心の家路 たったひとつの冴えないやりかた

ホーム > 日々雑記 「たったひとつの冴えないやりかた」

たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
もくじ過去へ未来へ


2013年08月28日(水) 人は行動する前にまず信じる

東京に行くと、高さ634メートルの東京スカイツリーを見ることができます。

僕はその東京スカイツリーを例に使って話をすることがあります(一部はジョー・マキューの話のパクリですが)。

「なぜ東京スカイツリーが建っているのだろうか?」

それは誰かが頭の中で巨大な電波塔が建っている姿を想像し、それが可能だと「信じた」からです。それがなければ始まりませんでした。もし、600メートルを超える電波塔は建てることができると信じる人が誰もいなかったら、いまスカイツリーはあそこに存在していないはずなのです。

誰かが信じたのです。そして、その信じるところに従って計画が立てられ、資金が集められ、設計が行われ、多くの人が建築にたずさわって電波塔が完成しました。そうした「行動」に先だって、まず「信じる」ということが行われているはずなのです。

あなたが誰かに雇われて働くとしましょう。一ヶ月労働をして、翌月の終わりぐらいに賃金が払ってもらえるとします(月末締めの翌月末払い)。月の初めから働き出すとすれば、給料がもらえるのは2ヶ月近く先になります。そんな先のことなのに、あなたが「ここで働かせてもらおう」と決めて働くのはなぜでしょうか?

それは、来月末には給料を払ってもらえる、という結果を「信じる」からです。それを信じることができなかったとしたらどうでしょうか。つまり、この雇用主は絶対給料を払ってくれない、と確信できる何かの理由があったら(誰だってただ働きは嫌ですから)別の仕事を探すでしょう。

労働するという「行動」に先立って、報酬を得られることを「信じる」ことが行われています。

人は結果が明らかでないものでも「信じる」ことがあります。例えば宝くじです。宝くじが当たる確率は非常に小さい。けれど、その確率はゼロではありません。しかし人はその小さな可能性を「信じる」から、宝くじを買い求めます。もし決して当たらない宝くじがあったとしたら、誰も買わないでしょう。そこには小さな可能性すらないからです。

つまり人は、まず結果を信じる。結果が定かでないときでも可能性を信じる。そして、信じたことに従って行動を起こすのです。その行動が結果を生み出します。

アディクションからの回復についても同じことが言えます。まず自分が回復できることを信じなければ始まりません。信じることができれば、それに従って行動し、行動の結果として回復を手に入れるでしょう。

けれど自分の回復を信じることはなかなか難しいことです。「回復したい」と口で言う人も、実は自分が回復できる可能性を信じていないものです。信じていないから、行動を起こすこともなく、現状維持を狙います。その人が依存症ならば現状維持はできません。螺旋階段を下るように、同じことを繰り返しながら徐々に悪くなっていくだけです。

依存症者の家族についても同じことが言えます。「この人に回復して欲しい。酒(や薬)をやめて立ち直って欲しい」と口で言っていても、本当にそうできると信じているとは限りません。

酒をやめることには失敗(再飲酒)がつきものです。失敗を繰り返すと、本人も周りの人たちも成功信じることが難しくなってしまうものです。

ではどうすれば良いのでしょうか。簡単なのは成功した実例を見ることです。

スカイツリーを作る前に見ることはできないわけですが、似たような電波塔は世界にたくさん建っています。カナダ・トロントのCNタワーとか、広州塔とか。そういった例を見れば、スカイツリーが完成することを信じることはできます。

また、働くということについて言えば、周りに働いて金を稼いでいる友人たちがいれば、「働けば報酬がもらえる」ということを信じることができるようになります。

実例を見せるということは、人を説得する(何かを信じる気にさせる)ときによく使われる手段です。

依存症からの回復についても同じことが言えます。実際に酒や薬をやめて、社会に戻って活躍している人の姿を見て、その人たちの経験を聞けば、「酒や薬をやめることは確かに可能なのだ」と信じることができます(これを一般的効力感と呼びます)。

AAがオープン・ミーティングをやっているのは、まだ酒をしっかりやめられていないアルコホーリクやその家族に回復の実例を見せる、という目的も含まれています。(だから、オープン・スピーカーズ・ミーティング(OSM)などのAAイベントには積極的にAA以外の人を招き入れる工夫が必要なのですが、その話は別の機会に譲りましょう)。

僕は時々、依存症者のご家族から「どうしたら良いか」という相談を受けることがあります。この場合の「どうしたら良いか」は、依存症者本人に「何をやらせたら良いか」という意味です。それは、グループのミーティングに通ったり、医者に行ったりすれば良いでしょう。問題なのは、ご本人がそうした行動を取りたがらない場合です。

その場合には、本人を治療に結びつける努力が必要です。その努力の多くは家族が担わざるを得ません。しばらく前までは、本人の底つきを促すためには「家族は手を出さずに何もしない方が良い」と言われていたのですが、最近ではジョンソン式介入やCRAFTなどの「家族がすること」が日本に紹介されつつあります。つまり家族に行動が求められることになります。

上に述べたように、行動に先立ってまず「信じる」ことが必要です。それは「私の愛する人が、酒や薬をやめて立ち直れる」と信じることです。「そうなって欲しいと願う」ことと、「そうなるという結果(あるいは可能性)を信じる」ことは別物で、この二つには隔たりがあります。

だから本人が行動を取りたがらない場合には、家族の人が「AAのオープンミーティングや断酒会に行かれたらどうですか?」と勧めています。もちろんアラノンも役に立つでしょう。依存症のジャンルが違えば別のグループを紹介すれば良いことです。

酒をやめるのは本人なのに、なぜ家族がミーティングに通わなければならないのか? という疑問に出会うこともしばしばです。家族自身の回復のためという理由もありますが、家族が「行動」を起こすためでもあります。家族から本人に何らかの働きかけをするにしても、その行動を続けて行くには「信じる」ことが必要なのです。信じる気持ちを持ち続けるためには、回復の実例を見聞きし、同じ目標を目指す人たちと一緒の時間を過ごすことが役に立つのです。

信じる気持ちを持てない家族は(本人同様に)現状維持を選びます。しかし依存症に現状維持はありません。徐々に悪くなっていくのを傍らで見守ることになります。

依存症が放っておいて自然に良くなることは滅多にありません。回復のためには行動が求められます。そして人の行動には、それに先だって結果(あるいは可能性)を信じる気持ちがある。だから、まず信じることが大事です。信じることができないのなら、まず自分が「信じるようになれる」ことを信じなくてはなりません。

それほどまでに「信じる」ことは重要なのです。


2013年08月05日(月) 日本アルコール関連問題学会岐阜大会の印象(その2)

7月に岐阜で開かれた日本アルコール関連問題学会の大会の感想、その2です。

大会ではシンポジウムや分科会がいくつも開かれており、取り扱うテーマは多岐にわたっています。またこうした学会に限らず、日本国内あちこちで、年がら年中、依存症関係のセミナーや講座がいろいろと開かれています。こちらもやはり様々なテーマを扱っています。

そうした多数のテーマを僕なりに分類すれば、ざっくり二種類。

共通する問題(コモンプロブレム)
個別(その人固有)の問題(スペシャルニーズ)

に分類できます。

まず共通する問題についてです。一口にアルコール依存症の問題と言っても、病気を予防する立場からは国民全体のアルコール消費量の低減や未成年者飲酒の予防などの話になります。いったん病気になってしまえば、治療に結びつけるための介入(インターベンション)が必要ですし、治療の現場では断酒を決意させる動機付けや教育が必要になります。断酒の前段階として節酒という目標もありかもしれない、という話を前の雑記でしました。そして断酒が始まれば、再発の予防が必要です。

AAはこのアルコール依存症に対する長い取り組みのうち、その最後尾である「再発(再飲酒)の防止」に取り組んでいるところです。

この一連の流れはすべてのアルコホーリクに共通のものですし、再飲酒は断酒したすべてのアルコホーリクに起こりうることですので「共通の問題」という分類に入れておきます。学会の大会でも依存症に対する心理療法を扱った分科会がありました。12ステップも同じく「共通の問題」を扱うための手段です。

さて次は、もうひとつの個別の問題についてです。これは非常に多岐にわたります。

例えば就労問題です。断酒して就労することを考えます。酒が原因で職を失わなかった人はそのまま働き続ければ良く、仕事を失っても新しい仕事に就ける人はそれで良いわけです。しかし、なかなか仕事に就けない人もいるし、仕事についても続かない人もいます。こういう人たちには就労支援が必要です。

若い頃から荒れた生活をしていたので定職に就いた経験が薄い人や、そもそも学校にすらマトモに通ったことがない人もいます。手に職をつけるために資格を取ったり、通信制の学校で高卒・大卒を再度目指したり・・という就学支援が必要な人もいます。

発達障害や知的障害が疑われれば、評価をして、公的な支援にむすびつけねばなりません。

洗濯・掃除・ゴミ捨て・炊事などの身辺の管理がおぼつかない、中には清潔を維持する習慣すら怪しい人もいますから、集団生活でそれを身につける訓練が必要な人もいます。こういう人が若くしてシングルマザーになったりすると余計大変です。

一番ありがちなのが金銭の管理ができずに(生活保護であれ親族の援助であれ)もらった金をぱっと使っちゃって生活費が足りなくなったりする。こういう人にはお金を預かる金銭管理の支援が必要です。

うつ病やパーソナリティ障害などの精神疾患も、こちらに分類して良いでしょう。

こうして見てみると「個別の問題」は非常に多様であり、一人ひとりに固有のものです。だからこれをスペシャルニーズと呼びましょう。そして、このスペシャルニーズは依存症の問題「ではない」のです(少なくとも共通した問題ではない)。

そこを見極めるには頭を使わねばなりません。例えば就労できないのでギリギリの生活費しかないのに、金銭管理ができないので自分の使いたいことにお金を使ってしまって、生活費が足りなくなる。身の回りのことも十分できない・・そんな人が、男をつかまえて生活費を出してもらおうとか、女をつかまえて身の回りの世話をしてもらおうとか、そういう隠れた意図で異性関係を結ぶのは良くある話です。当然上手な関係が築けるわけもなくトラブルになります。それを異性依存(男性依存・女性依存)などと名付けて、「アルコール依存が異性依存にシフトしましたねぇ」などと言って普遍性を発見したように思っている支援者を見ると、このクソ馬鹿野郎○ね!とか思ってしまいます。

その人の問題を良く分解してみれば、社会経験の圧倒的な不足だったり、あるいは知的な弱さだったり、その人固有のスペシャルニーズが見えてくるはずです。

不思議なことに(?)そうしたスペシャルニーズを抱えた人は、パチンコにはまり込んでみたり、スマホのゲームにどっぷり使ってみたりします。それを表面上だけ見てギャンブル依存とかネット依存と見なしてしまうのも残念なことです。

(ギャンブル依存や性依存の存在を否定するわけではありませんが、ギャンブルや性の問題がある=依存症ではありません)

そしてその固有の問題は、実際にソブラエティやクリーンを維持する妨げになっているので、解決のために手助けが必要なのは間違いありません。AAのミーティングに通ったり、12ステップに取り組んでも、そうした個別の問題に対する手助けは期待できません。また家族が支援者に相談に行っても、その支援者がこうした問題が見えていないクソ馬鹿野郎様だったりすると、「家族の手助けは共依存ですから突き放しなさい」とか助言してしまい、家族がそれを真に受けて事態が泥沼化してしまったりします。

こうしたスペシャルニーズを抱えた人は目立ちます。普通の支援だけでは安定した回復に結びつかず、スリップを繰り返しがちな「困難ケース」になりがちだからです。病気が重い人、回復する気(やる気)のない人だと事情を知らない人たちからは思われがちです。でも依存症という病気が重いかどうかは分かりません(ひょっとしたら依存症ですらないかもしれない)。

クソ馬鹿野郎様でない良心的な支援者は、そうしたニーズを抱えた人を集めて支援を試みます。そして、それが功を奏して結果を出します。そして学会の大会や各地のセミナーで発表されていたりします。うん、あなたは素晴らしい支援者だ・・・が、ちょっと待って。それって「アディクションの支援」とは違うんじゃないですか?

アルコホーリクは働かないと飲んでしまうから、就労支援が一番良い、という人がいます。確かに、働ける人は働くべきだし、働きづらい人には綿密な支援が必要です。でも、それってアディクションの支援とは違いますよね。その人の抱えるスペシャルニーズへの支援です。

その人の問題をよく見極め、その人に合った支援をする。画一的な病気への支援とは違う「人に対する支援」です。たしかにそういう言葉を聞く機会が増えてきました。本質だと思います。

さて、このスペシャルニーズへの支援をアディクションの支援者(例えばAAスポンサー)がするべきなのでしょうか? 僕は多様なニーズに応えられるのが良いスポンサー、良い支援者だと思ってきました。けれど、最近では様々なことに手を出すより「共通する問題」に集中したほうが良いように考え直しています。

僕は数年前から発達障害のことに関心を持って、いろいろ学んできました。発達障害のことについては(例えば自閉症の支援者などが)20年、30年に及ぶ支援の経験と知識を集積しています。アディクションに関わる人間が一からノウハウを蓄積しようとするより、任せられるものはその道の専門の人に任せてしまった方が良いんじゃないでしょうか。

知的障害にはそのための施設や支援者があるし、精神障害についても同様。単なる就労支援だったらリワーク施設があるし、金銭管理だったら社協の任意後見制度を使っても良い。(それが使えればの話ですが)。多様な支援メニューを目指すよりは、むしろそういった他分野の専門家と連携して協力できることの方が大切ではないかと。

こうやって共通の問題スペシャルニーズというふうに分類してみると、今自分が取り組んでいる問題がどこに位置するのか見えてくるかもしれません。

依存症は解決が難しい問題です。5年、10年と酒をやめ続けられる人は多くありません。多くの人たちが、本人も、家族も、支援者も、解決を見出そうとしています。その中で成果を上げたことが次々と発表されてきます。けれど、12ステップのような共通の問題への解決策がスペシャルニーズを解決できるわけではありません。また、スペシャルニーズへの対応策が依存症全体の問題を解決できるわけでもありません。全体像を見失うと、右往左往することになります。

問題があって、解決がある。まず問題が何か見極めることで、解決作が見えてくる。ステップ1の教えです。岐阜でのアルコール関連問題学会の大会では、依存症に限らずその周辺も含めて様々な問題が扱われていました。一つの箱の中にたくさんの問題と解決が詰め込まれていたようなものです。まさにアルコール「関連問題」学会なんだなぁ、とその名前のことを深く納得した二日間でした。


もくじ過去へ未来へ

by アル中のひいらぎ |MAILHomePage


My追加