやり方をよく知らない人たちが、断酒会のやり方を取り入れ、それが「AAのやり方」として後の人たちに受け継がれていったことが少なからずあるはずです。

AAも断酒会も似ている部分があります。みんなで集まって順番に話をするところなど、そっくりです。しかし、どうやって回復を導くか、やり方はずいぶん違います。AAはAA、断酒会は断酒会です。似ている部分もありますが、違っているところも多い。違いは理由があって生じたものです。違っていなければ、別々に存在している意味がありません。

AAは「言いっぱなし、聞きっぱなし」だけでは成り立ちません。スポンサーシップがあればこそです。「言いっぱなし、聞きっぱなし」の部分だけに着目するのは、木を見て森を見ずです。


2013年10月07日(月) AAはどれほど有効か

AAに効果があるのか、それともAAには効果がないのだろうか・・・。

「AAに効果がないかも知れない」という話は、AAで回復した人にとっては噴飯物かも知れません。しかし、効果が「ある」か「ない」かは、議論の対象にすべきことです。

AAの有効性について良く言われることは、ビッグブックの「再版にあたって」にビル・Wが書いている言葉です。この「再版にあたって」は1955年に出版されたビッグブックの第2版に加えられた部分で、アメリカでAAが始まってからちょうど20年という節目の年でした。

「AAに加わって真剣に努力して取り組んだ人の半数は、すぐに飲酒がやめられて、飲まない生活を続けることができた。何度か再飲酒をしたがやめられた人は二十五パーセント、残りの人もAAにつながっているかぎり、良いほうに変わり、いろいろな改善が見られた。ほんのちょっとAAミーティングに顔を出して、プログラムが気にくわないと決めつけて来なくなってしまった人は何千人もいたが、そのうちの約三分の二は、後になって戻ってきた」(AA, p.xxv)

すぐに酒をやめられた人が50%、何回かスリップしたけれど最終的に酒をやめた人が25%。あわせて75%がAAで酒をやめていると述べています。これが「50%+25%=75%」という話です。

この文章が書かれてから五十数年が経過しました。どうでしょうか、あなたの周りのAAは75%という回復率を達成できているでしょうか?

「AAで酒をやめる人は数%」なんじゃないか、という話はよく聞きます。良い数字を挙げる人でもせいぜい2割ぐらい。ことによると100人に一人も助かっていない、なんて言う人もいます。AAはメンバーの名簿も作らないし、追跡調査もしないので、正確な数字は誰も知りません。でも、誰の言うことであれ、それなりに実感のこもった数字です。

いずれにせよ75%という数字に比較すると、あまりにも「しょぼい」数字です。するとさっそく原因探しが始まります。いったい何が悪いんだ? 1950年代のアメリカのAAと現代の日本のAAでは何が違うんだ?

あるいは、AA外部の人たちが、クライアントをAAに送り込んでもなかなか酒をやめてくれないので、「AAは役に立たない」なんて言う人もいます。

だが少し考えて欲しいのは、有効性とは何なのかです。

新しい薬を発売する前には、必ず「治験」が行われます。その薬が本当に効くのか(有効か)、また副作用がどれぐらい出るのかなどを確かめるために行う試験です。

治験を行う場合には、その新薬だけをテストするのではなく、比較対象となる薬を用意します。それは効果がない偽薬だったり、あるいは従来から存在する薬だったりします。いずれにせよ、新薬を飲む群と、対照となる薬を飲む群に分け、この二つの群の結果を比較することで、新薬の効果を判定します。

ところで、薬は誰もが真面目に飲んでくれるとは限りません。途中で飲むのをやめちゃう人もいますし、毎日飲みなさいと指示しても、一週間に二回しか飲まない人もいます。これを「服薬コンプライアンス不良」とか「服薬不遵守」などと言います。

服薬してない人が混じり込んでしまうと、データの精度が落ちて結果の比較ができなくなってしまいます。なので、そういう人のデータは集計時に取り除かれることになります。

このように「有効性を議論する場合には、条件を守った人の結果のみ採用して集計したデータを用いる」ということが前提になっています。

AAが効果を上げるには、対象者がAAミーティングに通い続けるという条件があります。AAは一生ミーティングに通い続けなさいとは言っていませんが、回復の初期におけるAAミーティングの必要性はAAの様々な書籍やパンフレットで強調されています。

AAミーティングに通ってこない人には、AAは効果を現しません。しかしミーティングに通うように言われても、途中で出席をやめてしまう人もいます。これは薬で言えば、途中で服薬を止めてしまったのと同じです。「ミーティング出席コンプライアンス不良」とでも言いましょうか^^;

ところで、先ほど、現在の日本のAAの回復率の話をした時に出てきた数字は、分母に「AAミーティングに通うのをやめてしまった人たち」まで含んでいるのじゃないでしょうか。服薬をやめてしまった人たちまで含めてデータを比較したら治験にならなくなります。AAミーティングの有効性の議論をするときも同じでしょう。回復率の計算をするには、ミーティングに来なくなってしまった人たちの数は分母から取り除かないとなりません。

AAをある程度長く続けている人なら、「頻繁に再飲酒を繰り返したけれど、めげずに根気よくAAミーティングに通い続け、最後には安定したソブラエティを達成した人」という少なくとも一人は知っているのじゃないでしょうか。

「AAミーティングに出席を続けている人の中で、酒をやめている人の割合」を計算すれば、どれぐらいの数字になりますかね? その数字が有効性とか、回復率ですよね。

先ほどのビルの上げた数字をもう一度見ると、「AAに加わって真剣に努力して取り組んだ人」という条件が加えられているのに気がつきます。「ほんのちょっとAAミーティングに顔を出して、プログラムが気にくわないと決めつけて来なくなってしまった人」は分母から除かれているのです。

でも、それは数字のマジックでもごまかしでもない、有効性の議論をするなら、それでいいのです。

僕はAAの有効性はちっとも損なわれていないと思います。きちんと評価すれば、今の日本のAAでも75%ぐらいの数字は出るのじゃないでしょうか。

もっとも、有効性の話と服薬コンプライアンスの話は別のものです。服薬コンプライアンスの悪い薬ってのはあるものです。妙に大きくて飲みにくい薬とか、一日に何度も飲まなければならない薬は、コンプライアンスが悪くなります。

その点ではAAも、ミーティング出席コンプライアンス?が改善されるような努力が必要です。「引きつける魅力」がないとなりませんし、会場がたくさんなければ遠くまで通うのが負担になりますし、良いスポンサーがたくさん供給できたほうが良いでしょう。AAの本質を曲げずに改善できるところはたくさんあります。

もちろん、AA側で改善すべきことなのですが、一人のメンバーとして言わせてもらえば、AAの外側でももうすこし努力して欲しいと思います。「AAが良いのは分かりますが、患者さんがAAに行きたがらないんですよ」などと言い訳をぶつくさ言っている医療関係者に出会うと、それをその気にさせるのがあなたの仕事じゃないの? と内心ツッコミを入れたくなる時もままあります。そういう言い訳がましい人は、患者がAAに通い始めると後はAAに丸投げ・・っていう良くないパターンだったりするわけです。

薬を処方するときには、どの薬がこの患者に合うのかって考えて出すわけでしょ。それを考えずにいつも同じ薬ばっかり出して、効果が出なかった時に、患者や薬のせいにしてたら良い医者とは言えません。AAにも合う人合わない人がいるわけですよ。「どんな人がAAに合うか」を考えもせずに、誰でも彼でもAAに送り込もうとするのは良い援助者とは言えません。

ああそれから、ビル・Wは、すぐに来なくなった人の「約三分の二は、後になって戻ってきた」と書いているでしょう。2/3という高い割合かどうか分かりませんが、年単位で観察していれば、かなりの割合の人がAAに戻ってきます。断酒が続いている間はまず戻ってきませんし、死んでしまっても戻ってこないわけですが。たいていは飲み続けた挙げ句に戻ってくるか、ある程度の期間飲まないでいても再飲酒してしまった時がAAに戻るチャンスです。酒がやめられない、あるいは再飲酒というのは、その人にとっては危機に違いありません。しかし、やり方を変えるチャンスでもあるのです。

話がすっかり逸れちゃったので、元に戻してまとめますと、AAの有効性は決して低くありません。高い回復率を達成していると言っても良いでしょう。しかし、その恩恵にあずかるには(薬を飲み続けるように)ミーティングに通い続けるという条件が守られねばなりません。そこに難しさがある。改善すべきところはそこでしょう。


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by アル中のひいらぎ |MAILHomePage


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